服洋はその日の前日、妹と共用である自分の家を片付けるとともに話を切り出した。
「明日から毎週月曜日の午後六時から、家庭教師来ることになったから」
「それって、千問の?」
「ん、そう。だからその日だけドアとか全部閉めきるから。ほら、お前の部屋いらないものあったら片付けるぞ」
「えー!いきなりだって!」
「うるさい。いつも綺麗にしておけよ」
「それ言うならお兄ちゃんだって最近ゲーセンで獲ったとかいうぬいぐるみ私に押し付けないでよ」
「くれてやるだけいいだろ」
彼の母も妹も、服洋が父のせいで受験の道を狭められてから変わったことを知っている。髪を染めだして、夜遅くまでゲームセンターで遊びだして、ピアスを開けだして、会話することを諦めた。まるで何を話したところで冷たい現実を実感してしまうから口を閉ざしたみたいに。彼は妹をあくまでベビーベッドに入っていたころと同じ感覚で接してしまうが、現実はそうではない。彼女も中学生ながら服洋の身に起こったことをなんとなく把握しているし、自分もいずれそれに関連することが身に起こるのかもしれないということを察している。だがそれを実際に受け止めている服洋に対してどうやって声をかけるべきかわからなくて、せいぜいこんな風にいっちょ前にたてつくしかできない。ゲームセンターで憂さ晴らしみたいに使ったお金で獲ったぬいぐるみを渡してくれる彼の反抗期が、ただの思春期のそれではないことくらいわかっているのだ。だから彼女も結局ベッドの隅にぬいぐるみを大人しく座らせて、それだけにした。母が何も言わないことを少し恨めしく思いながら。
「服洋くんかな」
「……」
運が悪かった。青山服洋は即座にそう思った。ただのひき逃げ事件なのにどうしてこっちに深入りしてくるのか。その理由を聞いても「わかってるでしょ」とにたにたして何も言わないのか。どうしてただ寝ていただけの自分をまるで加害者みたいに扱うのか。彼にはわからない。まるで自分が世間知らずであるかのように感じられるが、このことが理不尽であることも承知おいていた。
「もう話すことないです」
「いやいや、定期的に面会に行ってるんでしょ?お父さんと何話してるの?」
「何も話してません」
事実だ。服洋は父から何を聞かれても黙りこくることにしていたからだ。家族からの連絡事項以外に声を聞かせることはなく、携帯は持ち込めないので自習をしている。何を聞かれても世間話を仕掛けられても無視する。その行為は、服洋にとって父親ではなく一人の人間に対しての怒りの発露だった。そしてそれは記者に対しても同じことだった。最早彼が何を言ってるのかなんてワイヤレスイヤホンで塞いでしまって、つかつかと早歩きを試みる。ドアに足をねじこまれそうになったから、足を思いっきり踏んだ上にドアを思いきり引っ張って押し出した。肉は挟まれて痛かっただろうが、そんなこと慮れる余裕がなかった。
「今日来るってのに……」
外部講師、だという。同じ塾で同じ授業を受けたことのある、白い髪の他校生から教えてもらった。その同級生はというと、「その|講師のおかげでこうやって喋れるようになったんだ」と扇子をはためかせながら自習について真見に話してくれて、彼がそう言うのなら危険ではないのだろうと踏んだ。
文面の内容についてはしばらく悩まされたが、結局最初だしということで「周りの目を気にしなくなりたい。眠れない」というありきたりな言葉に置き換えた。これで安眠についてアドバイスされたらそれまでだ、と思って。買ってきてもらったお茶を客人用のグラスに注いで、想像したのは校舎で会った塾講師たちであった。香月のような女の先生か、あるいは白川のような若い男か、あるいは檸檬のようなバイトの学生か。千問の実態をきちんと理解しきっていない服洋からすれば、ミステリーボックスじみたものがあった。
色々と想像を巡らせていた服洋であったが、ここでふと玄関口での騒ぎ声が現実に引き戻してきた。あの記者、いよいよ通報するべきか。隣近所は留守にしているし、そもそもこっちの味方をしてくれないことはわかっている。だから携帯を片手に、そうっと玄関の穴を覗き込んだ。
「なんだよ兄ちゃん、こっちは」
「黙れ」
……服洋は一度身を離した。何が起きているのかわからなくて、だ。彼は自らの視界――若い黒ずくめの男が一瞬で記者を昏倒させた様子――を飲みこみきれなかった。
「え?」
