玄関のドアを開けた途端、向こうにいる人がにっこり笑ったのが見えた。みかは思わず「んああ」と呟いてしまう。
「待ちきれなかったの? かわいいね」
「んあ~おかえりなさい……お師さんだいぶ酔っとるねえ」
 みかが軽く体をひいたことで、宗の腕は宙をかくだけにおわった。む、としたように眉を顰めるのが見えたがみかはかまわず「はよ入ってな。春とはいえ体冷やしてまうよ」とさりげなく部屋の中に誘導する。
「帰ってくる途中で通りのアパルトメントの窓に猫がいたのだよ」
「ねこ?」
 何の話だろう、とみかは首をかしげながら宗の手荷物を受け取る。大きめのトートバッグはそれなりに重く、小さな紙袋は羽のようにかるい。彼は長いコートを肩から落とし、それも受け取ろうと手を伸ばしたみかに軽く首を振って自分で片付けに行った。今日はすっきりとしたラインのシャツにストレートのパンツ。ベストも控えめな色合いで、彼にしてはシンプルな装いだ。
「知ってる人のおうち?」
「いや、しらない。だから知らない猫だけど」
「ふうん?」
 振り向くと胸元のブローチが鈍く光って見えた。装飾の少ない中で、気に入りらしいその深緑色の石が印象的にうつる。たぶん高価なものなのだろう、とみかは予想しているがその由来を聞いたことはなかった。
「きれいな艶のある黒猫でね。かしこそうな顔をしていた。その猫が窓の外をじっとみているのだよ」
「お師さん、猫好きやったっけ?」
 みかの手からカバンを取り戻し、紙袋は再びみかの手に押し付けた。そのまま廊下に戻り、ふらふらとリビングへ向かう。足取りはいつもより軽やかで、危なげはないがどうにも違和感がある。さっきからにおうお外の匂いも、常より血色のいい頬も、つまり。
(楽しい飲み会やったんやねえ)
 今日は展示グループの打ち上げだと聞いていた。気の合う仲間たちなのだろう、展示会も満足のいく結果に終わったのだろう。彼の嬉しそうな姿を見るのはみかとしてもほっとする。
「そうそう、黄色い眼をしていたよ。君よりずっと淡い黄色だった」
 ふいに足をとめるので、予想できなかったみかはその背中に鼻先からぶつかってしまう。んあー、とため息とも抗議ともとれない声を上げると宗は呵々と機嫌よさそうに笑った。
「だいじょうぶかね? お手をどうぞ?」
 などとふりむきざまに手を差し伸べてくる。馬鹿にされている気がして、みかはむっと口を尖らせた。
「お師さんのほうがあぶなっかしいもん。それに猫の話やろ? もうおしまい?」
「ああ、うん。猫、猫ね。そう、その猫がとても美しい黒猫だったのだよ。それに黄色い眼」
 宗は立ち止まったまま手を伸ばし、みかの手を無理やり掴む。エスコートというには若干乱暴なやり方で、けれどもちろん、嫌ではないのでみかはされるがままだ。指先は暖かく、ほんのりと火照っていた。アルコールのためだろう。
(ええなあ)
 みかはまだ、お酒は飲まない。この人はいつもみかの一歩先を行く。
(おれもつれてってほしい)
 そんなことは、言えないけれど。自分でがんばってついていくのだ、おいつかなければ。あやつってもらうだけのお人形さんは、もうやめたのだから。
 みかの葛藤などまるで気づきもしないように、宗はにっこりとほほ笑む。目を細め、そうするといつもよりすこしいじわるそうな雰囲気が漂った。
「飼い主を待っているのだろうか、とそんな姿だったのだよ」
「へえ、猫もそんな殊勝なとこがあるんやなあ」
 動物にはあまり詳しくないけれど、犬のほうが忠実な印象がある。猫はきまぐれで、飼い主など気にせず好きなことをしているのかと思っていた。
 みかが素直にそういうと、宗は握った手を軽く包み込み、ほどいて、もう一度掴む。大きな手のひらの中で、そのあたたかさに、みかの冷えた指先が少しずつなじんでとけていく。
