「絶え間なく」「宝石」「触れたら」
 ぱん、と遠くで|啼ないた、戯れるように軽い銃の声。
「——っあ、」
 続いて鼓膜に触れる、声変わりを終えていない時分特有の透明さがまだ残る少年の、理解が追いつかないままこぼれ落ちたような呆然とした声。
 その決定的瞬間を目撃する必要もないほどに、鼓膜に馴染みきったその咆哮が誰になにを齎したのかを理解するには充分だった。
 ざあ、と|驟雨しゅううのような|雑音ノイズが無線機を装着したアキラの右耳を覆い尽くす。機関から支給されている無線機はどれだけ過激な戦闘に際しても不具合なく使用できる性能を誇っており、|雑音ノイズが混ざるなんてことはまずない。耳から外れて落下したか、破壊されたかのどちらかでもないかぎり。
 ざらざらと耳のなかで砂粒が流れているような騒音に顔を歪めながら、アキラは手元のキーボードを叩く。点灯している眼前のモニターは全部で四枚。任務開始地点周辺の監視カメラをハッキングして遠方の状況を目視し、けれど四枚全てに|相方バディの姿は映されていない。
「セラフ、聞こえますか、セラフ!」
 無線機のマイクを起動して声を張り上げる。しかし、返る声はない。
 舌打ちをひとつ鳴らして、意識を無線越しの環境音からモニターに移して集中する。エンターキーを押下するたびに、右上のモニターから時計回りに次々と映像が切り替わる。長い付き合いによりすっかり見慣れた、むしろ動きにくいのではと疑問を|抱いだくほどのゆとりのある外套を纏う少年の姿を探すけれど、映し出される白と黒の光景には物騒な武器を携えた大人の姿しかない。
 一定の速度で機械じみた連打をひたすら繰り返しながら、アキラは思考する。
 仮に先ほどの音が彼に向けられたものだとして——いや、あの不意を突かれてついとこぼれたような声色から察するに、剥き出された鉄の牙は彼に食らいついたとして間違いはないだろうけれど。銃弾に撃ち貫かれていようものなら、自力での帰還は困難を極める。
 彼の現状も、銃声が轟く数分前まではモニター上で確認ができていたけれど、暗殺対象の部下と思しき連中に追われて以来、かろうじて携帯端末に表示される|輝点ブリップで現在地を特定できる程度だ。彼の身になにが起きているかまでは捉えきれていない。
 延々と現れては消えてを続けるモノクロの世界を凝視しつつ、唇を噛み締める。ほとんど無意識下の行動で力加減など頭になく、柔い皮膚を歯が食い破ってしまいそうな気配を感じ取って慌てて離す。
 ——どうする。どう動くのが最善だ? さして難易度の高い任務でないとはいえ、まだ残党は残っている。いかな才のある暗殺者だとはいえ、手負いのままで戦い抜けるかはわからない。
 姿が確認できない以上、今のアキラにサポートは不可能だ。敵のいない場所へ誘導して負傷した体を休ませることも、増援を呼ぶこともできない。
 十秒にも満たない逡巡ののち、アキラはエンターキーを叩く指先を宙空で止めて立ち上がった。長時間座っていても疲れないクッション性の高い椅子が、ぶつかった衝撃でがたりと音を立てる。
 無線機に触れて起動し、繋いだ先は直属の上司。
「四季凪です。支援対象のセラフ・ダズルガーデンとの交信不通。任務の遂行状況不明、及び自力での帰還は困難と推定。これより救助に向かいます。……許可を」
 即時の返答はなく、きんと甲高い静寂が鼓膜を刺す。
『——その必要はない』
 ややして聞こえたのは、腹の底を揺さぶるような低音。それでいて人を従えることに慣れた、冷厳と威光を|湛たたえた声色だった。
『自力で帰還させろ。我々の責務はあくまで後方支援のみ。わざわざ死地に身を|曝さらす必要などない』
 そもそも、と無線越しの|諫止かんしは|滔々とうとうと続く。
『自らの力量不足で負傷した者にかけてやる情けなどない。自力で帰還もできないような弱者など捨て置け』
 叱るでもなく、咎めるでもない、ただ淡々と事実だけを並べ立てているというふうな抑揚の乏しい言葉に、アキラは思わず息を詰めた。
 それは、まるで。使い物にならない道具は必要ないと。どれだけの|深傷ふかでを負いながらも帰還しようとする従順な者しか欲していないと。そう言っているような気がした。
 無音が降り落ちたのはほんの数瞬。他者の|懐ふところにもぐり込み、懐柔し、時には破滅への道へと手を引く|生業なりわいがゆえの自分と相手との間に流れる空気を読み解くことに長けたアキラの脳は、自然と言葉の端を繋いだ。