ヤバい記者にヤバい不審者か自分の知らない入居者が絡んだのかと思いたかったが、インターホンが鳴ったことでその幻想は打ち砕かれた。ドアを開ければ、その長身が目の前に迫ったことで思わず息を呑む。
「は、はい」
「……青山さんのお宅でしょうか」
男は存外礼儀正しく服洋にそう尋ねた。認めざるをえなかった。頷けば、男は「そうか」と言葉を零してから彼をじとっと見つめた。
「なるほどな」
「なんですか。えっと、その、千問の」
「家庭教師のことなら私だ」
「え」
にわかに信じられなかったが、「白川から聞いていなかったか」と言われてしまえば外堀も塞がってしまった。
「……どうぞ」
「失礼します」
変なところで礼儀正しいのが妙に恐ろしかった。いや、ただ緊張しているからそう見えるとかではない。先ほどの光景を抜きにしたってこの男、威圧感が凄まじいのだ。ぶつかりそうな天井を避けて、服洋の自室まで追いつめられる。
「自習の内容だったが……『周りの目を気にしなくなりたい。眠れない』というもので合っているか」
「合って、ます」
「眠れない原因は数多くあるが……お前のそれはただの睡眠不足ではない。ストレス、それも一過性の強いものではなくそこから由来する慢性的なものである。違うか」
呪文みたいに男の口から飛び出てくる言葉を噛んで含むと、要するに眠れないという意味の本質を見抜きながらも馬鹿正直に睡眠不足を治療しようと考えているらしかった。
「合ってます、けど……」
「周りの目を気にしなくなりたいというのは。先ほどの男のような奴のことか」
先ほどの男、と言われたところで服洋はやっと記者を昏倒させていたのはこの男であったことを思いだした。色々と、それどころではなかったので。
「そ、そうだ!その人、どうしたんですか」
「廊下に寝かせた。じきに目を覚ますだろう」
「いやそうじゃなくて!何したんですか、あの人に」
今でこそうっとうしさしか感じないが、妹も含めて気にかけているポーズをしていた時にかけていた情けが抜け落ちず、思わず語気が強くなる。しかしその激情を前にしても男は氷像のように凛としていた。
「あぁ、彼は煙草による肺機能の低下が著しかったからな。気管と肺に軽くショックを与えて低酸素状態にした。ほんの数秒だけだから後遺症もない」
「も、もうちょっとわかる言葉で言ってくれません?」
「わからないことを問うな」
不躾な物言いであった。腹が立ったが、如何せん彼はそれが自然であるような態度をする。何を言っているかはほとんどわからなかったものの、要するに少し気絶している状態なだけだということらしい。それ以上言ったところで似たような返事しか来ないのだろうと思うと自然と諦めてしまった。
「てか、本当に塾の人ですか」
「……鋭いな」
「え?」
「自己紹介がまだだったな」
春終わり頃の風が吹き込み、カーテンがゆっくりと浮き上がる。柔和なオレンジ色の光は彼の立ち姿で遮られていた。
「私は佐々木和也。お前に【救い方】を教えるべく来た者だ」
「……!」
「こうして見てわかった。貴様の自習内容はまだ続きがあるな。しかして千問の手にかかれば
――きっといい方法がある」
黒曜石の鋭い瞳が、赤い光を携えて服洋を真っ直ぐ見る。服洋はといえば、その力強い視線に言葉を失うばかりであった。
悪党番24。東京を中心に、社会の裏を跋扈する悪党の群れ。千問の十数年後にできたこの組織は、ゴールデンウィークを前にしても活発であった。
「プロテクターの整備ね、今職員を呼び寄せてるから待ってもらえるかな」
「おう、悪いな」
|開発室の一角。悪党番の内勤職員・フォン・Gと一般職員・コバルトメイトは何気ない仕事のやりとりをしていた。今はコバルトメイトが懇ろにしている内勤職員がやってくるのを待つ時間で、要するに暇を持て余している状況だった。
「そういえばコバルトメイト君、よくこっち来るようになったね」
「あぁ……先々月くらいに表の繁忙期が落ち着いたからな。有給取れって言われてるし」
「そうなんだ。というか、事務所でも色々調べごとするようになってない?」
「……よく見てるな」
「一応ここに来て長いからね」
フォンは笑いながらも義肢製作の手は止めない。その腕前、人生の半分を悪党番で過ごす有様についてはかつて一ギャングとして世間を風靡したコバルトメイトからしても感服するものがあった。彼は空いた手で用紙にサラサラと何やら書きつける。きっと想像だにしない技術が詰まっているのだろう。
