田中さんはどうしようもなく憂鬱な気分になった夕方、列車の中で悟った、些細なあきらめについての話をしてください。
 うすら甘いだけの砂糖水を舐めているような気分だ。
 でもそのほうがただしい。普通に生きるというのは、うすら甘い砂糖水を舐めながら生きるということだから、そのほうがいい。
 東京の電車で通勤をするのは人間の限界を超えた行為だと、たまに、宇宙人くらい遠い目線で思うことがある。ごらんください、あれが東京の名物、満員電車ですよ。狂気の沙汰ですね。そう思うよ、と俺は、宇宙人に向かって返事をする。その瞬間、少しだけ幸福になる。
 まあ別に、と、でも思っている。会社から離れたところに住むのって意味分からないと思って選んで住んでいるので、実はこの中に閉じ込められるのは一駅なのだ。しかも今日は早めに上がったので、まだラッシュが始まる前なのだ。だから、全部マシ、そう、俺の人生は、いつでも、少しずつ、全部マシだった。
 うすーく溶かした砂糖水の人生。でも皆そうじゃないか。だから俺は憂鬱な気分になるべきではなかった。皆そうで、当たり前で、宇宙人から見たときだけ、奇妙に思える、そういう風景なのだから。
 スマートフォンが通知を鳴らす。俺は手にしたままだったそれに視線を向ける。ソシャゲを辞めてから、電車の中で画面を眺めなくなった。ただサブスクの音楽が流れているだけの画面に、通知がひとつ来て、とたん、体内の糖分濃度が、上がった、気がした。
 ああ、こういうものなら、だれもが恋愛にふけるのは、当たり前だろう。
 うすら甘い夕暮れから、甘ったるい夜に取り替えることができるのなら、これが依存でも何でも構わないと思った。
『電車を何駅も乗らせて、大変恐縮ですが』
「乗ってるだけだから別にいい」
『しかも遅くに』
「まだ夕方だから別にいい。本題は?」
『ちょっと付き合って欲しい場所があって。ひとりで行きづらくて』
「行くよ」
 どこまででも。
 頼られている、と思うと、糖分濃度がもう少し濃くなった気がした。俺はソシャゲを辞めたのだが、これを続けているなら、そんなに変わらない、という気もした。
 ひとめ見ただけで、期待をするだけで、頭の芯までキンと冷え渡り、心臓が高鳴り、喉が渇いて、全身に糖分が行き渡っていく、この感覚が欲しくて、皆必死で何かを引き寄せるのが、それが地球の暮らしなんですよ。宇宙人さんも、ご理解頂けましたか?
佐藤さんは日が落ちるのがずいぶん早くなったころ、大理石の床のロビーで結局くたびれもうけだった話をしてください。
「わざわざ来てもらってごめん」
「別に……いい飯が食えたし」
 謝ってなお肩を落としていたら、田中は普通の感じで続けた。普通の感じというのは、気を遣っているわけではなく、元気づけるとかでもなく、いたってフラットに、ということで、僕はそれが割と、嬉しかった。というか、そういうところ、田中のいいところだな、と思った。
 とにかく、田中は普通の感じで、ホテルのロビーを歩きながら言った。
「というか、俺はここに来て、いい飯を食って、佐藤と過ごすのが目的だったんだから、損はしてないんだけど」
「まあ……それはそうか。それは、うん、そうだな」
「佐藤の時間は無駄になったか?」
 僕は返答に窮した。そういういわれ方をしたら、ただたんに背伸びしたデートが成功しただけ、とも言えた。仕事だったのだが。捜査対象が来店するはずの店で、経費で落ちることを祈りつつできるだけ安いコースを頼んで、あとは田中があんがい如才なく振る舞っているのを眺めているだけだった。
 会社帰りの田中と一緒に、少し奥まった場所にある、悪くないホテルに来ている。襟のある服は着てる? という質問から入った唐突な誘いに、乗ってくれて、助かった。デート、とさっき思ったけど、デートのつもりなのかどうかは、僕には、わからない。普通に友情、という可能性の方がある。
 恋というのはもっとずっと、全身の血が沸騰して浮かれ騒ぐようなことなのだと思っていたし、これまでは実際、そうだった。
 田中といると、頭の芯が冷えて、それが楽、と思って、楽だから好き、と、思っている。
「一緒にホテルディナーが食べられて良かった。自発的にはこういうの思いつかないから……」
「……こういうの」
「なんていうか……」
 それこそデート、みたいなやつ、と、言おうかどうしようか迷って、「ごちそう」という、子供みたいなワードをチョイスした。田中は薄く笑い、「ご馳走だった。ご馳走様でした」と言った。
「似合うな」
「何?」
「スーツ。俺もスーツ着とけばよかった」
「ああ……」
「社長に見える」
