私の人間としての脳が、しっかりと動くまでには随分と時間を要した気がする。窓のない部屋からは全くと言ってよほど出ることは無く、ただただ私にふられた仕事をこなしていった。一体何回太陽が昇って太陽が沈んだのか分からない。緩やかに訪れる眠気はあるが、果たしてそれが正常に働いているのかを知る手段はない。時折やってくる男が来たときは、かろうじて今は日が上っているなんだろうなと推測は付いた。男が入ってきたときの外の明かりだけが頼りだったが、どうやら外の廊下はいつでも明るいらしい。朝七日夕がたなのかくらいは区別できるかと思ったが、どうやらそれもできないようだ。男が来ることで時間帯を把握するしかない。
あひるだった頃は朝日とともに目覚め、太陽が沈んでしばらくした頃に眠りに落ちていた。私が暮らしていたあひる小屋はとても綺麗で、一日に三回食事を与えられ、健康的な生活を送っていた。あひるの中では特に綺麗な毛並みをしていたし、天敵がやってくることもない小屋での生活は窮屈ではあったが快適であることは間違いなかった。とはいってもあひるである私はまともに他のあひるとコミュニケーションが取れるはずもなく、小屋の隅で眠ることばかりだったため、はたしてモテていたかどうかは定かではない。他のあひると積極的に共に行動していれば違ったのかもしれないが、どうにも集団で行動するのは苦手だ。集団となれば必ず上下関係が生まれ、逆らったり歯向かったりするとすぐに攻撃の対象になる。人間のように言葉がないため、無能なあひるはくちばしで突いて言い合うしかないのだ。それがなんとも無能感丸出しだと思えて、集団で行動することを嫌ってしまった。あの小屋に入ってからはグループによる競り合いはあまりないように思うが、以前いたところはそれが酷いのなんの。小屋の中でも六つのグループが存在して、場所の取り合い餌の取り合い仲間の取り合いで毎日騒がしい。安心して眠れる日は数えられる程度だった、あの日々のことを想像するともうあの場所には戻れない。その後事情は分からないが小屋を移動することになったわけだが、それでも群れを嫌う気持ちは分からなかった。小屋移動万歳。
そんな生活をもっと続けていたかった気持ちもあるが、こうやって今は人間として言葉を手に入れ、長い手足で動いている。私のこころは人間になった事に追いついていなくても、体や脳は覚えているようで、淡々と仕事をこなすことができた。。部屋の中があひるの血や肉で散らかっていることはしばらく認識しないようにしたが、ずっとこんな場所にいるといずれば認めなければならなくなる。けれどすぐに全てを脳に入れると混乱して、悪ければ発狂してしまうかもしれない。そうならないためにも、私はゆっくりと室内の状況や私の現状を呑み込むことにしたのだ。
そう、何を隠そう私の仕事は、あひるの解体だ。あひるの息の根を止めて、部位ごとにばらばらにしていく。生きたあひるが来たときはそうやって順番にゆっくりと解体していくのだが、死んだあひるの時はそうもいかない。死んだあひるは一匹ずつではなく一輪車に乗せられて一気にやってくるのだ。それも山のように。決して暇な時間があるわけではない、生きているあひるだって絶え間なく捌き続けている。そんな中であひるが山のように連れて来られたら、てんやわんや。ここには私しかいないのにどうしろっていうんだ。しかし私しかする人がいないのだから、やるしかない。私がやらないと終わらない。
死んだあひるの利点は、息の根を止めなくても良い所だ。私は前世があひるである故、そのあひるを殺すには少々抵抗がある。いや正直に言えばあひるを捌くことにも抵抗はあるのだが、それに関しては考えないようにしている。考えると辛くなるから。その時だけは前世のことは忘れている。私は今人間で、あひるを捌いていて、うんしょうんしょ大変だなあ、と脳をフル活用できていない無能を演じている。死んだままやってきてくれれば少なくとも私が殺す必要は無くなる。死ぬ直前の悲鳴なんかは二度と聞きたいと思うものではないけれど、耳を塞げるわけもないのでただの雑音として受け入れている。
「どうだい順調かい?」
あひるを連れて来たり私が捌いたあひるを持って行ったりしてくれるこの男は、たまに何の用もなくここを訪れることがある。私の唯一の話し相手だ。大変助かる。人間になってまだまともに使っていない口で言葉を話せるのは大変うれしい。まさか死んだあひるに向かって話しかける趣味は無いので、男だけが救いだ。
「順調だよ」
「それは良かった。働きづめだけど不調はない?」
「ない。不調ってどんなのかあるの?」
「腕やお腹、頭が痛くなったり、ぼーっとしたりとかかな。人間になって大分経つからそろそろ慣れてくることだとは思うけど、油断しないようにね。なにせ」
「油断すると指を切りおとしかねないから、だよね」
「よく覚えてるね、ばっちりだ」
男は親指を立ててにっこりと笑った。笑みを浮かべると顔にしわが集まってくしゃくしゃになる。人間にとってしわは老けを想起させてあまり良い印象はないけれど、男のしわからは柔らかさと優しさを感じられた。しわによっても種類があるのだろうか。
「包丁の切れ味はどう? 肉が切りにくかったら新しいのを持ってくるよ」
刃の切れ味。考えたこともなかった。また板の上に置いたままのあひるの足の付け根に刃を通す。刃はあひるの肉に入り込み、腕を動かせばすいすいと進んでいく。引っ掛かりはない。余計な力も加えていない。
「切れる。大丈夫だと思う」
「見てる感じは大丈夫そうだね。もしそう言うのがあれば遠慮なく言ってね。仕事環境が良くないと働きづらいからさ」
じゃあね、と手をひらひらと振って男は出て行った。仕事環境云々かんぬんを言うのであればこの部屋の異臭を何とかしてもらいたいところだ。あひるの死臭と血の臭いで溢れかえっている。窓も付いていないので換気もできやしない。扉だって開けっ放しにできるものではないし、そこに文句を言っても良いならば現在の仕事環境は最悪だ。この臭いに慣れてきたことは幸いだが、慣れてきているということもあひるを殺すことに躊躇いが無くなってきていると思われているようななんだが嫌だった。こんな中で臭いに慣れずに仕事をする方が困難なので、目を瞑ることにしよう。
そう言えばどうして私はこんなところであひるの肉を捌いているのだろうか。気が付いた時からここで包丁を握っているが、それについて疑問を抱いたことは無かった。私が志願してここに来たのだとしても、その時の記憶が無いのは少し疑問に思う。前世があひるだというのにあひるを捌く仕事に就こうと思うだろうか。相当な変人や特殊性癖を持っていれば有り得るかもしれないが、今の私の様子を見るにそれはありえなさそうだ。男が頻繁に私の体調を気にしてくるから、ここにきてまだそんなに経ってはいないはずだ。
つまり私は、ここに配属されてから人間に生まれ変わった、ということなのだろう。普通生まれ変わりって母体から生まれるところからがスタートだと思うけれど、そうでもしないとここにいた以前の記憶が無いことに納得できない。気が付いたら人間の成人でした、なんてことが世の中にはあるようだ、不思議不思議。そういうことにしておかないと現状が理解できないのでそういうことにして、私はただひたすらにあひるを捌き続けた。もし私が人間になっていなかったらこうして捌かれる側になる日が来ていたのかもしれない、そう思うとこの臭い部屋で肉を捌いている方がましだと思えた。