「君、読房って知ってるっけ」
「知ってる。なんなら悪党番より前に知った」
「それもそれで珍しいね。知ってるならいいや。じゃあ千問については?」
「千問……学習塾だったか?」
「そう。最近|悪党番職員も呼ばれるようになったらしいからね」
「ルドラも行ってるしな」
「彼にとってはいい刺激だと思うよ。君も近いうちに呼ばれるんじゃないかな」
「呼ばれたところで断るだけだ。ちょっと悪名が広まりすぎてるし」
「羨ましい限りだ」
そんな風に話していたら、防具の整備を得意としている内勤職員が顔を出す。コバルトメイトがそちらに会話を集中させている間、フォンは習慣として悪党番の端末を覗く。一件の着信。平良だった。
『もしもし、親父?来週くらいから千問ってとこ招待されてガキどもに教えてくる。どうせなら親父も来たらどう?とにかくしばらく工房いれないからよろしく』
その好き勝手な文面に、別に発作が来たわけでもないのに血が下に落ちていく感覚を味わう。大きなため息をついてから、一言。
「本当に節操なしみたいだね、あの塾は……」
あの日をよく覚えている。
もうすぐ冬休みに入る時期で、その頃にはもう誰も自分を家に入れてくれなかったことを。
あの内臓の内側から掻きむしられるような飢餓感を。
誰もそばに居てくれない寂しさを。
まだガラケーがガラパゴスではなく最新鋭の機器であった時代、義務教育を受けながら路頭に迷う子供を助けてくれる人など誰もいないことを。
当時少年だった彼はよく知っていた。
その日も少年は冬の寒さを凌ぐために、マフラーで顔をすっぽり埋めてしまう。唾はいくら飲んでも空腹を埋めてくれなかった。給食をどれだけおかわりしたって、子供の代謝だとあっという間に腹を空かせてしまうものだった。
「…………」
もう万引きできそうな店は残っていなかった。どこの店の張り紙にも『監視カメラ設置』とチカチカする色合いのポスターが貼られてしまったのだから。
家から遠くに行けばいいのかと思った。家にこだわるのが悪いのかと思った。だから少年はその日偶然、学校から少し離れた高架下を目指した。ここも登校地区と言われればそうなのだが、同じクラスの子がいないことはよく知っていた。暴走族がいるとかなんとかの噂があったが、今の彼に飢えより、大人より恐ろしいものはなかったのだ。彼は電車が鳴らすけたたましい音を聴きながら、高架をなぞるように歩く。それはちっとも楽しくなく、ただ湧いてくる寂しさと空腹を誤魔化すものだった。
高架下は、なんだか賑やかな音が零れていた。体を揺らす低音と、がやがやした声。その声がまるでフードコートみたいな楽しいざわめきに聞こえて、誘われるように少年は歩いた。
高架下は青い落書きでいっぱいだった。その落書きを覆い隠すように青い服の青年たちが|たむろ《・・・》している。ラジカセから聞こえるのは繁華街で聞くバックビート。煙草の匂いが蔓延しているが、今はその苦さでさえなにかの料理の匂いと変わらなかった。青に覆い尽くされたその場所に、いっそ目眩さえ覚えそうだった。
「おい。|ラジカセ《それ》、一旦止めろ」
ざわめきの中、ひとつまっすぐな声が通る。それは黒い短髪に青のサングラスをかけた青年だった。彼が青年らのリーダーであったことはその風格を見れば明らかで、少年にはどの大人よりも凛々しく、また勇ましくも見えていた。青年は「リーダー」と呼ばれていた。「リーダー」はラジカセの音が止むのを聞くと、立ち上がって真っ直ぐ少年の元に歩み寄った。
「坊主、どうした」
「っ、……」
声が上手く出なかった。それは緊張したからとかそういうことではなく、単にちっとも飲み物を飲んでいなかったからだ。だからその「リーダー」が状況を把握したのは、少年の腹の虫が小さく小さく鳴ったのを聞いた時だった。
「オマエ、腹減ってるか」
頷く。
「【ヘレニック】、カバン」
「どーぞ」
「……食え」
「リーダー」はナップサックに入れていたチョコレートバーを渡す。少年からしたらそのチョコレートバーはどんな宝石よりも輝いていて、どんな食べ物より素晴らしいように見えていた。覚束無い手で袋を開けて夢中で齧っていれば、「リーダー」は近くの自動販売機で買ったと思われる水を差し出してきた。ともすればひったくる様に見える仕草で受け取った。もしこの男が差し出してきたものが毒だったらとかそんなことを考える余裕がないほど、少年はお腹がすいていたのだから。