 僕は苦笑いした。僕の父は社長だったのを田中は知っているので、つまり、からかっているのだった。僕と父は、でも、あまり似ていないと思うけど。
「またご馳走あったら朝のうちに言って。俺もスーツ着る」
「田中も似合いそう」
「サラリーマンに見えると思う」
「サラリーマンだし……」
 田中は、貸衣装屋で借りてきたスーツを着た僕をもう一度見て、少し笑った。何由来の笑いなのかは、よく、わからない。
田中さんは藤の花が地面を紫に染める頃、傾斜のある石畳の小道で握られた手が暖かくて気持ち悪かった話をしてください。
 手が温かくて他人みたいで、振り払って、声が漏れて、それが合図できっかけだった。俺はいつのまにかそれを喋っていたが、俺がどうしてそれを喋ってしまったのかはわからない。手が温かいのなんて当たり前なのにどうして、他人みたいで嫌だと思ったのだろう。境界があることが、どうしてそんなに苦しかったのだろう。
 石畳の小道の傍らに藤棚があって、地面がうっすらと、紫色に染まっていて、それは綺麗な風景だったはずなのだが、目眩を起こしているときの視界の歪み方に似ている気がして、多分最初から体調が悪かった。会いたくなかった。会いたかった。どっちもだったから、嫌な日だった。
 悪いことが起こる、と思っていて、悪いことを起こした。起こる、なんて、他人事みたいに思っていた朝が懐かしい。俺が、悪いことを、起こしたのだ。
 おまえのことが嫌いだ、と、俺は佐藤に言った。
 具合が悪そうに見えると言って、佐藤は俺の手に触れた。どこかに引っ張って連れて行くつもりだった佐藤の手を、俺が振り払った。温かくて、すごく怖かったから。視界が紫に揺れていて、目眩がしていたから。頭が痛かったから。全部言い訳だ。佐藤は眉をひそめて、静かに俺を見ていた。
 ものすごく好き、と、ものすごく嫌い、の境界が、生来ない人間なのかもしれない。
 それって依存だ、とも思う。
 そのことが、すごく美しくてすばらしいことに思えるときもあるのに、ずっとそうだったらいいのに、俺は、佐藤がここにいること、一緒にいること、昼日中、肩を並べて歩いて、たわいのない話をして、これから甘い物を食べに行くということ、もうしばらく一緒にいてもいいということ、望むならどれだけ一緒にいても構わないということ、それらすべてを、消費している、と、思った。
 車が走っていく音とか、遠くでビルを建てている音とか、子供の声とか、そういうのがまとまりなく、空間を埋めている時間、でも静寂、としか、思えなかった、佐藤が黙っているから。
「佐藤が嫌いだ」
 佐藤が口を開く。
 何を言うか分かっている気がする。全部分かっている気がする。これから佐藤が解決してくれる。俺が混乱していて体調が悪くて出かけるべきではない日に一緒に出かけることになって精神的に不安定でそもそもずっと精神的に不安定な、ような、人間であることを、ひもといて、どこかに連れて行ってくれる。温かい、他人の体温で。
佐藤さんは日が暮れる直前、降りたことのなかったバス停で経験が役立った話をしてください。
 知らない町、間違えた選択、のはずだったのだが、僕たちはその日の夕暮れ、大変おしゃれな家に上がり込んでいた。
「これってイタリア製ですよね。ああ、そう、カルテルだ」
「詳しいですね」
「いやそんなには……」
 ぺらっと喋ってしまったことを後悔してももう遅かった。僕はそれから、ものすごい勢いで、頭の深層にしまわれていた家具の会社と家具の名前をペラペラと、それはもうペラペラと喋った。ポリカーボネイトという、普段はついぞ使うことのない単語が、いったい頭のなかのどこに入っていたのだろう。僕の父親は、輸入家具屋だった。
 ペラペラ喋りまくったあとには、相手が漫画家であること、インテリアに毎年何十万とつぎ込むタイプであること、捜査対象と仕事の付き合いがあるのは間違いないこと、完全に間違えて降りたバス停だったはずなのになぜかこの人に遭遇できたのは完全に「引き寄せ」の世界であること、そしてその間田中を放置していたこと、が発生していた。最後の一点に気づいた瞬間、僕はぎくりと田中を振り返ったのだが、田中は僕の視線の先で、興味深そうに僕を眺めていた。少し笑って。
 機嫌を損ねていないようなので僕も苦笑いを返した。
 灰みがかった透明の、ころんとしたフォルムが特徴的な、カルテル(というのはイタリアの家具ブランド)のパピルスチェアは、溶けるように不安定なままおさまるところにおさまった、といった印象を持っていて、田中によく似合うと思った。まあ、似合うからって、買ってあげようか、みたいな種類のものではないけど。四万くらいだったかな。