「うん、僕もそう思っていたけれど――だから君が、僕の帰りを待っているような気がして」
「え?」
「急いで帰ってきたのだよ、ふふ、実際どうだったのかな。玄関口まですぐに出てきてくれたから案外間違いでもないのかね?」
 ぐい、と手を引かれ、みかは少しだけ前のめりになる。倒れないよう一歩踏み出すとまるで待ち構えていたみたいに大きな腕に包み込まれ、耳朶に吐息がかすめた。香水の匂いが濃くなる。
「mon chat、ねえ」
 ぐっと空気が濃く圧縮される。急に世界が狭くなって、彼の声しか聞こえなくなる。その言葉に胸をつかれ、それからあわてて逃げ出そうと――でもどこに?――身をよじっても、手は掴まれているしもう片方の彼の手はいつの間にかみかの腰を抱いている。
 そのまま腕をひかれ、宗が後ろに一歩下がった。つられてみかも足を踏み出す。
「僕の帰りを待ちきれなかった? 寂しい思いをさせてごめん」
「んあ、ちゃうよぉ」
「そうかね? それなら僕ばかり寂しい思いをしていたことになるのだが」
 片足をひいてそのままステップを踏むように。引きずられるように動きながら、まるでこれでは踊っているみたいだと思う。思う、というより実際にそうなのかもしれない。宗は小さくリズムをとりながら足を動かし、手を動かし、身体を軽くひねる。少し遅れてみかも同じように動く。何の曲かはわからないが拍を察することはたやすい。
「君も来ればよかったのに!」
 ぐ、と腕をひかれ、宗を軸にしてみかが大きく動かされる。ターン、そのまま宗が踏み込んで体を前に倒してくるので自然とのけぞるような体勢になった。彼の手がしっかり腰を支えてくれるのでおそれることもないけれど。
「だって、今日は大学のおともだちやサロンのひとたちとの集まりやろ」
「パートナーを連れてくるのはおかしなことじゃない。僕だって散々説明したし誘ったのに、君ときたらつれない返事ばかり」
 端正な顔が間近でこちらを攻め立ててくる。いくら見慣れていると言っても何度見ても見飽きない世界一美しい顔がそこにあって、みかはどぎまぎして唇を震わせた。こんなに触れ合っていたら心臓の音すら伝わってしまいそう。しっかり組み合わされた手から鼓動がはじけて響いてしまうんじゃないだろうか。もう片方の手はおそるおそる彼の腕にすがっていて、けれどすべらかなシャツにうまくつかまれない。自信がない。つかんでいいのか、すがっていいのか。わからない。
(ひとりで、立てるようにならへんと)
 この人の隣に立つ芸術家になるために。だから。でも。わからない。みかの戸惑いをそのまま受け止め、宗は視線をそらさないまま囁き続ける。ふたりっきりの部屋の中、彼の声だけが世界の全てになっていく。
「だって……おれ、フランス語もまだちゃんとしゃべれへんし」
「かまわないよそんなこと」
「お師さんはたくさん創作してて、作品も発表してて、みんなに認められてて――そんなすごいお師さんのパートナーって紹介されたのが、おれみたいのやったら、みんな、笑うやろ」
「おかしなことを考えるね」
 腕をひかれながら背中を抱き起こされる。またステップ。先ほどと同じような流れなので、みかはすこしだけ調子がつかめてきた。音楽もないのに、素面でもないのに、ひどく几帳面にきっちりとリズムをとっているのはさすがだった。
「僕の隣にふさわしいのは君しかいない」
「ほんなん……おれ、まだまだ、お師さんに全然届かへんよ」
「謙遜もいいけれど、でも、僕が君がいいと言っているのに?」
「でも」
「喧しい口だね、いっそ縫い付けてしまおうか」
 同じ流れだと油断していたところで急にテンポを変えられる。一気に速くなったステップに翻弄され、みかはあわてて足を動かした。間違っても彼の靴を踏んだりしないように気を付けて、目を白黒させながら一生懸命ついていく。
「んあ、んああ」