ちょっと時間をかけて食べ終えれば、いつの間にかその少年を多くの青年が取り囲んでいた。そこで少年は今の状況を理解する。一面の青、青、青。その青年らは体のどこかしらに青い色をあしらっていた。そこで青年はようやく、彼らが最近学校でも噂になっていた暴走族チームであったことに気付いた。思わず萎縮していると、やはり再び「リーダー」が、今度は少し屈んで少年に目線を合わせた。
「家はどうした」
「……わかんない」
「親は」
「仕事」
「その手のタイプか……」
頭を掻きながら「リーダー」はしばらく考えていたが、やがて彼は目線を合わせるのをやめた。
「オマエ、今いくつ」
「十三」
「またここ来ていいぞ。走りは無しだけどな」
「…………いいの?」
「いいよな、なぁ?」
それは大人から見れば恫喝にも捉えかねないものであるが、このチームの中では違う。「リーダー」の言葉は警察より、家族より強い力を帯びていた。だから自然と「いい」ということになっていて、男は満足そうにしていた。
「ここにいるのはな、オマエみたいに飯食うのに困ったり、嫌な親に嫌なことされたような奴らなんだ」
頷く。
「オレは家が貧しくて、お前みたいにずっと腹空かせてたんだよ」
頷く。
「オレは【コバルト】。他の奴らの名前は後で聞きな」
頷く。ひとつの頷きごとに力強いものになっていて、そこで「リーダー」の表情は少し緩んだように見えた。
「オマエはどうするか……【ローモンド】」
「ん?」
「リストあるか」
「はい、これ」
「……【ナイル】がまだか。じゃあここではオマエの名前は【ナイル】だ。いいな?」
「うん」
少年はそこでやっと声を出せた。それはただ渇きと飢えを満たしたからというだけではない。名前をくれたことに、ただ報いたかったのだ。
郊外の高架下、その日そこで少年・海野千草はやっと【ナイル】となった。それは、十三年間の死体のような人生の終わりだった。
「げ」
「その言いぐさはなんだい」
千問の一角、佐々木和也は必要な書類を取りに行くために非常階段を登ってきたわけだが、開けた途端に見えた顔は間違いなく彼の表情を歪めた。黒髪を一つに縛っている様子、ポップな黄色がまるで子供の玩具みたいな人工内耳、よく見慣れたツナギ、ビジネスバッグの形をした工具入れ。佐々木和也のリアクションに思わず反抗した男――フォン・Gは工具を全て仕舞い終えると一仕事終わった様子で立ち上がった。
「何故ここにいる」
「修繕依頼。この後授業もあるけど」
「……ここでは佐々木和也と名乗っている。登録名で呼ぶなよ」
「そう。私もここでは李の方で通してるから。わかったね?」
「わか、った」
あまり李に対して従うポーズを見せたくないが、逆らうポーズを見せて痛い目も見たくない。とどのつまり佐々木和也は大人しくそれを承諾することしかできないわけで。李は「それじゃ、私は授業あるから」と言ってそそくさと立ち去った。佐々木の不機嫌な様子を察したのだろう。お互いがお互いに巻き込まれたくないのだ。
佐々木はため息をつき、夜舟が戻ってくるのを待つ。照明は眩しすぎて消してしまった。街灯が差し込んでくるくらいが、夜の世界の人間としては心地がよかった。手元の書類には先程教えてきたばかりの生徒――青山服洋に関する塾側から提供された資料があった。いちいち資料を返しに校舎内に戻らなくてはいけないのは面倒だが、電子データで残しておいて見られるリスクが付きまとうのはよろしくない。丁寧にコピー防止用紙にしているあたり、悪党相手ならば正しく抜かりない対応をしてくる。佐々木からすればいちいち鼻持ちならないことではあった。資料に再三目を通しながら、今後の授業計画を演習する。
その折であった。入り口の方から、耳にぜいぜいという呼吸音が聞こえた。音の方向に向けば、男性らしき小柄な姿がドアにやっと手をかけてしゃがんでいた。荒い呼吸はその人物から零れており、それを確認した途端佐々木和也の意識は自然と外部講師から医神に戻っていた。
「おい」
「っ、……!」
「幻肢痛か」
「だ、大丈夫です、だいじゃ、大丈夫です。すぐに、へいきに、なりますから」
平気だとしきりに主張する視点は焦点が定まっておらず、未だに呼吸も乱れ続けている。原因を探る視線は、最早探るより先に一点に留まっていた。
