「——という訳でさ!これからはオイラがお金ちょこーっとだけ送るから、母さんの入院費の足しにしといてよ、先生!」
目の前の子供は誰だろうか。態度も、容姿も、顔つきすらも。よく聞いて知っていた筈の物とかけ離れている。誰だ、こいつは。——どうして、こうなってしまったんだ。
私の動揺などにはこれっぽっちも構わず、少年は軽い足取りで病院を去っていく。呆然としてそれを見送った私は、姿が見えなくなった途端に腰が抜け、その場に座り込んだ。廊下を歩く患者や看護師が心配そうに駆け寄ってくれるのを、大丈夫だと断る余裕すらなかった。
――私は、なんてものを。あの小さな背になんてものを背負わせてしまったんだ。
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レモネド君と私は直接の知り合いではなかった。彼の母親が長く病院で働いていたから、よくその話を聞いていただけ。その彼女が具合を崩して入院したから、連絡先として渡された情報に名前があっただけ。その程度の関係だった。あの瞬間まで殆ど会ってもいなかった。
だが、彼の母親が息子を愛していたのはよく知っている。今頑張って働いているのは一人息子と一緒にいる為だとか、ラムネが大好きな息子の為に美味しいラムネを探しているだとか、口を開けば息子の話かしなかった。
――そんなに溺愛しているというのに、ほったらかしでいいのか。そんな思考が過った事もあった。私にも子供がいる。愛している。職業柄寂しがらせる事が多くていつも申し訳なく思う私を、笑って送り出してくれる可愛い子。レモネド君は聞く限りいい子に留守番しているのだそうだが、同じ子供なら寂しいと感じる時もあるのでは――。
だが頑張る彼女にそんな事を言うのは、同じ親としても同僚としても失礼だと感じた。そもそも彼女が頑張るのは息子との日々を手に入れる為じゃないかと、その思考を何度も打ち消した。——それが所詮大人の驕りでしかなかったという事に、私”達”はあの時まで気付かなかった。
あの聞くに堪えない罵倒は私の他、病院にいた何人もの人が聞いていた。普段穏やか――今思えば冷めていたのだろうが――だったレモネド君が発したものだとは誰一人思わなかっただろう。恐らく罵倒をした時のままだっただろう修羅の顔をした彼が、偶々病室を飛び出してくるのを見た私を除けば。
追いかける余裕はなかった。直ぐに彼女の容態が急変したからだ。命に別状はなかったが、一度激しく衰弱した身体を癒すのに長い期間を要した彼女を診続けて数か月。漸く調子が落ち着いて来た頃、彼女に息子の記憶”だけ”が無いという事に気付いた。私は彼を探しに行った。
母親が目を覚ました、などという生温い報告をする気はなかった。探し出して、連れ戻して、何が何でも彼女に詫びさせたかった。そうすれば、恐らくショックのあまり失ったのだろう記憶も元に戻ると考えていた。それが一方的なエゴであるという自覚すらないその時の私は、彼女がどれ程息子を傷つけていたか、そしてレモネド君がどれ程彼女を愛していたかも、考える事はなかった。
大人としての理性で怒鳴る事だけはしなかった。だが必死に冷静を装い事の次第を伝える私を見て、レモネド君は殊更事態の重大さに気付いた事だろう。バイクを駆り出し病院へ急ぐ彼を追いかけた頃には、既に事は終わっていた。
豪雨の中後悔と自己嫌悪に絶叫する彼を見て、私は迷っていた。——本当にこれで良かったのかと。
正しい事をした、等という烏滸がましい解放感はどこにもなかった。あるのはとんでもない事をしたのではないかという子供じみた不安と、どうにもしてやれなかったという無力感、そして要らない傷を生んだのではないかという罪悪感だった。それらは翌日、レモネド君の豹変という形ですぐに露見した。
仲間の悪ガキすら置いて町を出て行った彼は”菓子能力者”として路銀を稼ぎ、その一部をこちらへ送って来るようになった。言われた通りにそれを入院費に充てながら、戻る筈のない彼女の記憶を必死に治そうとする日々が1年程続いた。そんなある日の事だ。彼が突然帰って来たのは。
「オレさ、真面目に働いて金稼ごうと思うんだ」
