ふと、指先にちりっとした痛みが走ったことに気づいて正気を取り戻した。
気づけば伝票をまとめていたホチキスの芯が指に刺さって、小さく血の玉ができていた。
「本橋さん、今日どうした?」
上司の赤井にそう言われたが、美唯は喉の奥で「え?」という言葉を掠れさせるだけで、結局何も言えなかった。
赤井は美唯が入社した当時からの上司で、四十六歳とまだまだ働き盛りの男性社員だ。
プライベートの話は少ししか聞いたことがないが、病気の妻と高校受験を控えた息子がいるという。
妻の治療のため、多額のお金が必要だろう。
それでも介護と育児のために赤井は残業がほとんどできず、優秀な仕事ぶりとは裏腹に平社員止まりだった。
美唯がすぐ責任者という役職になり、赤井の役職を追い越してしまった。
それでも赤井は美唯より長く務めている分、多くの業務を知り、多くの経験をしている。
美唯は今でも赤井を上司だと慕い、一緒に売り場を盛り上げる仲間だと思っていた。
「いつもと様子違うけど…もしかしてかなり疲れてる?」
年齢の割に深い皺が寄った目が、美唯を心配そうに見ている。
「全然疲れてないですよ!あの、最近あまり提案できてなかったので、なんかいい企画思いつかないかなーと思ってたらぼーっとしていたかもですね」
赤井の前で疲れているなんて言ってしまえば、すぐ休憩室へ行くよう言われてしまう。
若い社員に無理をさせてはいけないと考える赤井の優しさだが、これは休憩室で休んだとて解決する問題ではない。
「家庭のこともね、あるでしょうから。そればっかりは仕方ないよ。無理は禁物です」
家庭のこと、という言葉にドキッとした。
赤井が言っているのは、一般的に結婚した人が家庭でするような家事の大変さのことだろう。
美唯は一瞬、家庭の問題が筒抜けになったかのように思えて緊張した。
「そう…ですね。でも結婚前はあんなに企画提案とか、商品の導入もできていたので…ああいうの、本当はやりたいんですよね」
結婚して、義家族と同居するようになり、美唯はあまり残業ができなくなった。
以前は進んで残業をして、売り場を把握し、家でも本社に売り場の企画を提案しようと案を練っていた。
それが今はできない。
あんなに楽しかったのに。
そのせいか、結婚後の美唯は本社の社員に以前のような注目をされていない。
本社の社員との繋がりを作っておけば、より頑張りを評価されて出世しやすい。
店次長候補として社内資格を取りつつも、本社でのバイヤー業務にも興味のあった美唯にとって大事なパイプだった。
しかしそのパイプがいとも簡単に錆びついてしまった。
結婚して残業もできない、家事と義家族との関係に疲れ切っている女に出世なんて夢物語なのかもしれない。
「家、大丈夫?」
「えっ、家ですか?」
「旦那さん、本橋くんだよね。多店舗で働いているとはいえ、こんなこと言ったらあれだけど、本橋さんの方が役職上だから…旦那さんはそういう嫉妬みたいなのとかはもしかしてないのかな?」
「ああ…あの人は、どうなんでしょうね」
祐大はOJTを終えて独り立ちした後、未だに平社員だ。普通の社員はそうなのだ。
新卒で入社した社員は、男性であれば通常30歳を超えて責任者の上のリーダーという役職を目指して試験を受ける。
美唯が入社してすぐに責任者になったのは異例中の異例だった。
そもそも女性であれば優秀でもなかなか昇進のチャンスが訪れない。
上長が女性でも積極的に昇進させようとしているか、自分で本社の社員にアピールをするかしなければ、基本的には男性ばかりが昇進の候補になってしまうような会社だ。
美唯の昇進は責任者までで、立ち消えになってしまった。
店次長を目指してまずはリーダーになるはずが、結婚してから仕事に時間を割けない。
何も言われていないものの、何も言われていないからこそ、本社の社員が美唯を候補として見ていないことがわかった。
祐大はこのままいけば、30歳を超えて他の社員と同じようにリーダー試験を受けるだろう。
焦ることも、美唯を僻むこともしなくていいはずだ。
赤井が心配してくれた。
八重子の、麻里子への当てつけのような優しさではなく、部下を心から心配する赤井の真っ当さに涙が出そうだった。
売り場が同じ美唯と赤井では、めったなことでは休憩時間が被らない。
赤井は家庭の事情で飲み会に来ることはなかったし、今は美唯も家を優先して飲み会に欠席し続けている。
今しかない。
「あの…義母とうまくいってなくて、疲れってそれですね」
何でもない風を装おうとして、結局は少し涙声になってしまった。
社員が売り場で泣くわけにはいかないので、鼻から息を吸い込んで少し深呼吸をした。
隣で、赤井は本当に悲劇に打ちひしがれるような顔をしていて、さすがに大袈裟に感じた。
「嫁姑問題はよくあるからね…同居ってなると大変だよね…。俺もわかるよ、とは言えないけど自分の実家とあまりよくないので、うん…つらいね」
かける言葉に迷っているようで、赤井は少しの間作業の手を止めていた。
