「ぼんやりと」「指切り」「匣(はこ)」
バディを組んでいるとはいえ、朝から晩まで行動を共にするというわけではない。同じ学校、同じ教室、同じ寮室。同じ空間にいざるを得ない状況ならば、相方の姿は当然のように視界に入ってくる。
それに、彼が指揮をとるのはあくまで強制的に組まされた寄宿学校への潜入任務のみで、けれどセラフへ下される任務はそれだけに限られない。対象に目立った動きがなくて次の段階に移行できない場合、後方支援を担当する彼はさておき、兇器を振るうことしか許されていないセラフは暇を持て余す羽目になる。
だからこうして時折、四季凪アキラとは別の支援役を宛てがわれて任務に向かわされる。
非常灯の|灯だけが光源の暗い廊下。他の寮生はみな寝静まり、物音は聴こえてこない。稀に誰かの|鼾のようなものがドアの隙間から洩れ出ているだけで、寮内には絶えず静寂が降り落ちている。
ぽつりぽつりと|燈る緑色は暗闇を照らす|道導となるには少しばかり|心|許ないけれど、夜目の利くセラフにとっては特段支障はない。単独任務からの帰還用に設定した自室への帰還ルートを辿る歩速は普段と同じだ。
防犯カメラの死角を縫い、なるべく光の当たらない場所を選んで進む。仮にセラフ自身の姿がカメラに映されていなくとも、非常灯の|灯で淡く照らされた壁や床に影が差し込んで徘徊がバレてしまう可能性がある。もっとも、寮母や教師達が定期的に防犯カメラの映像を確認しているか否かはわからないけれど。
まるで幾度となく往復を繰り返す通学路を辿るような足取りで、セラフは自室へと到着した。ドアの前で足を止めると、ふとどこかから衣擦れに似た|身動ぎの音が聴こえて、なんとなく首を巡らせてみる。音を立てまいと細心の注意を払いながら動いているみたいな、ゆっくりとした緩慢な音。
大方、誰かが夜更かしをして勉強やら娯楽やらに勤しんでいるのだろう。いかな良家の子息令嬢ばかりが通う名門校だとはいえ、その全員が規則を遵守するとは限らない。おまけに誰もが絶賛青春謳歌中の思春期の子供だ。多少の無謀も危険も、なりふり構わず好奇心だけで飛び込みたくなる年頃なのだ。
——俺にはその感覚は、よくわからないけど。
高校生の通常から洩れた最たる例である自覚があるセラフは、|他人事のように内心で推察を並べては一蹴し、そこで思考を止めた。難易度の高い任務ではなかったとはいえ、当然疲労は蓄積する。生産性のない思考に余力を絞り取られてしまう前に自力で制止をかけた。
闇に沈んで先が見えない廊下へと向けていた視線を正面に戻し、ドアノブに指をかける。金属特有の冷たさが一瞬だけ広がり、またたく間に体温に溶かされて肌膚に馴染んだ。
ドアノブを下げ、極めてゆっくりと押し開けていく。そこまで歳月を経ている建物ではないはずだけれど、この寮のドアはどうしてか|蝶番の軋みが酷くうるさい。尻尾を踏まれた猫の悲鳴のような、はたまた習いたてでうまく音の出せない子供が奏でるバイオリンの音色のような、とにかく甲高くてよく響く音が鳴る。
入学したばかりの頃、夜更かしをしていたクラスメイトが消灯時間後に盛大なドアの開閉音を響かせてしまった事件があった。彼は笑い話に昇華して友人に面白おかしく語っていたけれど、ちょうど会話の聞こえる位置に席があったセラフはこっそりと教訓にさせてもらっていた。以来、朝夜問わずドアの開閉には足音や衣擦れを立てないようにするよりも気を払っている。
そういった経緯もあり、そろそろとドアを押して人ひとりがかろうじて通れるほどの隙間が空いたところで手を止め、横歩きの要領で身を室内へと滑り込ませる。また同じ速度でドアを閉めれば、騒音|罠の回避は成功だ。
下手をすれば暗殺の瞬間よりも緊張する瞬間を無事にくぐり抜け、ほっとひとつ息をつく。
それから、ふと違和感に気づいて、僅かに俯かせていた顔を持ち上げた。普段ならば迎えてくれるはずの声がしない。