戻って来た彼は、最後に会った”彼”とは少し違っていた。どちらかと言えば母親づてに聞いた物に近く、しかしそれとも微妙に違う、妙な空気感があった。良くも悪くも何かしら変化を齎す出来事に遭遇したのだろうが、今一つ決め手に欠けている。そういう、足踏みをしているような感じがした。——彼女と同じ状態だった。そういう風に、私がした。
「すまない・・・」
「何で先生が謝るんだよ。先生は今まで母さんの面倒、オレの代わりに見ててくれたじゃん」
「すまない・・・!」
――嘗てアドラーは言った。「あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされる」と。私は一介の医者であって彼等の家族ではない。だのに、驕りにかまけて余計な節介をした結果がこれだ。その癖、もう私にはどうもしてやれない。
私の謝罪を受け続けるレモネド君が困ったように笑う。あなたの謝罪を受け取る気なんてありません。温度の抜けた仮面の裏が余りにも見え透いていて、いよいよ謝罪すらできなくなった。もう本当に、何もかもがどうしようもないのだと絶望した。
――その絶望すら、前進を止めた大人の驕りでしかなかったと知ったのは、その僅か数日後の事だった。
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「と言う訳でさ、オレまた”菓子能力者”として稼いでくる事にしたから!」
数日前とまるで違う彼の言葉に、思わず目を瞬かせる。昨日の戦闘時に心配になって病室に行ったら彼女の記憶が戻っていた事と言い、この親子は主治医を驚かせてばっかりだ。そんな事を思える程度には、私も気が休まったようだ。手に持っていたカルテは落としたが。
昨日、戦いに彼が赴いて行った事はテレビで知っていた。その時は遠巻きにしか様子が分からなかったものの、どちらかと言えば”彼”寄りの行動だった筈。それが今は本来に近い調子でありつつ、”彼”のように爽やかなのだ。しかも、そこに不自然さが無い。
「オレさ、母さんに酷い事言った自分がまだ嫌いだけど・・・。そんなオレを母さんは許して、愛してくれた。そんで、オレのそういう部分やそれを覆ってた”もう一人のオレ”も含めて、皆は仲間だって言ってくれた。だから、どっちも大事にしたいんだ」
「レモネド君・・・」
「ありがとな、先生」
急な礼の言葉に、私は拾い途中だったカルテをまた取り落とした。隙間風がドアから漏れ、カルテの何枚かがレモネド君の足元に飛ぶ。何してんだよ、ドジっ子だなー。そう言いながら拾う姿を呆然と見ながら、呟くように言葉を漏らす。
「私は、礼を言われるような事など何も――」
「したじゃん。オレの事呼びに来てくれたでしょ」
息が止まる。それは、私が君に対して犯してしまった重罪だ。咎められる謂れはあるというのに、感謝とは――?混乱が加速する中、レモネド君は静かに続けた。
「先生が来てくれなかったら、オレは母さんが大変な事も知らないでカツアゲじみた事やるだけのドラ息子だったよ。あいつらにも出会えなかったし、母さんにも謝れなかった。あの時先生が呼びに来てなかったら、そうなってたんだ。だから、ありがとう」
拾い終えたカルテを膝の上で軽くトントンと揃えてから、レモネド君はこちらへ歩み寄って来た。それを片手で持ったそれを私の目の前に差し出し、そして――。彼女とよく似た、優しい笑みを浮かべた。
「オレ達の問題背負いこませて、沢山苦しめてごめんなさい。オレ達は、もう大丈夫だから」
ぱちんと、私の中で膨れ続けていた何かが弾けた。重苦しい空気に膨れていた泡が軽い音と共に霧散し消えていくのを、心のどこかで感じる。望んだ解放感。許し。一気に緊張がほどけて目尻に涙が浮かびかけるのを、最後に残った大人の吟味で耐えた。
「そうか。良かった」
そう返すだけでやっとの私に気付いただろうに、レモネド君はそれ以上何も言う事はなかった。カルテを渡し、ひらりと手を振って医務室を去るその姿は、前よりも不思議と大きく見えた。
とりま以上です!
これから洗い物するので今日はここまで!
明日も予定通り猫王子修正作業予定です!
ではまた明日~!