 漫画家は僕のことがだいぶん気に入ったらしく、食事を奢ってくれるというので、僕は田中の横にあった、おなじくカルテルのスツールに腰かけた。
「……機嫌良さそうに見える」
「おまえ家具屋、向いてるよ」
「そうなのかなあ」
「語彙がすごい」
「語彙?」
「なんか、透明感の深度がどうとか、スモーキーな香りをともなう色がどうとか」
「……よく聴いてたね……」
「ふだんあんなこと言ってない」
「どこから出てくるんだろう。誰に教わったわけでもないんだけど」
「父親は?」
「いや……」
 僕は父親から教わらず、家具を選んでいたのだという話を、いつか田中にちゃんとしたほうがいいんだろうな、と曖昧に思いながら、僕は口元を覆って少し、また、苦笑いした。田中は全然分かっていないのだが、分かっていないからこそ言えるあかるさで続けた。あまり田中らしくない明るさで、たぶん、僕の振る舞いは、相当田中にとって面白かったらしいというか、ちょっとツボっているっぽかった。
「格好良かった。家具屋になれば?」
 ならないですけどね。
田中さんは季節風がはじめてふいた日、山の古寺で本当なら弱音をはいてもよかった話をしてください。
 何でも良かったしどこでもよかった。仕事で扱った本の中に美術品に関係するものがあって、山奥の寺にあるという仏像が載っていて、それを目的にしようと思った。その少年じみた目つきにつよく惹かれたとかではなく、全然、口実だった。
 ひとりで旅行をしたことなんてなかったと思う。移動手段は色々あって、その中で高速バスを選んだのは、安かったからというだけの理由で、しかし途中から雪が降り始め、俺は、中途半端に暖かすぎるバスの中に、乗客共々閉じ込められる事態に陥って、到着は結局、二時間遅れた。
 こんな雪で山寺なんかに行ったら死ぬ、と思ったが、死んだ方がマシかもしれない、という自棄と、この死に方は悪くない気がする、というドラマに惹かれて、予定通りに電車に乗った。
 会いたくてたまらない人に会いたくない。
 死にたくなるまで依存するのはいけないことだと、その本人が言った、他ならぬそいつが俺に言ったことがある。今度はおまえに依存してておまえを捨てるか俺が死ぬかしかやっぱりないのだと思うと告げたら、どんな顔をするんだろうな、と思う。そして、どんな顔も、させたくないと思っているという一点において、俺には理性が残っていた。多分。
「こんなところに何百年も、ずっといるのって、どういう気持ち?」
 他に誰もいなかったのをいいことに、俺は目の前の像に訊ねていた。資料を持ち帰って家で眺めているとき佐藤が脇から覗き込んで、田中に似てる、と言ったことがあった。俺には、全然まったく分からなかったし、目の当たりにしても、やっぱり分からなかった。目の前に居るのは澄んだ目をした少年じみたほとけさまで、どこか遠くを見ているように見えて、ここにはいないから平気、と思っているように思えて、俺は、急に、佐藤は俺のことが、好きなのだと思った。
 今すぐここに居て欲しい。
 本当ならそう言ってもよく、今すぐは無理でも新幹線でやってきてくれる可能性は十分にあり、俺はまるでどこにもいない迷子みたいに保護されることが可能であり、しかし俺はただ「ごめんな」と呟いて、声にはまるで力がなくて、どこにもいない、ここにいない、ほとけさまのように澄んだ目をしているなら、どれだけよかったか、と、思った。
佐藤さんは絹糸のような雨が降っていた午後、精肉店で書ききることができなかったことについての話をしてください。
「え? ちょっと待ってください、もう一回、え? ちょっ……」
 軒のすぐ先には細かい雨が降っているし、電話の向こうの上司の声が妙に小さくて聞き取れないし、書いたメモは濡れてぐちゃぐちゃになってしまうし、悪い方向に全てが集約しつつあった。まあ、よくあることだ。
 多分上司側の電波トラブルで、電話は切れてしまった。溜息をついて、スマホをポケットにしまいこむ。軒先を借りていた店を振り返ると、いまどき珍しい精肉店だった。ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、揚げたてのコロッケの匂いが鼻をつく。
 つやつやの、赤いステーキ肉に、挽肉に、焼き肉用カルビに、これは多分すき焼き用。ショウウインドウに恭しく並んだ肉の数々を見ていて、明るい気持ちになってきた。ノスタルジックに曖昧な、暗めの店内も、落ち着くといえば落ち着く。なんかこういう古い感じって結構好きだし、いい店なんじゃないかという予感があった。
「お祝いなんですけど」