手書きの発注伝票の上、ボールペンが止まって商品の名前が中途半端になっている。
「本橋くん、味方してくれてる?」
愚痴を言うとき、赤井さんにはどこか女性性を感じることがあった。
そのときも女性たちが集まって旦那を悪者にするときのように、言葉には祐大を信じ切れていないニュアンスが含まれていた。
祐大って、あんまり評判よくないのかな。
そんなことが頭をよぎったが、きっと赤井にとって祐大よりも、何年も一緒に仕事をしている美唯の方が信じられるというだけの話だろう。
ここで祐大の行動を咎めるのは悪手ではないかと思った。
「いやーなかなか…ちょっとまた相談させてください」
自分から話を振っておいて、美唯は赤井にそう笑顔を向けるとそばを離れた。
接着剤の売り場で長いこと悩んでいる様子の客のもとへ向かいながら、美唯の心はすっと冷たくなっていく。
祐大が味方してくれれば、どんなによかっただろう。
本質的に問題なのは、義母に誤解されて暴言を吐かれたことではないのだ。
赤井を前に、祐大の罪を隠そうとしてしまった。
やはり多店舗とはいえ同じ会社の社員である祐大を下げる言動は、悪手に思えてならない。
美唯を売女と言ったのは義母ではない。
麻里子はそう聞かされて、素直な心で大嫌いな私を疑い、問いただしただけだった。
義家族に私の悪評をつらつらと吹き込んでいたのは、紛れもなく私の夫である祐大だった。
麻里子に売女呼ばわりされた後、美唯は浴室でしばらくぼーっとしていた。
風呂椅子に座って、壁を伝った水滴が急いで落ちて行くのを無心で見ていた。
「なんで、そんなこと言うんですか」
こんなときでもなるべく攻撃的にならないよう、目に敵意を宿さないよう、そんな風に考えた美唯だがきっと表情をうまく作れていなかっただろう。
美唯の質問に、麻里子は相変わらず訝し気な目を向けていた。
そんなに疑わしいか。
まるで汚れを見ているかのような麻里子の目に、美唯の鼓動はどんどん速くなる。
「…あの子が、祐大が言ってたから。」
「祐大が?」
そんなわけない。
好きで結婚した妻を、義母相手に売女だなんて言う人間がいるわけがない。
「あなた、田舎から出て来て大学時代は随分はっちゃけてたんでしょ? 祐大から聞いたよ。毎日毎日遊び回ってたのが、あの子と付き合ってやっと落ち着いたって聞いたから」
はっちゃけてた? 遊んでた? 私が?
室内にもかかわらず、突然雲がかかったようだった。
視界が仄暗くなる感覚に、足元がぐらついてどこかへ落ちていきそうだ。
確かに私は田舎の出身で、初めての恋人と出会ったのも大学でのことだった。
しかし遊んでいたなんて大嘘だ。
日本文学科に入ると、せっかくの大学生活だから何でも挑戦しようと思い、毎週小論文を提出するようなゼミに入って勉強に励んでいた。
結局就職した先は学んだこととは無関係な仕事であったが、美唯は楽をして遊ぶ時間を作ることを考えず楽しさから勉強をしていたのだ。
さらに大学時代に出会った初めての恋人とも、人並みの性交渉があった程度のことで羽目を外しすぎたことなどない。
自分は真っ当に生きていると思っていた。
褒められるほどではなくとも、恥ずべきこともなく、祐大には大学時代には趣味という趣味もなくゼミに参加していたという話もしていた。
なんでそんな嘘吐くの?
目の前にいたら祐大に掴みかかって、泣きながら責めていたかもしれない。
しかし今目の前にいるのは麻里子だったので、美唯は動揺に眼球を震わせながらそこに立っていた。
「あなたと付き合い始めてから、祐大が家に帰ってこなかったことがあってね。そのときも言ってたの。あなたに、美唯さんに今日はどうしてもどうしてもって求められて帰れないって。本当は帰りたいけど、彼女に恥をかかせられないからって」
あまりにひどい嘘に、美唯は顔が熱くなっていくのを感じていた。
お互い社会人としして働く大人だから、祐大が家に帰らなかった日のことをすべて把握しているわけではない。
祐大が基本的にはデートの後も家に帰るようにしていたのは知っている。
厳しい家なのか、祐大自身が家族を心配しているのかはわからなかったが、成人男性が門限を設けられているようなことはないだろうと勝手に思っていた。
そんななかでも祐大が美唯の家に泊まるときには、夜を迎える前に麻里子に連絡をしていたのだ。
残業することになったから会社の近くに泊まる、会社の男の先輩の家に泊まる、などと。
家族で暮らしているということは、晩ご飯の有無について知らせる必要もあるだろう。
それでも祐大が逐一母親である麻里子にする連絡に、言い知れぬ気味の悪さを感じていた。
そして嘘を吐く理由がわからなかったが、美唯はそのときも問いたださなかった。
そんな祐大が家に帰らないという麻里子への連絡を送れなかったのは、あの日かもしれない。
同期の男子で集まって飲んだという祐大が、突然家に泊まりたいと連絡をしてきたあの日だ。
その日は祐大が外で飲んでいることは知っていたが、とくに会う約束はしていなかった。