義手。肘より手前からごっそり無くなっており、まるで山芋みたいな短い腕でどうにか落ちないように必死に黒い義手を抱えていた。それも両手。佐々木の慧眼は彼の苦痛が幻肢痛にあるとすぐに理解した。原因、不明とされているがサイズの合わない義肢や切断部位の異常興奮。痛みの程度や持続期間、電撃通や裂傷に近い痛みが間欠的に数秒から数時間。対処法、薬物とミラーセラピー。
「処置のために鏡があるところに向かう。立てるか」
「はぁっ、い、いつものこと、なんで、だ、大丈夫、です」
「どこが大丈夫だ。薬はあるか。あるなら服用、とりあえず顔を上げろ。ゆっくり息を吸え」
緊急事態の患者に老若男女の貴賤はない。
バイブ音が長いリズムと短いリズムと交互に来れば、その合図だとわかるように設定している。駐車場に近い階段を降りながら、夜舟はアプリを起動して対戦相手と場所の一覧を眺めていた。
「場所遠い、レート低すぎ、時間間に合わない……」
スワイプして持ち掛けられた試合のほとんどをスルーしていく。レートが上がることは好ましいことではあったが、如何せん沢山試合をやれるほどのスタミナがまだ仕上がっていないことは難点であった。おまけに今日は華の金曜日、いつもより試合数の通知が多いのだから煩雑でならない。結局やってきたマッチングは全て棄却したことになり、新たに募集を開始しなくてはいけないことになった。
マッチ一本。つい最近出没した、ステゴロ試合のマッチングサービスだ。日時場所、相手のレートを指定すれば試合をマッチングしてくれる。判定をしてくれるスタッフがどこかにいるらしく、ついでにそのスタッフが繋ぐ中継を通して賭けをすることだってできるもの。
決闘罪、賭博罪、暴行罪……様々な法律に引っかかるが、この世界でそんなことを気にしていては成り立たない商売などいくらでもある。夜舟もそんな世界の住人の一人として、自らの暴力衝動を治めるためにこのアプリにあやかっていた。
ファイター名「|Tyler《タイラー》」、場所は主に駐車場。レートは大体一七〇〇をベースに停滞したり上がったりを繰り返している。観戦勢のなかではそこそこに人気で、速攻で相手を仕留めるスタイルはファスト主義の若者たちに特に人気だそうで、繋がるたびにどんな形で仕留めるかについてでチャット欄が埋まることもあるほど。それが白川夜舟のマッチ一本での姿であった。
バイクのエンジンキーを回した頃。アプリからの通知が来る。レートは自分よりおおよそ二百ほど上。場所も時間も共に承諾。マッチ成立だ。口角が歪んだ吊り上がり方をしそうになるのを抑えもせず、夜舟はバイクを走らせた。鼻は自然と流行りの洋楽を歌っていた。
適当なコンビニで着替えを済ませ、服はバイクの座席のところにある荷物入れに放り込む。ネックウォーマーとフードを深くして、なるたけ顔が見えないようにする。何度かジャンプすれば、体は程よくほぐれてこれからの殴り合いを待ち望んでくる。ここで夜舟――いや、タイラーはやってきた対戦相手を見た。
緑の髪を一つに結んでまとめている。リングのピアスが電灯を跳ね返し、インナーで覆われた体つきはたしかに彼のレートの高さを知らしめていた。しかしそんなこと、タイラーにとって重要ではない。その顔は、間違いなく白川夜舟として見覚えのあるものだったからだ。ファイター名、「ペリュトン」。どう見ても、同じ数学教師である逸見の顔だ。タイラーはいっとう深く被り直し、そして端末からの試合開始の音声が流れるのを待った。
マッチが始まる。タイラーは様子見することを決め、ペリュトンは早々に攻撃を叩きこむことを決めた。真っ直ぐ突き出された掌底を少しく避けて手首を掴み、柔道だったか総合格闘技だったかの要領で投げ飛ばした。チャットが投げられる音が盛んになっているが、とっくに二人からは遠くなった音だ。体勢を立て直す前にタイラーが蹴りを叩き込む。しかしそれは数発目で足首を掴まれて地面に引き倒された。遊び心とやる気はそこそこ。力量はもちろん十分。ならばともみくちゃになる前にタイラーは無理やり自らの体をペリュトンから引っこ抜いた。多少コンクリートに擦りむいたが、これくらい軽いものだ。そのまま肩をぶつける。よろめいた隙に拳を打ち込む。拳は避けられ、カウンターを顎に叩き込まれる。後ろに大きく下がった隙を逃さず、飛び蹴りを叩き込む。脳細胞が震える。フードが外れた。
「……!」
ペリュトンが一瞬大きく目を開く。