ドアを開ける前から薄々気配はあったから、自室にいることは間違いない。しかし思い返してみれば、いつもは最小限の物音に留めつつなにかの作業をしているはずなのに、今日はあの|何某かの|身動ぎ以外の音が鼓膜に触れることはなかった。
もしかして、と右に首を巡らせる。ドアから見て右の直線上には彼が使用している自主学習用の机が設置されていて、自室にいる時間のほとんどをそこで過ごしている。
見遣った先、案の定彼は定位置に座っていて、けれど普段とは違って小難しい顔で書類と対峙しているのではなく、机上に重ね置いた両腕の上に左の|顳顬を乗せる形で瞳を閉ざしていた。
端的に言えば、寝ている。
物珍しさにセラフはぱち、とひとつまばたいた。寄宿学校に入学して早一年と数ヶ月、セラフが単独任務から帰寮した際に眠っている彼の姿を目撃するのは初めてだった。もともと彼のほうから、相方は違くとも有事の際は頼ってくれて構わないという旨の申し出を受けていたこともあったからなおさらに。
爪先を右へと向けて、一歩踏み出す。昔ながらの教育の賜物により、|跫音や衣擦れを立てないように意識する必要はない。まるでひそりと寄り添う影のように、セラフは彼に接近する。
あと二歩、一歩、手を伸ばせば触れられる距離まで到達したところで足を止めた。規則的な寝息が微かに耳朶に触れる。
見下ろす、机に備えつけられたデスクライトの白光に照らし出される顔貌。寝不足なのか、目の下には薄らと青黒い|隈が居座っている。そういえば最近、上級生が引退して新体制に変わった影響で生徒会が忙殺されているらしいから、そのせいだろうか。
生来の色白さと|相俟って、電灯に透かされた頬がいっそう|皓く映える。その下に張り巡らされた血管の青すらも明瞭に浮かび上がるほどに。
そのことに気づいたセラフは、頭の芯のあたりが冴え返るような感覚を捉えた。骨の髄まで染みついた暗殺者の本能とも呼ぶべき一部が、今が好機とばかりに指令を下そうとしてくる。
髪の短い人間は楽だ。急所を狙いやすいから。頸動脈にはナイフを、喉仏には両手を、眉間には銃弾を。
物心ついた頃から|血反吐を吐く思いで繰り返してきた暗殺の訓練は、普通の人間としての人生をセラフから奪う代わりに、確実に人を殺める|術を与えた。
こちらを向く形で寝こけたままの彼の首筋に、自然と視線が吸い寄せられる。そも、裏社会に身を置く人間がこの至近距離で他者の気配を察知できていない時点で絶望的な気がしないでもないけれど。セラフが即座に折り畳みナイフを閃かせて横に振るえば、あまりに呆気なく彼の命は散る。
けれど。
「……ねぇ、起きないの?」
ナイフを構える代わりにひとつ、問いを投げた。
返るのは安らかな寝息のみ。閉ざされた瞼が震えて夜明けの空を映した双眸が覗くことも、帰還を迎えてくれる声が紡がれることもない。
そう、知っているうえで。すぅ、と微かな呼気を薄暗い室内に混ぜ込んで、セラフは言葉の端を繋いだ。
「そんなんじゃ、今度こそ俺に殺されるよ」
❅
「確かに、お前はいつでも私を殺せる。でも、殺そうとはしないだろう?」
〉
「そもそも、本当に今殺す気があったなら、余計なことは訊かずにすぐ殺していただろうしな」
「……寝てるふりしてたの?」
「まさか。お前が帰ってきたから目が覚めたんだよ」
「でも、ずっと目閉じてた」
〉返した沈黙を肯定と受け取ったらしい。短い眉の頭に薄らと皺が刻まれた。
「……性格わる」
「人聞きの悪い言いかたをするな」
〉悪かったよ、と言い添えるも斜めになったセラフの機嫌は直らなかったようだ。つい、と鼻先を真横に動かしてそっぽを向いた。
「別に、私を殺したければ殺せばいいさ。もともとそれがお前の任務だったんだろう。それに関しては、一瞬でも隙を見せた私が悪い」
〉
「なんだ、まだ不満そうだな」
〉
「……殺さないよ」
「え?」
〉
「もう、きみは殺さない。……一緒に逃げようって、きみが言ったんでしょ」
〉
「一緒に、逃げてくれるんでしょ」