 気がつくと、そう言っていた。別にお祝いではないな、と、口に出したあとで思ったのだが。別に何のお祝いでもない。ただ、このきれいな肉をどれか連れて帰って、大事な人の口に運びたいと思って、ただそれだけで、それを上手く説明できる気がしなくて、口実が欲しくて、それで、結局選ばれた、お祝い、という言葉だった、と、思う。
「今日特別な日なんですけど」開き直ることにした。「どれか、おすすめ教えてください。あと、焼き方? とかも」
 僕はこういうときとことん図々しく振る舞うのが上手なほうだ。デリカシーなさそうにした方が良いときはぐいぐい行った方が結局損がない。
 最近思うのだけど、僕がかつて、神託のように「よい商品」を選ぶ才能がある、と言われていた、あれは、もしかして、ただたんに僕が、すごくたくさん質問をするのを厭わなかったからではないだろうか。それは、普通に、普通のことなのかもしれなかった。普通のことかもしれないということがわかった、記念日か、じゃあ、今日は。そういうことにしよう。それは特別な日だし祝った方がいい。うん、そうだ。一緒に祝ってくれる人がいるなら、よりいい。
 田中にメッセージを送った。
「ステーキとすき焼きとしゃぶしゃぶどれがいい?」
 親切な、肉屋の店員の言葉を、そのまま送ったら、『しゃぶしゃぶ』と返答があったので、じゃあ、それで。
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哉村哉子
①おわり
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20:35再開します
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②おわり
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20:55再開します
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③おわり
50:11
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21:10再開します
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トイレ行ってきます~戻ったら再開します
56:29
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もどりました! 結局予定通り再開だ
72:04
哉村哉子
④おわり
73:00
哉村哉子
https://tokosie.jp/interior/3168/ カルテルの椅子は~これ
74:03
哉村哉子
21:35再開かな
84:32
哉村哉子
いま「季節風」を拾うなら適切な地域があるかも? と思って調べてる
84:43
哉村哉子
奈良に仏像を観に行ったのはわたしの実体験ですが……
94:59
哉村哉子
⑤おわり
95:52
哉村哉子
⑥で今日は最後かな~ 21:55に再開します
102:21
哉村哉子
すぎてた やろうやろう
114:39
哉村哉子
⑥おわり
114:53
哉村哉子
今日はここまで! ありがとうございました 捗りました~
115:08
哉村哉子
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20250216 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
初公開日: 2025年02月16日
最終更新日: 2025年02月16日
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コメント
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつです
お題→ https://shindanmaker.com/595943
BLのときと BLというほどではないときがある
ネタバレってほどのこともないはずだが自衛してね
チャットコメントお気軽に~
気が向いたら書いてる小説の解説をコメントに流します
20250224 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつですお題→ https://shin…
哉村哉子
20250222 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつですお題→ https://shin…
哉村哉子