「なぁんだ、あんたも『そっち側』なの?」
「……そんなに笑うなよ」
気付かれたことを察した夜舟は、その息苦しさを取っ払うかの様にネックウォーマーを下げてその笑顔を見せつけた。
「そんなに笑われたら……こっちだって、笑いが止まらなくなるだろ?」
しかしその笑顔は塾で見せるものと何ら変わらない、自然体の笑顔だった。ペリュトンは塾で見る夜舟の笑顔の正体をそこで知り、そして逸見として笑った。しかしその間に夜舟は距離を詰めて飛びつき、笑顔ごと潰すかのような膝蹴りを打ち込んだ。咄嗟に手で受け止めたことで顔面が潰れることは免れた。痺れを振り切り、鳩尾にフックを叩き込む。
「はは、楽しいなぁ!えぇ?!おい!!」
全てのパーツの硬直。夜舟は脳が揺すられたことでガンガンと警鐘を叩き込んでくるが、そんなこと構わずに連撃の回避と迎撃を繰り返す。ひとつひとつの衝撃の重さを理解した以上、喰らわないようにするかその力を利用することが最も効率が良いと気付いていた。しかし久方ぶりのパワータイプの相手に加えて夜舟が苦手とする試合の長期化。夜舟は残り時間がどれくらいかをうっすら考え始めた。
「はぁっ、はぁっ」
「はは、もう終わりです?」
「まさか、なぁっ!」
小柄な体躯を活かして潜り込む。引き倒すように。打点や重心など関係ない、横というフィールドに持ち込む。腕の筋肉を活かした絞め技。わかりやすく、ヘッドロックで。チャットの盛り上がる音が遠くから聞こえる。金の変動する音。それは金銭的利益ではないところから彼らを興奮させた。殴り合うことに生じる原初の快楽。闘争本能を掻き立てられる音がどこからとも無く聞こえてくる。逸見はしばらく夜舟の腕を剥がそうとしたが、やがてひとつの事を思いついた。無理やり首の向きをほんの少しだけずらしたかと思いきや、手を夜舟の腕ではなく首に回す。関節に負荷のかかる音がしたが大して気にならなかった。互いの力比べ。酸素はみるみる無くなるが、替わりに湧いてくるアドレナリンや何某が一秒でも長く息をしろと気管を広げようとする。互いが視界を真っ赤に染めたあたりで、携帯からビーッ!とビープ音が鳴った。
試合終了だった。その音を聞くや否やお互い力が抜けて、そのままぜいぜいと酸素を吸入しようとせん音だけが響く。夜舟が逸見より少しばかり早く立ち上がり、地面に置いていた携帯を拾い上げる。試合結果は逸見の勝利だった。全体的に有利だったのは逸見であるから、判断に不服は感じなかった。満足いった試合。久方ぶりに快楽さえ感じた戦い。去ろうとする足取りには、未だに酩酊感が残っていた。
「いつかもう一回やろうぜ」
声に立ち止まる。それはペリュトンか逸見かわからなかったが、夜舟は逸見と戦いたかった。
「こんなモノ抜きにしてな」
「ふは、もちろん。サシで『イイコト』しようぜ」
風が冷たい。夜な夜な刺激を求めて戦うものたちを冷やす、都会のビル風であった。
外部講師の素行をある程度調査することも、千問教師の役割だ。拡正義や一般人のように本名が割れているものであったら検索すればいいのだが、これが悪党番だのをはじめとした裏社会の人間であるとそうもいかない。夜舟は印刷したデータと端末に映し出された自習の文面たちをどうやってマッチングさせるか手をこまねいているところであった。
「んー……」
「夜舟くん、そろそろ休憩だって」
「あ、はい。わかりました」
香月が書類を片手に顔を出してくる。クリアファイルの束たちは、外部講師に渡すための生徒の情報群だ。彼女は夜舟が机の上に置いている書類と端末の画面を覗き込み、何の仕事をしていたかを概ね察する。勝手に書類の一部を掴まれたが、夜舟は何も言わなかった。夜舟も五年以上千問にいれば香月はただの淑女でないことなどわかるし、きっと一部の外部講師との縁があるんだろうなということも推察できる。しかし彼女には、それに何も言わせない、首を突っ込ませない妙なオーラがあったのだ。
「これ見ていい?」
「あぁどうぞ。最近の外部講師のデータです。ほら、目96駅校って外部講師そんな呼ばないじゃないですか。派遣するにしても精査しないとなって」
「あー、たしかに。……結構フリーの人も沢山いるんだね」
「そうなんですよ。基本フリーの人派遣できるならいいですよね。責任取らないと言ってる手前対立組織とかバラケさせたいじゃないですか」
「そうだね……」
