①
田中さんははじめて息が白くなった秋のおわりに、剥製の動物が居並ぶ資料室でした、らくだに乗ったことがあるという話をしてください。
「何でも知ってる」
佐藤は笑ってそう言って、それはどう考えても嘘だったが、佐藤はしょっちゅう俺にそう言うので、だんだん、何でも知っている係、のような気がしてくる。ゲームをやっていると、どうでもいい知識が溜まる、というだけで、あと俺は本を読むのが苦ではなくて仕事の役にも立つし、というだけで、別に何でもは知っていない。
その資料室には、しかし、俺の知っているものばかりが並んでいた。
現物の写真を撮りにいくのはどう考えても俺の仕事ではないのだが、まあ、別に、年末まではまだ時間があって、俺たちの仕事は順調で、余裕あるのでいいですよと言って、わざわざ出かけていって、別にうまくもない写真を何枚か、撮らせて貰った。小さい会社で働いているといろんなことが急に発生する。
資料写真を撮ったあと、鳥の剥製ばかりを集めた部屋の前を通りかかった。それは仕事とは全然関係がなかったのだが、俺は個人的な興味があって、その部屋の中に入れてもらった。俺がかつて図鑑でだけ見たことのある鳥類がたくさん並べられていた。みんな死んでいて、こちらをじっと見ていた。
鳥類のことを考えていると、俺は砂漠を連想する。いつの頃からそうなったのか、わからないが、どこにもたどり着けずに死んでいったドードーに感情移入しているからかもしれない。鳥という生き物がだんだん、寂しくて何もないイメージと、一体化してしまったのかもしれない。不毛の大地を歩いているイメージが、頭のどこかにまとわりついていて、それは俺自身を現す心象風景で、だから俺は今もう、鳥が好きではないのかもしれなかった。
しかし俺は別に寂しいわけでは、もう、なくて、鳥の部屋をあとにできた。
「田中は何でも知ってる」
鳥について話をしていた。テレビの、クイズ番組に、回答者より先に答えたら、佐藤は嬉しそうにそう言った。砂漠には、と俺は思った。しかし誰もいないわけでもただ寂しいわけでもない。たとえば駱駝がいて人に引かれて歩いている。
俺の頭のなかの砂漠が、いつから変わっていったのか、本当はもう、気づいていて、俺は許可を取って、佐藤が知らなそうな鳥を選んで、写真を撮った。この部屋に入ったということを、死んだ鳥ばかりの部屋に入ったということを、伝える相手がいるので俺の頭のなかの砂漠は、もう、寂しい場所ではなかった。
②
佐藤さんは昨日の雨がちいさな水たまりになって残っていた朝、きれいな水の流れる古い町で遠くから聞こえてきたピアノの曲についての話をしてください。
ずいぶん川の多い町だ。駅からパン屋までの間に三つ、橋を渡った。スマホの画面を眺めながら、「多分あってると思うんだけど」と言って振り返る。田中はぼんやりと、川を見おろしていた。そういうの心臓に悪いから辞めて欲しい。いつも不穏な連想をしているわけではないけど。
「田中」
声を掛ける。遅れていた田中が、少し足早に僕の傍らに戻ってきて、「魚がいる。きれいな水だな」と言った。なんとなくほっとして笑った。
「何」
「いや……」
「足もと。水たまりあるから気をつけて」
「ああホントだ。雨が降ったから、それで少し増水してるかもな。魚にとってはいいことかも」
「で?」
「うん」
「着けそう?」
「多分……。ええと、ここにピアノ教室があって。そこから右に曲がって……」
「ピアノの音、さっきから聞こえてるけど」
「本当?」
「もう少し先だと思う……なんだっけこれ。ああそうか、うちにひとりぼっち、だ」
「何?」
「曲のタイトル。サティ」
