①
田中さんは気持ちのいい風の吹く日、展望ラウンジで本物みたいに見えたものの話をしてください。
ワインを取って戻ってきたら、佐藤がラウンジの片隅で、扉のむこうを覗き込んでいた。ホテル上階の展望ラウンジにいる。宿泊券が当たって(佐藤が引き寄せて)ふたりまでだからと誘われて、夕暮れに待ち合わせて泊まりに来た。ウェルカムドリンクとして、スパークリングワインが一杯ずつ、無料で飲める、まあまあいいホテル。
「何?」
「あれ何だと思う?」
指差す先に目をこらす。ビルとビルの合間に見えるものは、巨大な犬、とかに思えたが、そんなわけはないので、見間違いなのだと思う。しかし何度見ても犬にしか見えず、俺は「犬」と答えた。
「そうだよな。犬……」
「これデッキ出られる?」
「出ていいっぽい」
外に出たから何という気もしたが、俺はガラス扉を開けて、外の風に触れた。屋上階であってもなお柔らかい、心地の良い風が吹いている。夕暮れの空の中、浅い星が光って見えた。
ラウンジから展望デッキに出て、「犬」の方にできるだけ近い位置に陣取って、どう考えても犬ではない、あんな巨大な犬はいない、だから見間違いだと思う、という、答えのないやりとりを続けるに、適した天気だと思った。
夕暮れだから尚更、すべてが曖昧に見えて、クリスマスケーキのサンタクロースのように突っ立った東京タワーが飾り付けられてアラザンのようにビルの灯がともった東京の街は、誰がどう考えても美しいと思うはずだった。
しかし佐藤はその、猥雑さを押し隠してきらめいている東京を見回しもしないで、あれは犬に見えるなあ、ということばかりを話していて、それはこいつの多分、美徳だった。佐藤は見るべきものを見ている。佐藤にとって見るべきものを。
俺は佐藤に「見られて」ここに、佐藤の隣にいて、犬かなあ、と言いながら遠くに目をこらしている佐藤を眺めている。俺もまた発見されて、引き寄せられて、佐藤のそばにいるので、佐藤が、ばらまかれた美より大事だと思っているものを見つめていること自体が、俺にとっての救いである、という、気が、少し、した。
「これって答えがないね」
佐藤が振り返る。
「グーグルマップに……」
「えっ嘘。調べないで調べないで、謎が解きたい」
「いやわかんないんだろ。調べたら、芸術家が、アートイベントを……」
「普通に犬じゃん」
「いや、犬ではないけど、風船だけど……」
「何かの見間違えとかではなく犬の形という……」
「だから、犬で合ってた」
佐藤は、ちゃんと、間違えてない。
②
佐藤さんは冬至の前日、屋上にはしごで上がれる集合住宅でした、昔はペンギンが好きだったという話をしてください。
ぼろぼろの鳥類図鑑が本棚の端に詰め込まれていて、それは子供向けの本だったから、子供の頃に読み込んでいた思い出のものなのだろうと一目で分かった。ぼろぼろとはいっても端が擦れているとかページが縒れているとかで、製本はきれいなままで、大事にしていたのだろうなと思った。
田中の部屋を片づけている。部屋の荒廃には文脈と歴史があるなと思う。当の田中はベッドで眠り込んでいる。許可も得ずに人の部屋を片づけるのはどうだろうと思いはしたものの、この荒廃の中で目覚める方が気分が落ち込むような気がしたので、ゴミくらいまとめてもいいだろう、と思った。
しばらくゴミをまとめて、しばらく触れられていないであろう本棚の埃を眺めて何かハタキとかそういうのが必要だなと思って、どこまで本格的に片づけようか迷って、このマンションのゴミ捨て規約がどこかに張り出されていないかを探しに、部屋を出た。一応、鍵はかけて、ポストにいれておく。一月の夜は冷えた。
普通に普通の回収日であるということをゴミ捨て場の掲示で確認したあとで、じゃあ、燃やすごみは出していいなと思って、上がっていく途中で、梯子を見つけた。
屋上に上がるらしい梯子で、別に登るな危険とも書かれていなくて、僕は少し考えたあと、手を伸ばして、足をかけた。登った先には、低い手すりの屋上があって、本当は普通に登っていい場所ではなかったような気もした。僕は手すりに手を掛けて、下を覗き込んだ。
田中のマンションはこういうかたちで、簡単に屋上まで上がれて、落ちるのも簡単そうだが――あまり考えたくないしそうでなくてよかったのだけど。田中って、飛ぶ鳥より泳ぐ鳥派だったのかな。ドードーは、泳げたんだろうか。よく知らない。水辺には住んでたはずだと思うけど。
飛ぶ鳥派だったら、この屋上にたどり着かなければいけなくて、大変だったかもな、と思った。ここから飛び降りるのは、すごく簡単そうだし、その方が楽に死ねそうだ。
ペンギンって好き?