傍から見た香月は書類をただ流し読みしているようにしか見えないが、きっと沢山のことを考えていて、その中に善の思想では済まないことも含まれているのだろうということも、夜舟はなんとなく察している。クラス区分というのはあくまで本社の判断であり、実際の思想や経歴がストレートに反映されているとは限らない。夜舟の教え子である檸檬で例えるならば、教えている内容や行動自体は周りに被害を及ぼすものではないために白クラスだが、肉のついている人間を酷く嫌っている思想でいうなら黒クラス待ったなしであるということだ。それを彼ら教師や生徒が知ることはないのだが、そこそこに在籍していればなんとなくわかりえることの一つだという話である。
「……この子、悪党番から?」
「失礼します、……あぁ、そうですね。こいつは悪党番からです。俺が呼びました」
「どういう縁で?」
「ノーコメントでお願いします」
「そう」
「知ってる顔です?」
「ううん」
「……そういうことにしておきますね」
そんな夜舟でも知らないことはある。香月の顔には表情を悟りにくくするための化粧術と生計が為されているということ。その整形を悪党番職員にしてもらったこと。元々悪党番にいたこと。
そんな数々を、香月はこの一言で乗り切るようにしているのだ。
「女はね、秘密が多いものだよ」
事実として、ルドラという男はやれと言われたら大概のことは出来てしまう男である。料理にしても殺人にしてもルドラが出来るとしてやらない理由というのは、彼が自らを医神という枠で固定しているからに他ならない。
しかし千問での彼は違う。佐々木和也という名前を名乗り、【救い方】を教えている講師の姿をとっている。目の前の誰かの救い方、見知ったあの人の救い方、報われぬ自らの救い方――その願望に対して生徒に合わせて教えるものを変えていく。持ち前の医療技術も教えるものの一つであるが、なにもそれだけではない。
「怒りの感情の逸らし方は色々ある。最初の授業で教えたものは怒り以外全般の感情に対して応用できるものであるが、逆に言うと怒りにクリティカルヒットしない場合がある。ここまではわかるか」
「要するに広く浅いテクニックってことでしょ」
「そうだ。では怒りに対して特に効く方法を教える」
「そんな都合の良いものあるの」
「効く効かないは個人差だ。だから色々な方法を教えていくがあくまでその中から一番効くものをやり続けることだ」
「……まぁやらないことには始まらないものね」
「そうだ。メモするなり暗記するなりは好きにしろ」
口述で怒りを鎮める方法のひとつひとつを伝授していく。佐々木和也の指導方法は基本的に大学教授と大差ない、会話のなかにひたすら詰め込んでいくかたちだ。その名詞はもちろん形容詞や助詞にさえ意味が込められている。お世辞にも生徒に合わせているとは言い難く、暴力的に知識を叩きつけていく。
「以上だ。これらの方法はアメリカで開発された心理トレーニングとして導入されている以上効果は担保されているものだ。順番に実践してみろ。これらの結果の報告は次の時にすることだな」
「……わかりました」
「不満でも?」
「話すのが早いの。ノート取るにも取りにくいじゃない」
「……どこまでノートは取れた」
「五つ目」
「では六つ目から」
佐々木和也は授業を行う際に教科書を用いない。せいぜい補足知識を話すのに使う最新の研究データが示されている論文を持っているくらいだ。滔々と喋る口元は区切るまで留まることはないが、先程よりはゆっくりになった。導入としての会話がそこそこに続いた影響か、ノートを取り終わったタイミングでチャイムが鳴る。
「では以上。先ほど伝えたように次回の授業までに順番に実践し、体感を報告できるようまとめておくように」
「はぁい。……ねぇ」
「なんだ」
「先生、何でここ来てるの?」
「交通手段か?それとも理由か?」
「理由」
「目的があるから」
「目的って何」
「目的は目的だ」
「……教えてはくれないのね」
「私にも言えないことは存在する」
佐々木和也の真意を知る人間は、少なくともこの塾には未だいない。夜舟も、青山も、もちろん目の前にいる迹見も。迹見より深く、そして漫然とそこにある怒りの矛先にいる『三人目』を知らないのだ。
「他に聞くことは」
「……ないですけど」
「ならいい」
ある悪党番は、事務所がまだ閑散としていた頃を思い出していた。