「……ええ、おっしゃるとおりです」
 |狭せばまった喉をゆっくりと押し広げるように、声を紡ぐ。
 これから口にするのは、アキラ自身は心にも思っていないことだ。人命を道具のひとつとしか捉えられない非道な上司を言いくるめるための方便で、詭弁だ。
「ですが、彼の暗殺者としての才能は群を抜いています。あれほど上等な駒を見殺しにするとなれば、機関にとって相当な痛手になるのでは?」
 心の内を悟られないように繕う|術すべを熟知した声帯で、毅然と言い放つ。相方同様、まだ声変わりを終えていない|透とおる声は微塵も震えず、狭い部屋の壁に反響して耳朶に触れた。
 何度目かも知れない沈黙が、遠方に座する上司とアキラとの間を埋める。直接対峙しているわけでもないのに無線越しに威圧感が伝うようで、呼吸をすることさえ憚れられるほどの緊張が背筋を走り抜ける。
 一瞬にも数時間にも感じられるほどの硬直ののち、溜め息がひとつ落とされた。もとの低音も|相俟あいまって地鳴りのように聞こえ、驚いたアキラは僅かに肩を跳ねさせた。
『……好きにしろ』
 ぶつり、とわざとらしい音を立てて通信が切られた。|端はなからこちらの返答を受け取るつもりなどないと言わんばかりの|傍若ぼうじゃくさだ。
 は、と無意識に細めていた息を吐き出すと、途端に肺がきりきりと痛みを訴えてきた。一度立ち上がったはずの椅子に再び緩慢に腰を下ろして、|背凭せもたれに背中を|埋うずめる。
 なにはともあれ、許可は得た。あとは彼が力尽きてしまう前に見つけ出すだけだ。
 照明を全て落とし、モニターだけが光源となって輪郭を浮かび上がらせる室内をぼんやりと見上げつつ呼吸を繰り返すうちに、だんだんと痛みも治まってきた。背凭れを押しやる反動で跳ね起き、再び立ち上がる。
 一定時間操作しないと自動的にスリープモードに切り替わるから、モニターは点灯させたままでいい。キーボード横に添え置いていた携帯端末を掴み取り、|颯さっとドアまでの距離を詰める。ドアノブに指先をかけたと同時に、ふと脳裏を懐かしい感覚が掠めた。確か、以前にも似たようなことがあったような気がする。
「……ああ、」
 記憶の片隅に残っていたそれを思い出して、緩く口の端を綻ばせた。
 あれは確か、雨の降る日だった。日頃噴き出した返り血やら飛び散った体液やらで汚れて帰還するくせに、雨に濡れたまま帰ると怒られるだとかなんだとか|吐ぬかした彼を迎えに行った。まるで帰り道を忘れた迷子のように小さく|蹲うずくまる彼に傘を差して、薄|昏ぐらい世界から逃さないとばかりに降りしきる|遣やらずの雨を遮ったあの日から、少しでも自分と彼との関係性は変わっただろうか。
 思考に耽そうになった頭をふるりと横に振る。今は余計なことを考えている暇はない。
 それに。
 かちゃり、と微かな金属音を鳴らして、ドアを押し開ける。隙間から細く差し込んだ廊下の照明に網膜が刺激されて、目の奥から|滲しみ出た涙が薄い膜を張った。
 その答えはきっと、今の自分の行動が全てだろうから。
   ❄︎
 携帯端末に表示された、相方の居場所を|報しらせる|輝点ブリップを頼りに走り続けることおよそ十数分。辿り着いた先の廃屋の隅で|頽くずおれた小さな赤い影を目にした途端、アキラはひゅっと息を呑んだ。驚愕ではなく、恐怖に近い感情が左胸のあたりから閃く。
 真っ赤だ、と。緊迫した状況にそぐわない幼稚な感想がいの一番に出てくるほど、彼は酷い有様だった。桜の花びらを溶かしたような長い髪も、硝子のない窓から差し込む月光に透かされていっそう|皓しろい頬も、まるでペンキの缶でもひっくり返したかのように深紅に濡れていた。返り血か、はたまた彼自身の血潮かまでは判別がつかない。
 操り手を失った糸繰人形のように地面にだらりと投げ出された四肢は、力が入れられないのだろうか。申し訳程度に右の手のひらに乗せられたナイフは今にも転がり落ちて護身の役目を忘れてしまいそうだ。
 彼のいる場所からアキラまでの距離はさほど遠くない。せいぜい数十メートル程度の、|跫音きょうおんも衣擦れも充分に聴こえるくらいの間隔だ。だからこそ、物音に敏感な彼がアキラの来訪に気がつかないはずがない。
 それでも俯いた顔が持ち上がらないのは、周囲に警戒を張り巡らせることができないほどの|深傷ふかでを負っているか——もしくは、生死の境目を|彷徨さまよっているか。
「——セラフ!」
 声を張り上げて、彼を呼ぶ。当然返事はない。されど、気にも留めずにアキラは歩を進める。
