極夜 「終わらない夜」「夢うつつ」「深窓」
夢を見るの、と彼女は言った。まだ眠りの淵から完全に目覚めてはいないのか、眼差しはとろりと蕩けて柔らかい。軽い欠伸を喉奥で噛み殺し、ベッドから上体を起こした体勢のまま、彼女は語り続ける。
夢を見るの。それも毎晩、繰り返して同じ夢を。夢の中での私は今の私と全く同じ、家も両親も友人も何も変わらない。けれど一つだけ違うのは、夢の中では夜が一度も明けないの。ずっと同じ、お日様が姿を現さないのよ。
そうね、現実で起きる現象で言う、極夜に似てるわ。ご存じ? 白夜の対義語。始まらない夜と終わらない夜。不思議ね、私、現地でそれを見たことなんて一度もないのに、それとそっくり同じなのよ。
昼も夜も判らない世界は恐ろしいわ。私は本当にこの世界に生きているのかしらって不安になるの。夢の中の人々の肌は随分と白かったわ。まるで蝋で出来た人形のようだった。陽の光を浴びないせいよ。それに手足が随分と細かった。外に出て運動をしないせいね、きっと。私の知っている顔、私の知っている声で笑う人々の身体が、私の知らない貧相なものなのよ。……恐ろしかったわ、だって、私以外、誰もそのことに疑問を持っていないんですもの。
夢の中で、何か他に起きることはないか、ですって? ……いいえ。何も、何も起きないわ。ただ家の中にいるだけ。穏やかな日々よ。それが恐いの。だって、そんな日常なのに……毎日、毎日同じ夢を見るのよ? 最近は眠りたくないの。珈琲を飲んで、頬を抓って……それでも人間である限りは眠らないと生きてはいけないんですものね、気が付けばまた夢の中にいるのよ。……嗚呼、駄目。まだ眠いわ。ベッドから出なくちゃね。
そう言って、彼女は眠たげに目を擦り、のそのそと緩慢な仕草でベッドから這い出る。その顔は、彼女が先ほど語った夢の中の人々のように真っ白で、手足は棒切れのように細かった。深窓の令嬢らしく気品あるその顔立ちには疲労の色が濃く浮かび、目の下にはどす黒い隈がくっきりと見えている。
……可哀想に。純粋な憐みが心に浮かび、僕はそっと手を伸ばして彼女の頭を優しく撫ぜた。きょとん、とこちらを見遣る彼女の頬は痩せこけていて、どこから見ても病人のそれである。
「……極夜と言ったね。その夢が恐ろしいのなら、今度白夜の写真を持ってきてあげよう。始まらない夜を眺めれば、夢の内容も変わるかもしれない」
「本当? それは……嬉しいわ。そうね、終わらない夜の悪夢を塗り潰すには、始まらない夜を見るのは効果的かもしれない」
僅かに少女の表情が緩む。こちらを疑う気配もない無垢な視線は痛かった。
生白い肌。細い手足。それは彼女の抱える病によるものだった。尤も、本人はそれを知らないようだ。不治の病であると医者から宣告された彼女の両親が選択したのは、愛娘にそれを報せず、家で静かに生きさせる……緩やかに生を終えさせることだった。
夢を見るからやつれるのではない。病に罹ったから悪夢を見るのだろう。それも知らない少女の純粋さは見ている者には随分痛い。結末を変えられないならば、せめて安らかに残りの生を過ごさせてやりたいと思うのは、周囲の人間のエゴなのだろうか。
「……さ、眠りたくなくてもベッドにお戻り。まだ眠いのだろう? 寝不足は身体に悪いよ」
「うう……眠らなくては、駄目?」
「駄目だ。ちゃんと睡眠を摂らないと白夜の写真を持ってきてあげないよ?」
「…………寝るわ」
たっぷりの沈黙を置いた後、彼女は苦渋の決断を下したかのような顔をして頷いた。素直にベッドへと戻った彼女に優しく布団を掛けてやる。目元をそっと撫でれば睫毛が手のひらを擽る感触があり、その後きちんと瞼を下ろしたことが確認出来た。
「おやすみ。どうか、良い夢を」
そっと額に唇を落とす。告げた言葉は、半ば祈りのようだった。