田中は当然既知の情報であるかのようにそう言って、僕は少し笑う。田中ってずいぶん多くのことを知っていて、実際何でも知っているように思えるときがあるけど、そう指摘すると田中自身は、「何でもなことはないし、そもそも別に特別知ってはいない」と否定する。別に、いいことだと、思うけど。
「変わったタイトル」
「サティには変わったタイトルが多い。犬の曲だよ」
「犬……」
田中はどこか楽しそうに、昨日の雨が洗っていった清潔な空気の中、小さな声で、その曲を口ずさんだ。たしかに、僕の耳にも聞こえてきた。小さな水たまりを避けながら、パン屋を目指す僕たちを待ち受けるように、曲はだんだん大きくなった。寂しい曲で、僕たちを迎え入れているというより、なかなか近づいてくれないのを恨んでいるようにすら思えたが。
「犬はひとりぼっちなのかな」
「家族が出かけたんだろうな」
「じゃあ、早く帰ってあげないといけないね」
「俺たちは犬の家族じゃないから、どうすることもできないけど」
「早く帰って来るように祈るくらいしかできないかぁ」
僕がぴょん、と水たまりを飛び越えながら言うのを、田中はどこかまぶしそうに見て、「多分、帰ってきたと思うよ」と、子供をあやすような口調で、言った。
③
田中さんは夜通しDVDを見た翌日の朝、綿菓子の香りがする泡で満ちたバスタブで不注意でガラスを割ったことについての話をしてください。
「眠かった?」
「眠かったわけではない……」
「ぼんやりしてたけど。疲れてた?」
「疲れてたわけでもない」
壁に映像を映せておもしろいからという理由で、いわゆるラブホテルと呼ばれている場所で一晩過ごした。誘ったのは俺で、ずっとそわそわしていたのも俺だった。
いつからだろう。佐藤のことが俺は、多分、好きなのだと思うけど、それが特別な意味を持つようになったのが、いつからなのかよくわからない。俺の人生には俺がいて、他の者は要らない、というのが、俺にとって普通のことだった、と、ずっと、思っていたのに。
だからホテルで、ひとばん一緒に過ごしたら、自分の感情の正体が分かるのだろうかと思った。もっと切迫した気持ちに、もっと切実な気持ちに、たとえば佐藤に告白をしてみるだとか、そういう心情になるのかと思ったが、別にそうでもなく、単に朝が近づいている。
アクション映画は大きな画面で観るのが一番、と佐藤は楽しそうに言って、最後のDVDをぬきとった。
「せっかくだから風呂入って帰ろう」
「泡のがついてた」
「泡の風呂ってやったことないな」
「水入れる前に浴槽にいれとかないと泡が立たない」
佐藤は少し笑って、「何でも知ってる」と言った。何でもは知ってない。
「なんか田中、ぼんやりしてたけど」
それより俺は、佐藤が意外と人の顔色を窺ったり、態度を読んだり、そういう機微があるのが不思議だと思っている。何も考えていないように見えるのに、別にそんなこともないんだよなと思う。俺が映画に集中していないのに、気づいたりはするんだよな。
だから、気をつけないと、と、思う。
俺が佐藤のことをどう思っているのか、どうしてここに連れてきて、どういう目的があって、どういう下心を抱えているのか、少しでも漏らしたら佐藤はちゃんと理解すると思う。それは、多分、俺が望んでいる通りのことにはならない、はずだった。俺は佐藤に、少なくとも嫌われたくなくなかった。この距離のままでも全然構わないと思いながら、しかし、好意を持っている相手とラブホテルに入ってみるのはどう考えても踏み込みすぎだった。踏んだら割れて足の裏を傷つけるガラス程度の強度で、俺はぎりぎりを攻めて、この関係を壊したがっている。
試している、と思う。
俺は試していて、佐藤はその俺の感情には多分気づいていなくて、あるいは、気づかないふりをしてくれていて、やたら無邪気な声で、「ホントに泡が立つ」と言って、バスタブを覗き込んでいる。