「社交ダンスくらい習ってもいいかもしれないね、次のレッスンの時に教えてあげよう」
「んああ~」
 促されるがままに動いて、宗がリードしてくれるからどうにかついていけている。右、右、左。また右、つぎも右だろうかと思ったところで腕をくん、と引っ張られた。
「ねえ、次こそ一緒に来てくれるね?」
「だ、だからおれ」
 そのままターン。不格好でもどうにか転ばずに次の脚を踏み出して、けれど先ほどまでのステップと少しずれていく。あれ、と思っているうちにまたなじんだそれに戻って、繰り返し。仕組みはわからないが、身体の方が先に慣れてきたのかステップの幅やタイミングが彼の動きにそうようになってきた。
 宗が唇を緩める。
「そう、その調子」
「お師さん、パーティーでダンスも踊るのん?」
「必要があれば」
「ほかの誰かと……?」
 思わずそう聞いてしまうと、宗は突然足を止め、ずっと絡んでいたみかの手を離した。
(あ、)
 すっかりなじんで、まるでひとつの塊みたいにとけあっていた手のひらが、消える。宙に置き去りにされ戸惑って相手を見上げると、彼は生真面目な顔をしたまましばし黙りこんだ。
「お師さん、おれ」
 みかが慌てて口をひらく、けれど、なにをいえばいいのだろう? 先ほどのなにかが失言だったのだ、だがどれが? それともみかのダンスがだめだった? わからないまま不安になっておろおろと相手を見上げると、急に、その顔が視界から消えた。
「んえ、」
 宗は、その場でまっすぐ跪く。相手を見下ろす格好になって、慌ててみかもしゃがもうとしたところを軽く制された。おちつきなくさまようみかの左手を、宗がつかむ。
「君以外とは踊らない」
「んあ、あの」
「ねえ、これだけねだってもだめなのかい? 僕はただ、君を見せびらかしたいだけなのに」
 宗はひどく真剣な顔でそう呟く。そのままみかの手をそっともちあげると、手の甲に唇を寄せた。淡いふれあいは温度もなにもわからない。宗はすぐに顔を離して、みかを見あげた。切れ長の瞳、精悍な顔立ち、片膝をたて、まるで大事なものでも押し頂くような格好で、宗はみかの手を掴んでいる。
「ねえ、影片、僕と踊ってくれないかね?」
 菫色の瞳が細められ、微笑むように揺れた。電灯の下、その色合いが何か他の物を押し隠しているような鈍い光を湛え、みかのことを見つめている。目をそらすことを許さない、逃げ出すことを許さない見えない力にからめとられ、みかは立っているのがもうやっとだった。
「……ずるい」
 かすれた声でようやくそう呟くと、宗は唇をゆるめる。
「うん、僕は欲しいものは欲しい。手に入れるためには手段を選ばないのだよ」
「だって……おれ、ダンスもへただし、フランス語もわからんし、お師さんみたいに芸術の知識もないし」
「君は君であればいい。ダンスも言語も知識もきっちり仕込んであげよう。ほかになにがほしいのだね? きれいな服? 目も見張るような美しい宝石?」
「そんなんいらんよ」
 みかは力なく首を振り、それから自分の手を見る。その手をやさしく、けれどしっかりとつかんで離さない長い指先と広い手のひらを、見てしまうともう目をそらせない。
(この手を、)
 ずっとつかんでいてほしい。つないでいてほしい。それは、でも、言えなくて。ただ黙ってしまったみかを見上げた相手は、だが何もかもお見通しのようにゆっくりと立ち上がった。
「まずはステップの練習からだね。舞踏会に呼ばれても遜色がないくらい徹底的に叩き込んであげよう、覚悟したまえ」
「んふ、なんか懐かしいなぁ」
 まるで学生の時みたいな言い方に小さく笑ってしまう。宗も力強く微笑んで、みかの手をしっかりと握りなおしてくれた。
おしまい!
ありがとうございました~!
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