 手を伸ばせば触れられる距離まで近寄ったところでようやく|撓垂しなだれた彼の髪先が僅かに揺れて、のろのろと顔が持ち上がった。毛先に集まった血雫が一滴したたり落ちて、血色よりも明るい彼の外套に染み込む。
 どうやら、本当にアキラの訪れを察知できていなかったらしい。視線が絡むなり、黄昏色の双眸が大きく|瞠みはられた。生気が擦り減って輝きの失せた、虚ろに濁った色。
「…………な、んで……」
 ここに、と続いた声は音を成さず、吐息だけがこぼれ落ちる。
「私のことはお気になさらず。それよりも傷、見せてください」
「……っ、触る、なっ」
 黒い手套を外して伸ばした右手は、彼の輪郭に触れる前に横から飛来した手に払われた。骨張った甲を強か打ちつけられて、衝撃と共にじんとした熱さが指先から広がる。したナイフを握っていなかっただけまだマシだ。
 〉手を伸ばすと生気の薄れた双眸に轟と炎が燃え盛り、手を払われる。じんとした衝撃が手のひらから肘にかけて伝う
「その傷じゃあ、自分で手当てするのは無理でしょう」
「いい、自分でやる。応急セット、貸して」
 〉ぞんざいに手を伸ばしてセラフが応急セットを求める。手渡すと慣れた手つきで包帯を取り出し、手と口を使って巻いていく
 〉が、左腕を巻き終えたところで右手から包帯が落ちて転がった。痺れがあるのか、その指先が僅かに震えている
「あぁほら、言わんこっちゃない……ほら、貸してください、私がやりますから」
「う、るさい……」
 〉返る反駁に覇気はない。なおも処置を続けようと伸ばした指先が宙を泳ぐ
 〉一つ息をついて、両手を直角に曲げて肩の高さまで上げる。丸腰、もしくは無害を示すポーズ
「私は、あなたを傷つけない。害を与えたりしない。これでも信じられないというなら、ここに代わりの人間を呼びます」
「それ、は」
「ええ、そうです。自力での帰還不可は『任務失敗』と同義」
 〉セラフがびくりと肩を揺らす。何かに怯えたように凍りついた瞳、乱れた髪の隙間から覗く顔貌がいっそう蒼褪める
「それが嫌なら、大人しく手当てされてください。……意識を保っているのもぎりぎりでしょう、あなた」
「……っ、」
 〉その一言が引き金になったようにセラフの体がふらりと脱力する。慌てて両肩を支え、廃材に寄りかからせる
 〉初めてみるほどの渋面のまま大人しく手当てを受けるセラフ。よほど落ち着かないのか、視線を彷徨わせたり唇を薄く噛んでは離したりしている
「むしろ、こんなに酷い怪我でよくこの場所まで来れましたね」
「……に、げないと、ころされる、から」
 〉返る言葉は舌足らずでたどたどしい
「だからといって、そう簡単に体を動かせるレベルじゃないでしょう。銃創に打撲痕、それと、この腹部の傷……」
 〉視線を投げた先の左脇腹のあたりだけ、緋色の外套が黒を垂らしたような朱殷に変わっている
「珍しいですね、あなたがここまでの深手を負うのは。なにをされたんです?」
「…………ささ、れた。ナイフで」
「ふざけたこと言うなよ。暗殺者が人前で簡単に寝るわけないだろ」
「ええ、もちろん。だからナイフは持ったままで構いません」
「……殺気は出さないで。気配も殺して。少しでも察知できてしまうと反射的に体が動くから、多分きみのこと殺してしまうかも」
「恐ろしいこと言うなよ……」
「そういえば私、あなたに謝らなければいけないことがありまして」
 〉緩く絡んでいたセラフの睫毛が持ち上がって、薄らと開かれた双眸と視線が絡む。夕暮れを思わせる緋色ではなく、世界に夜を告げんと降り始めた濃藍の色。
「成り行きとはいえ、あなたのことを駒だと言ってしまいました」
 〉すみません、
 〉彼の瞳が少しばかり見開かれる。視線が横に流れて、そっと瞼を伏せて、また目が合う。動揺、困惑、もしくは逡巡。口数が少ないぶん、仕草は雄弁に彼の心情を語っていた。
「…………そっか」
 〉結局そのひと言だけ言い落として、彼は再び瞼を閉じ下ろした。
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埜々々
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朝活#1
初公開日: 2024年08月10日
最終更新日: 2024年08月10日
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