「これ、ください」
ガラスケース越しに、少女は小さなチョコケーキを指差した。チョコクリームで飾られてはいるものの、他にフルーツがあしらわれているわけでもなく、こじんまりとした地味なケーキだ。両隣にあったらしい季節のショートケーキやフルーツタルトは既に売り切れてしまったらしく、ぽつんとケースに残されている様が悲しい。
下段にはショートケーキもまだ残されており、いちごと生クリームの鮮やかな紅白に彼女はどうしても心惹かれた。しかし、その気持ちをぐっと飲み込む。松葉……彼女の双子の弟は、ショートケーキが苦手なのだ。
商品名を伝えなかったものの、周囲に商品が残っていなかったことが功を奏し、店員はすぐに目当てがどれか気付いてくれた。ケースからチョコケーキを取り出す店員に注文を追加する。
「あと、チョコプレートも追加でお願いします」
「かしこまりました。メッセージはいかがなさいますか?」
「誕生日おめでとう、で。名前は入れなくて大丈夫です」
「かしこまりました。ご一緒に蝋燭はご入用ですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「ドライアイスはお付けしますか?」
「あー…………っと、付けて貰ってもいいですか? 持ち帰り時間は三十分くらいです」
「かしこまりました」
一通りのやり取りを終えると、気の良さそうな店員がにこりと少女に微笑みかける。頬に浮かぶ笑窪が愛らしい人だった。そのままレジの前へ移動して、別の店員に会計をして貰う。その間に準備が整ったらしく、すんなりとケーキを受け取ることが出来た。仕事が早い。
ありがとうございます、と少女は一礼して店を出る。すると、桜も散った春だというのに、日の落ちた外は予想以上に風が冷たい。マフラーやカーディガンを脱いだセーラー服の彼女には、その冷たさが身に染みた。くしゅんとくしゃみが一つ飛び出す。
「……ドライアイス、要らなかったかなあ」
ぽつり、少女が呟く。実際、この店から彼女の家までの距離はそう遠くない。歩いて十五分程度だし、買い物も既に済ませているので特にどこかへ立ち寄るような予定もない。
それでも、ケーキが少しでも崩れるのが嫌だった。
(……これは、咲良と松葉のバースデーケーキだ)
どんなに味が変わらなくても、お祝いのケーキが崩れてしまったら台無しになる。だから、余分にドライアイスを貰ったことくらい、大目に見て貰いたいなと、少女……香野咲良はケーキ屋をちらりと振り返る。彼女を接客した店員二人は既に他の客の相手に忙しいらしく、彼女の視線に気付く様子もなかった。
「ま、いっかあ」
咲良はのんびり呟きながら、自宅への帰途に就く。ケーキを揺らさないように意識を集中させる分、反対の手に持つ買い物袋がガサゴソ揺れた。本日の夕飯の材料だ。中に入っているものを思い出し、多少揺れても問題ないことを思い出す。
今日の夕飯は、たらこのクリームパスタにポテトサラダ、ピクルスとコンソメスープ。
普段は割引にならなければ買わないたらこも今日ばかりは大きくて立派なものを奮発した。ピクルスはプチトマトときゅうりに大根を漬ける。あまり酸っぱくなっても食べづらいので、家に帰ってから調理すればいい塩梅に浸かるだろう。コンソメスープは玉ねぎと人参とベーコン、それに食べる直前クルトンを浮かべれば完璧だ。……ポテトサラダは作るのが面倒なので総菜に頼ってしまったけれど、食後にケーキも並ぶことだし、割と豪華な夕飯になる。
「よーっし、頑張ろーっと!」
買い物袋をしっかりと持ち直し、己に喝を入れる。しかし、咲良が想像していたよりも彼女の声は大きかったらしく、すれ違いざまに通行人がじろじろと彼女を見遣る。その視線ににっこりと微笑みを返し、咲良はマイペースに歩き続けた。
***
「……うん、完璧!」
予定していたメニューを全て作り終え、満足げに咲良が頷く。コンソメスープからはゆらゆらと湯気が立ち上り、良い香りが鼻腔を擽る。敢えて最後にほぐしたらこを混ぜたクリームソースは淡いピンクに染まっており、上にちょこんと載せられた青じそが良いコントラストになっていた。買ってきたポテトサラダもレタスの上に盛り付けて、フライドオニオンをぱらぱら振れば少しおしゃれだ。