だから社内資格の勉強を進め、翌日に備えて早めに寝ようと考えていたのだ。
わざわざ家に来るのも大変だろうと思った美唯は、祐大の申し出を断り、ホテルに泊まるよう言った。
すると祐大は激怒したのだ。
なんで? なんか不都合でもあんのか。迷惑だと思ってるならそう言えよ。クソ女。
たて続けに送られて来る祐大からのメッセージに恐怖を感じた。
これまで祐大が酔っぱらって怒り出すことはなかったから、美唯は理不尽を感じる前に焦ってしまったのだ。
結局その日、祐大は美唯の制止を振り切って家に上がり込んだ。
倒れるようにして眠ろうとする祐大に、美唯は聞く。
「お義母さんに連絡したの?」
次の瞬間、祐大は「やべ」と言って起き上がり、美唯にスマホの画面を隠すようにして何やらメッセージを送っていた。
あのときか。
最悪な嘘に目眩がする思いだったが、美唯は麻里子に向けて何とか口角を上げて見せた。
「そんなことはなかったですよ」
「祐大が嘘をついてるって言うの?」
責めるような口調の麻里子に「そうだよ」と言えたらどれほど楽だったか。
「祐大がどうしてそんなことを言ったのかわかりませんが、そういう事実はありません」
譲ってはいけない。謝ってはいけない。
これまでどれだけ家事に文句をつけられ、問いかけを無視されても義家族の前で泣くことはなかった。
謝罪をするときもこれ以上事が大きくならないよう考えていて、すっかり慣れているつもりだった。
今は心が警告を鳴らすように、認めてはいけないと言っている。
美唯は麻里子と目を合わせられず、少し目線を落として口角を上げたままの顔を保った。
「…湯冷めするからもう行くわ」
美唯から視線をそらしてそう言った麻里子が十分に遠ざかった後、美唯は静かに脱衣所へ向かう。
パジャマと下着の上に、引き出しから出したばかりのタオルを置いた。
脱いだ服を洗濯カゴに入れ、その日も脱いだ下着を隠すようにトップスを上に重ねた。
もう誰にも性的な機能が備わっている人間だと思われたくない。
黙って浴室の壁を見ていた。
小さかった水滴が他の水滴に合流し、加速して落ちて行くのを見ていた。
風呂場がどんどん乾燥して冷えていく中、美唯はため息をつくことすらできずにいた。
麻里子に言われた言葉がぐるぐる頭の中を回るだけで、これからどうしたらいいのかなんて考えられない。
そのとき、蛇口から水滴が落ちて床を叩いた。
その音に釣られて床に目をやると、途端に視界がにじんできた。
あふれ出す涙を止めたい一心で顔を両手で覆うが、顔がぐしゃぐしゃに濡れていくばかりだ。
泣いているなんて知られたくない。
何とか涙を止めよう、声だけは出さないようにしようと深く息を吐いては唇を噛む。
一体誰が悪いのかわからない。
祐大が本当にあんなことを言っていたのか、麻里子が嘘をついているんじゃないのかとも思う。
でも毎日毎日飽きずに無視をしてイヤミを言ってくる麻里子を見ていて、あれが創作による悪意ではなく汚らわしいものへの嫌悪と憤怒であることは美唯によくわかっていた。
それでも祐大が結婚する前から美唯を貶めなければならなかった理由はもっとわからないのだ。
許せない。
許せないけど主張ができない。
疲弊しきったこの心身で、何か行動を起こせばまた環境や状況が変わってしまうことが怖かった。
その日はどうやって身体を洗って、どうやって髪を乾かしたのかわからなかった。
ふと気がついたら閉め損ねていたカーテンの隙間から薄くて白っぽい光が差し込んでいて、時刻は五時。
アラームが鳴るよりも前だった。
隣で何事もなかったかのように寝ている祐大の顔に枕を押しつければ、苦しい思いをさせられるだろうか。
今この場で泣き叫んで祐大を責めたら、一緒になって泣いてくれるのだろうか。
どれもこれも義家族と同居しているこの状況ではとても現実的ではない。
いつも祐大より後に寝て、祐大より先に起きていた。
それでも祐大を起こさないよう気を遣っていたが、今はもう起こしてしまってもいいような気がする。
起き上がって大袈裟なため息をつくと、音を立てて寝室のドアを閉めた。
毎朝化粧や着替えをする前に、祐大と勉、航大が持って行く弁当を用意する。
晩ご飯の残り物を詰めると祐大と勉が文句を言うので、前日に弁当用の具材を作っている。
文句ばかりの義家族に傷つけられたくないと、これまで従ってきたのにあの仕打ちだ。
馬鹿馬鹿しい。こんなことする義理はないのに。
ついにそんなことを思いながら、具材の隙間を埋めるようにプチトマトを入れる。
これまで怯えて避けていた義家族相手に恨みを抱いたところで、とても態度には出せない。
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豚を殺したい 第二章
初公開日: 2024年09月04日
最終更新日: 2024年09月06日
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9/4 第二章を書き始めました