「ねぇ、お願いしてた靴まだ?」
「……今予約が混みあってて二週間はかかるって話してなかったっけ。初めての総員依頼なんだから」
「知らないわよそんなこと!アタシからしたら九九も五三九もちんたらしてて迷惑だって話なの!はーやーく!」
当時の職員はといえば、大体悪事を働いてどうしようもなくなった――あるいはそんな顔をしておきながら内心微塵も罪悪感を抱いていない――連中がたむろしているものであった。【フォン・G】こと革田富之助・グスタフ・李もその一人で、自らの罪を紛らわすついでに仕事で稼げたらという魂胆で事務所に入り浸っていた。
そんな彼を困らせにかかっていたのがこの【イランイラン】という登録名の女であった。恐れ知らずの礼儀知らず。オマケに高頻度で依頼を受けるものだから毎週のようにやってくるのだから厄介者といって差し支えない。フォンは彼女の依頼が来るたびに他に依頼を回せる職員がいやしないかと祈るばかりであった。
「形の指定さえしていない癖に何を言うんだ!シークレットシューズってだけで時間がかかるっていうのに!」
「うっさい!アタシもう次の病院に移る用意しちゃってんの!わかる?」
「わからないよ!君が勝手に依頼のスパン短くしてるだけだろう?別にそこの看護師ってだけでも私よりは食べてはいけるだろうし……」
義肢装具士というのは如何せん食い扶持が少ない職業だ。看護師の需要はこの時代も担保されているにも関わらず、彼女は依頼のために身分と顔を変えて病院を転々としている。それがよく続くものだと時代の寛容さを不思議に思う反面、その文脈には確かな皮肉が込められていた。依頼に固執しなければいいのにという、イランイランにとって一番の起爆剤となる言葉だ。彼女はわかりやすく苛立ち、フォンの作業机を思いきり蹴る。
「何よ偉そうに!あんたみたいなのでもいないとやってけない業界の人間に言われたくない。っていうかそんなこと言ってるなら手動かしなさいよ」
「君から言い出したことだろうに……」
元より争いを避けたがるし、下手に言い争いをして脳に血液が集中すれば倒れる可能性がある。そういうことでフォンは早々に言い争いを諦めて靴づくりに集中することにした。インソールを改造して高さの調整を行う。履き心地にも影響する作業だから慎重に――と思っていたところで、ドアが大きな音を立てて開いた。誰かと見るまでもなく手首や首に巻いているチェーンのジャラジャラした音が正体を明かす。【菟鬼】であった。
「おーいフォン!【人形】いるか?」
「急に開けないでよもう……彼なら今は留守。どうしたんだい」
「あ、そっかお前溶接もやってるか。開けてほしい金庫あるんだけどヨォ」
「ねぇ予約も入れないで勝手にアタシの依頼中断させないでくれる?迷惑なの」
「うるせぇな売春婦。自分から体売り込んでるくせに忙しいなんてほざいてる女は言うことが違いますこと」
「なんですって!?」
「ねぇ開発室で騒がしくするのやめてくれない?」
フォンが制するも彼らは部屋主の話など聞きもせずに言い争っている。菟鬼とイランイランの仲の悪さもまた名物ではあった。きっかけさえ誰も思い出せない。しかしまぁ人間より美術品の方が美しいと感じる感性をしている菟鬼と、何が美しいとか素晴らしいとかに頓着することなく目の前の事実にしか関心を置かないイランイランでは水と油なのもわけないだろうというのはどこかの悪党番の意見である。二人の揉め事は最終的にフォンがサーベルを抜くまで続いたわけだが、それもいつかの話。
「どこに行ったのやら」
二人して別の時期にそれぞれの理由で悪党番を脱退した。
菟鬼は二十二年前に、「理不尽な契約を結んだ」ことを理由に。
イランイランは十三年前に、「恋をしてしまった」ことを理由に。
フォンは二人の行方を追おうと思ったことはないし、そんな気は今更起きない。調べたところで、別に何を得るでもないことを知っているからだ。そして彼は悪党番を抜ける気があるかというと、これもまたそんな気は起きない。彼の罪を隠せるのは悪党番ほどの組織くらいしかないからだ。
開発室の扉を叩く音が聞こえる。何かを引きずる音が聞こえてきたから、ハチあたりだろうかと推察をしながら、ソーイングセットを取り出す。
「入っておいで」
結局自分は悪党にしかなれないのだということを思わないわけではなかったが、依頼人の対峙を前にその思考はすぐに流れてどこかにいってしまった。