時々。本当に、時々。|相方げのげを笑いの怪物にしたのは|わたしなんじゃないかと考えることがある。厳密に言えば、元々素質のあった彼が人らしさをかなぐり捨てて『お笑い』だけを見続けて、『お笑い』に憑かれてしまったきっかけを作ったのではないかと思ってしまう。
高校は特別でもなんでもなかった。公立の、まぁそこそこの偏差値。就職を考える人も大学を目指す人も綯い交ぜになっている、なんともいえないところ。進学理由はたしか、柔道部があったから。父親がやっていたからという理由で始めた柔道を惰性で高校まで続けて、三年が引退したときに頼まれて副部長になった。でも、それだけ。店を継ぐって感じでいいかなぁと考えていたけど、それまで。キャラはあるけど、あるだけ。形はあるけど熱はない、つまらない人間だった。
三年のクラス替えで、彼と前後の席になるまでは。
顔を合わせたばかりの彼はといえばとにかく無口で、同じ中学校だった人もいないから噂も聞けない。とりあえず話しかけて、とりあえず『よく話す仲』にはこぎつけた。思うに、分岐点はそこだったのだと思う。もし俺が愛想が悪くて話しかけず、彼が不真面目でそれを適当に流していたら、きっと今の自分は新宿のあのバーに立っているだけだった。
「お笑い好きやで。めっちゃ好き。あんま言わんようにしとるんやけど」
彼がノートにお笑いのまとめや分析を書き連ねていることを知ったのは、彼が関西から転校してきたとやっとわかったタイミングだった。
「そうなの?なんか意外」
「爺さん婆さんがそういうの大っ嫌いやから。言えないに近いんよ」
「へぇ」
色々あって親と住めなくなったらしいとだけ聞いていた。今もあまり探っていない。自分がテレビで実家の特集を組めても彼にそういう話が来たことはないから、多分人に言えない事情があるんだろう。とはいえ自分も物心がついたときには母がいなかったから、そのまま話を続けてもらった。
「ネタも書いてみたいんやけどな」
「書いたらいいじゃないの」
「ピンは嫌。コンビがええ」
「へぇ。どういう感じでとかないの?」
「いや、相方が誰かによってネタの傾向変えたいんよ。そのコンビにしかできないネタを作りたい」
彼のお笑い分析は本当に細かくて、ネタの再現も面白かった。彼のオリジナルのネタを見てみたいのだが、コンビがいないといけないそうだ。
「なら、ひとまず俺で考えたら?」
そんな気持ちで、そんな軽さで、そんなことを言ったのだ。その時の彼はどんな顔をしていたっけ。あ、その日は西日が強くてよく顔が見えなかったんだ。だから思い出せない。思い出さない。思い出したら、美談になりそうだったから。
「ええの?」
「だって面白そうじゃない。あんたの考えるお笑い、見てみたいのよ。あんたとお笑いの話するようになってからテレビとか動画でめっちゃお笑い見るようになっちゃったの」
「じゃあ、おろしてみる」
「すぐじゃなくてもいいわ。だって受験とかあるでしょ」
「……せやな」
そんな風に話した一週間後にネタを書いてきてくれて、そこからトントン拍子だった。ネタを書いてみた、コンビを組むとしたらどういう芸名がいい、養成所に行きたい。
彼のお笑いを間近で見られることが嬉しかったし、彼が自分のためにネタを考えてくれることも楽しかった。養成所の話も彼がいると現実味を帯びてきて、進路相談には実家を継ぐことを書く手前、担任との面談で養成所についての相談もした。
「爺さんと婆さんにバレた」
受験はすると話していた。まぁ大学に行くことは損ではないし、夜に通える養成所を探してバイトをして稼げばいいなどと考えていた。彼と同じ大学を目指すことにして、お笑いサークルに入るのもアリかと盛り上がっていた。そんな彼がある日、額に絆創膏を貼ってやってきて、ただぽつりとそう言った。
「どこから?」
「養成校のチラシ見つかった。鞄漁りよった。成績落とさんようにしとったんに」
「……どうしたい?」
そこだった。彼がどうするかは自分のどうするかだったから。彼は考え込んでいた。頭を掻きむしり、手を握り締めて、座り込んで、泣き呻いて。
「お笑い、やりたい」
その時は本当にめちゃくちゃな気持ちに駆られていたのだ。もしここで反対してしまえば、きっと彼は一生面白いものを見せてくれなくなる。それが、ただ嫌だったんだ。
「……わかった。とりあえず、受験はしよう」
それは逃げではなく、時間稼ぎだった。
方針を隠してはいけないと思った。でも不安だったところを、店の常連に話してみて後押しをもらって、父親に打ち明けた。養成所のチラシを見せて、考えていることを全て話した。閉めた後の店で夜が明けるまで話し合って、覚悟を聞かれて、最後には「後悔するなよ」と言われた。それが後押しとなった。
受験はするだけしたもののちっとも集中できなくて、途中でペンを置いた。受験はもちろん同じ会場でやって、結果の話もせず近くの公園に連れて行った。
「いいか、紫穂。よく聞け」
「うん」
「夜逃げすんぞ」
「……は?」
「卒業式に持てるだけの荷物持て。資金は用意した。家は店に来る|常連ママに用意してもらった。仕事は一応アテがある。俺だけにしても一年すれば養成校行ける金が貯まる」
「待って」
「あと携帯の番号変えよう。お前の携帯の会社、調べたら保護者の同意なしでも番号変えられるって」
「待て言うとるやないかダァホ!」
公園の傍を歩いている主婦や犬を連れて歩いていた大学生がぎょっとした目でこちらを見ていた。でも当時はそんなこと考えられなかった。
「さっきから何言うとるんよ。夜逃げ?」
「うん」
「できるわけないやん」
「お笑いやりたいんでしょ。あたしが手伝ってあげる。あんたはお笑いやるべきなのよ」
あの時の顔も、思い出せない。あの時はどうしてか自分も泣いていて、顔がよく見えなかったのだ。
あの日々の顔がどんな顔だったかは今でも思い出せないが、きっとあの時から彼は|怪物ああだった――いや、|怪物ああいう男になったんだろう。
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手取川
コンビニになるな
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手取川
おわり
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