人間は不変ではいられないことに、男はいつからか気付いていた。きちんと言葉にできるようになったのは悪党番で医学を学び始めてからであったが、もっともっと前にそれらしいことを理解できていたような気がする。
人間の細胞は最初から最後まで同じものではない。よく愛した人を食べてひとつになる、なんていう二束三文の物語があるが、白血球なんていずれ膿になって体の外に排出されても免疫の強さは変わらないし、人間の外装を成している皮膚だって一ヶ月の間に目まぐるしく入れ替わっている。人間が人間を成すためには、変わり続けなければいけないのだ。
37回目の治療は無事完了した。額にガーゼ、肋骨にはバンド、指にはテーピング、打撲痕には安いアイスシート。最適で、最小限で、最善の治療。千切った紙袋をぐしゃぐしゃに丸めて捨てる。ルーズリーフを取り出して書きつける。「ハチ 37」。簡単に人体の輪郭を書き、様々な色のペンで負傷箇所を記す。無意味な耐久実験の記録だけが積まれていく。そこに意味はないのに。そこに必要性はないのに。わざわざ外装を中身が及ぶまで傷つける理由はどこにある。その癖また元の姿に戻りたい理由はどうしてある。思うことはあれど治療記録にそこまで記す必要はなくて、どういう処置をしたかだけをまとめ終わったらリングを用いてまとめていく。このリングファイルは治療を受けた回数が20回を超え、いわゆる常連枠となった人間に用意されているものだ。お互いにとって喜ばしくないファイル。お互いを暴かざるべきである彼らの共通認識が増えていく。ため息。
「記録が終わった。帰っていい。お大事に」
「……」
「なんだ。負傷箇所は全て」
「ルドラサマは」
「……?」
「何度ここを尋ねて、何度自傷しても、『お大事に』と言うのですね」
「……」
人間は不変ではいられない。だが、それと同時に不変でなくてはいけないところもある。それはただ人間の目が二つで口と鼻が一つであることだけに留まらない。
「そうしなくてはいけないのが、99として、医神としての義務だ」
ハチが自ら負傷することのように、ルドラがその言葉をかけることのように、それぞれが人生をもって会得した美学でもあるのだ。
唇と歯、舌の動きが振動を作る。音波を生み出す。生み出した音波は鼓膜を揺さぶり内耳を通り、やがて音となって伝わってくる。それを脳が受け取り、分析し、言葉になる。そうなるために人間、いや生物がどれほどの時間をかけたかは想像しがたい。人間が人間に至るまでの進化を学んでいると、その複雑な進化を完全に成すことは難しいと理解できるし、それゆえに疾患が生まれることは理解できる話だ。
だからこそサイレントの聴覚障害はルドラにとって「なんてことない」すべき配慮の一つであった。しかしサイレントはルドラが難聴を話さずとも見抜き、マスクをつけた口で淡々と語りかけてきた様は彼女をぎょっとさせた。経過観察の最終局面、サイレントの額についている包帯が外れていく。ルドラのマスクはサイレントを前に外れていたが、首の包帯は毎日交換されているものの外されていることはなかった。
「治ったぞ」
「……」
「お大事に。二度と、来ないように」
「じゃあ、放っておえば、いいのに」
「そういうわけにはいかない。私を前に誰もが病むことも負うことも許されない」
ルドラの思想の主張はサイレントが聞き取るには難しかったようで、うっすら残った額の抜糸痕をそろそろとなぞって指に伝わる感覚を得ている。やがてルドラは一つの要件を思い出したようで、「満足したならとっとと出ていけ。鍵は私が持っているからかけなくて結構」と言い残して部屋を出る。実際のところスマートロックを用意しているからいつでも施錠の確認をできるのだが、わざわざ伝えることも面倒であった。
「フォン」
「なんだ君か……なんだい?」
「――はいるか」
「あぁ彼?今たしか依頼があって外に向いているはずだよ」
「……」
開発室に赴いたことが徒労に終わり、ルドラは一つ大きなため息を吐いた上で舌打ちをした。フォンにたしなめられるが大して聞きもせず、代わりに伝言を頼んだ。
「サイレントの爆弾作成依頼を引き受ける際は本人の命も配慮するように言え。99からだと言えば伝わるだろう」
「どうかな……あの子は随分言うこと聞かないからね。わからないけど言っておくよ」
「聞かないなら叩きこめ。私にそうしたように」
「冗談が過ぎると私も黙っていないからね」
「……わかった」
フォンの黄色い人工内耳が目に入る。輸血も嫌がったサイレントだ。きっと人工内耳も拒否されるだろう。そんなことを考えながらそれを見ていると、本人が耐えかねたようで声をあげた。
「私の耳に何か?」
「……いつからつけていた」
「これ?一歳くらいで手術したらしいから物心ついた時からあったかなあ」
「抵抗はあったか?」
「うーん……ずっと聞こえていないよりはマシだなあと思うけどね」
「……成程。伝言頼んだ」
「了解。聞くかどうかは置いておいてね。あ、あと人形くんの次の義足点検が近いからよろしくね」
「わかった」
開発室を出ていく。自身の治療室に戻ればサイレントはもういなくなっていて、大治療室との伝言に使うホワイトボードには「ありがとう」と小さく書いてあった。