咲良は己の仕事に対して満足げに鼻を膨らます。……そして、ポテトサラダの皿にラップを掛けると冷蔵庫へ仕舞った。鍋に入ったスープやパスタソースはそのまま蓋をしてしまい、皿に盛りつけられることもなかった。
「ちゃんと早く帰ってきたら、一番美味しい状態で食べられたのにねえ」
歌うように、咲良は言った。
現在時刻、十九時過ぎ。この家にいるのは咲良一人だ。彼女の双子の弟は、下校時間を優に過ぎているというのにまだ帰らない。どうせ咲良と一緒にいる時間を少しでも減らしたくて、どこかで時間を潰しているのだろう。
母を亡くしてから男手一つで双子を養っている父は、当然まだ仕事をしている。……とはいえ、咲良はこの頃父の顔を見ていない。子供に関心のない彼は、双子に金銭面の保証はするが、それ以外では二人をいないもののように扱う。
(いないもののように、というより、お父さんの中に、咲良と松葉はいないんだろうな)
けれど、今更何の感慨も湧いてきやしない。咲良は何も思わずに、冷蔵庫に仕舞っていたケーキの箱を取り出した。チョコレートのプレートを避けてから、ケーキに熱した包丁の刃を入れる。じゅうっ、とクリームが溶けてケーキから僅かに煙が上がる。
「あちゃ、ちょっと歪になっちゃった。綺麗に三等分するのは難しいねえ」
よく見れば、それぞれの大きさが少し異なるケーキのピース。それらを少し見定めて、咲良は一番大きいものにチョコプレートを載せた。一つだけを皿に載せ、あとの二つは再び箱に入れて冷蔵庫に戻す。松葉が帰ってくれば、勝手に自分で食べるだろう。
そして咲良は、一番小さなケーキとフォークを持ってテーブルに着いた。最近、彼女の胃は食べ物を拒否しているようで、食べればその分戻してしまう。どうせ量は食べられないんだし、大きさがばらけて丁度良かったのかもな、と彼女はプラスに考えることにした。
「頂きます」
手を合わせ、フォークでケーキの先端を掬う。毎年買っているそれはいつもと変わらず、口内の温度でチョコクリームがまったり蕩けた。ふわふわのシフォンケーキが舌に優しい。振りかけられたココアパウダーはビターな味わいで、全体的に甘さは控えめだ。もう少し甘ければいいのに、と咲良は毎年そう思う。
けれど、咲良は毎年、弟の口に合うこのチョコレートケーキを買っていた。愛情や思いやりではない、ただ、「自分は姉だから下には譲らないといけない」という義務感で。ほんの数分、産まれたのが早かっただけの咲良に姉の立場を押し付ける人など、これまで誰もいなかったのに。
チョコレートのプレートもそうだ。彼女らの母が存命のときは、パキッと半分に割ってくれていた。二人の母は二等分にするのがとても得意で、割られたプレートはいつもきっちり同じ大きさだった。
しかし、咲良はどうしても、プレートを半分に割るのが苦手だった。どんなに丁寧に割ってみても大きさはばらけてしまう。それなら包丁で切ればいいと思いついたが、結局実行に移す前に飽いてしまった。
お母さんのように、綺麗な半分こには出来ない。ならいいや、全部松葉にあげてしまおう。だって咲良、お姉ちゃんだし。
そうやって諦めてから、彼女の口にチョコレートのプレートが入ることはなくなった。大人な甘さのチョコレートケーキより、安っぽい甘さのプレートのほうが好きだったことも、彼女はすっかり忘れてしまっている。
「もー、にがーい。松葉、何でこんなの好きなんだろ」
文句を言いながら、ケーキを薄く削り取るように、少しずつ、少しずつ食を進める。胃の底がぐっと盛り上がってくるのが感ぜられ、喉の奥、食道の入り口がきゅっと締まった。腹の底でぐるぐる渦巻く吐き気を堪え、一口、また一口とケーキを口に運ぶ。
苦しさ、食に対する生理的な嫌悪の涙が目に浮かび、咲良はそれを乱雑にぐっと服の袖で拭った。そして、気持ち悪さを逃がすように、ふうっと大きく息を吐く。
「……ハッピーバースデー、咲良」
誕生日プレゼントは、もう二度と目覚めないことがいいなあ。
死に憧れを抱く少女はそんなことを考えながら、好みでもないケーキを少しずつ削っていった。