田中さんは雨の日、少しずつ周囲が暗くなりだした時間、悪魔がいるという四つ辻でしたにおいについて思い出したことの話をしてください。
「タクシーを……いや……もうちょっと待とうかな……」
さっきから佐藤はずっと、スマートフォンのアプリを開いては閉じ、タクシーを呼ぶか呼ばないかでウダウダ悩んでいて、俺は肩越しにぼんやりと、そのアプリを眺めていた。降っている雨の向こうに日の光が透けて、夕暮れが沈んでいくのが見えた。天気雨ってこんなに長い時間降ることもあるんだな。
天気雨のあいだ、来ないバスを待って、そろそろ一時間。十字路沿いのバス停の、かろうじて用意された日差し避けの下の、がたつくベンチに座っている。二時間前に行ってしまったというバスは、もう三十分も待てば次がやってくる頃になってきていて、正直今更、本当にどうでもいい、タクシーでも、バスでも。
俺はけれどなにも言わずに、佐藤の背中と肩と、肩越しのアプリと横顔と、そういうのを眺めていた。雨がヴェールのように俺たちのごく近くにあって、閉じ込められていて、近くにいる理由が必要ないので、この三十分がもっと長くても別にいいような気がした。世界が終わってこのまま、バスが来ないしタクシーも来なくて、ずっとこの狭いベンチに座っていることになっても、別に、かまわないような気がしていた。
「雨で残念だった」
佐藤は息をついた。そうでもない、と俺は思った。遠出が雨で残念だった。そうだろうか。向こうの方でゆっくりと宵に溶けていく日差しが、佐藤の肩越しにずっと見えていたことより、美しいことは俺の人生には起こらなかったような気もして、それも大げさだったけど。でもうまく説明ができない。
「悪魔のことを考えてた」
「悪魔」
きょとんと佐藤が俺を振り返った。
「辻には悪魔がいる。聞いたことないか?」
「いや……あーどうかな、あるかも、子供の頃……大抵のことは子供の頃の記憶だけど、僕は」
「今、ここにいる」
「え」
佐藤は大げさに肩を揺らして、それから、多分無意識の動きで、俺を後ろに引っ張って、頭を雨の中に突き出そうとした。俺は佐藤を引っ張って、元通り座らせた。
「どこ、どこ、いや、いないよな、冗談だろ」
俺はなんだか今日、ものすごく遠くに、行きたかった場所に、あの頃行けなかった外国に、一緒に行ったような気がしてたんだけど、どう、と言う表現が思いつかなくて、「悪魔って匂いがするらしい」と言った。
「どんな匂い?」
佐藤は警戒と恐れと猜疑心と、あとはなんだろう空元気とか、そういったものが入り交じった顔で、俺を見た。俺は佐藤の鼻先に手首を寄せた。佐藤は真面目な顔をして俺の手首を嗅いだあと、おもむろに顔を上げて、俺を見て、顔を覆った。
「ずるい」
ちょっと面白かった。悪魔を連れて帰れるなら、いい旅だったんじゃないの。どこにも行けなくても。