今、眠っている田中が、目覚めたとしても聞くべきことはそれではない気がするが、いつか聞いてみてもいいな。よく知らないけど、ドードーは飛びも泳ぎもしない鳥だったんじゃないかなとぼんやり思った。泳げる鳥に自分を重ねていたら、入水自殺には繋がらないだろうから、ペンギンって好き? は、好きであってほしくて好きになってほしい、という、僕の希望に過ぎなかった、かも、しれない。
ペンギンって現存する種で、泳ぐことができて、生きてるから、次は、田中に、せめてペンギンになってほしいなと思った。
もしかしたらそろそろ起きたかもしれない田中のもとに、戻らなくては。
③
田中さんは冷たい風の吹くころ、造花で飾られた部屋で足りないものをごまかした話をしてください。
いちめんに咲いている――ということになっている――花は紙でできた、めくってふわふわにつくる、ありがちなやつで、折り紙を切って作ったチェーンで飾られている。誰もいない、早朝の教室で、俺はその花のひとつをそっと外す。
数時間後に文化祭が始まるので、学校中、こういう、紙でできた簡単な飾りと、あとはせいぜいペンキや紙粘土で彩られている。
俺にとってその花は、それなりに意味を持っていて、どうしても手に入れなくてはならないようなものでは別になくて、でも、欲しいような気がして、気になって、朝四時に起きて、五時の、しらじらと冷たい風を抜けて、学校にやってきた。誰もいなくて静かなのに、飾りばかりが騒がしくて変で、異世界に迷い込んだようだと思った。
佐藤とすごく久しぶりに喋ったのだった。
佐藤とは小三以降、ずっと別のクラスで、だから自然と、話すことはなくなっていた。そもそも、別に仲の良い友達とかですらなかった。ちょっとだけ接点があって、まあまあ大きく俺の感情が動いて、俺の人生において重要な人物になってしまったことを、佐藤は多分、知らなかった。
だから、花一個足りなくて、ととなりのクラスに相談に行ったとき、佐藤がいたのは偶然だったし、佐藤が、「ああ、じゃあ、これあげる」と言って、手に持っていた花を差し出してきたのも、偶然だった。俺が田中であるということ、かつての因縁、などを、佐藤がその瞬間意識していたかどうかは、わからないし、多分、していなかったと思う。
ひとつ足りなくてわざわざ融通してもらった花なのに、俺は今、それをそっと取り外して、鞄の中に仕舞おうとしている。ぐしゃぐしゃに潰れてしまわないように、わざわざ家を探して、菓子の缶を持ってきた。
手に入れたから何だっていうんだろう。
しかしどうしても欲しくて、どうして欲しいのかわからないがどうしても欲しかったので、俺はそれを、缶のなかに、そして鞄の中に、仕舞って、家で作って来たティッシュの花をかわりにつけて埋めた。そうしながらずっと、俺の人生って永遠にこれが繰り返される、という予知のような感覚を抱いた。俺の人生って欲しいものがあってそのために誤魔化したりあがいたりし続ける。これからも、きっと、ずっと。
④
佐藤さんは地平線にカノープスが見えるかもしれない夜、資料室であわく薄荷のにおいがしていたことについての話をしてください。
南下するし、週末は晴れてるから、と田中が言った。「カノープスが見えるかも」
「って何?」
「星。東京だとぎりぎり見えるっちゃ見えるはずなんだけど、地上スレスレだし、そもそも東京が明るすぎて、よく見えない」
「星好きだっけ」
「別に……なんか、カノープスって、平和なときしか見えないって言われてたらしい」
別にというわりには詳しく、田中はどこか愉快そうに、カノープスがどこにどう出るのか、見つけ方を教えてくれた。田中の人生には、田中にとって思い入れのあるフックがたくさんある、と、思う。ゲームとか、エンタメに興味がある人ってみんなそうなんだろうか。割と普通に、感心しているのだけど。
という会話をしたのが月曜の話で、僕は日曜日、ひとりで、南の島に来ている。仕事で調査をしていて、今日は資料館に来ている。島の歴史や文化について調べる必要が発生して、ひとつひとつ確認してメモを取っている。
ふっと香った何かに、足を止める。
「……なんか。知ってる匂いした、今」
この島では、嗅いだことのない香りを立てる食べ物がたくさんあって、知らない匂いばかりが漂っていて、新鮮でおもしろかったのだけど、少し疲れてもいたのかもしれない。知っている匂いはなつかしくてあたたかくてどこか胸が苦しくなるような思い出を伴っていて、僕は首をかしげる。きょろきょろと探すように棚の裏に回ったとき、そこに、職員用らしいデスクを見つけた。机の上に、ふたをあけたままの、ガムのボトルがある。全国どこでも、なんなら海外でも、買えるような、ふつうの、ミントフレーバーの。
あ、と、気がついた。
知らない星がよく見えるような遠い場所まで来ても、なおもそこにいて、知っている、の顔をして、僕の知っている相手、として、僕の口の中で動く舌と吐き出される呼吸の香りとして、つきまとっていて、僕は赤面して顔を覆いながら、すごいな、と思った。こんな形で執着できる。人間の、近くに、どんなに遠く離れようとも、着いていくことができる、田中という奴は。
僕の人生にも、思い入れのあるフックは、いくらかある。ドードーとか、レインボーブリッジとか、高速道路で眠くならないために噛むミントフレーバーのガムとか、渋滞の最中に不意打ちで触れる、唇だとか。