湿ったやわらかいものが、鼻先におしつけられている。
「お師さぁん」
 間延びした声が耳をくすぐっていった。宗は重たい目蓋にあらがえず、ただ手をやみくもに伸ばした。すぐになにかにぶつかる。弾力がある、これは、肩だろう。手探りでそのままなでおろせば、肩から腕をシャツ越しに撫でている感触が手になじんでいく。
 見知ったかたちだ。どこかほっとしながら、目を閉じたまま相手の体を辿った。
「お師さん、起きて」
 ふにゃふにゃと柔らかい声の主を、目を閉じたまま脳裏に思い描く。きゅっと目尻の吊り上がった蠱惑的な瞳。眉は少し困ったように下がり、形の良い鼻と控えめな唇が小作りな顔にバランスよく収まっているのだ。ほっそりと白い首からのびるしなやかな体躯。宗の手はまるですべて見ているように自在に動き、その子の背中を軽く抱き寄せた。
「んあ、」
 ぽす、と胸の上に落ちてきた体は、当たり前に重たい。おもたくて、温かい。そのことがひどく愛しくて、両手でその背中を抱きしめ、軽く顔を動かしてみれば予想通りさらさらと細い髪の毛が頬をかすめた。
「お師さんってばぁ、今日はおねむなのん?」
「すこし、遅くまで作業をしていたから」
 答えにもあくびがまざってしまいそうでどうにか喉の奥に力をいれる。けれどそんなことお見通しみたいに、ふふ、と胸の中の子が笑っている。
「ねえ、お師さん、おはよう。おめめあけて? 朝ごはん食べよ?」
「……いま何時だね?」
「もう9時」
 それはさすがに寝すぎた。宗は億劫な気持ちを押し殺しながらようやく目を開ける。朝の眩しい光が部屋いっぱいに射しこみ、アイボリーのベッドカバーから木製のベッドサイドのテーブルを明るく照らし出している。小さなライトは先日蚤の市で見かけたものだ。使えるかどうかあやしかったが、みかが「修理してみる!」と張り切って格闘中だ。だからいまは、ただの置物。宗としてはデザインを気に入ったので、正直そこい実用性があってもなくてもいいけれど、この子が奮闘している姿を見るのが楽しいので好きにさせている。
「おはよう」
 何度目になるのかわからない挨拶をして、胸の上の子が顔を突き出してくる。鼻先がぶつかり、焦点があわないくらいの距離でその顔をしみじみ眺め、宗も小さく挨拶をかえした。
「おはよう」
 そのままするりとうなじを撫で上げる。みかがくすぐったそうに目を細めたのが、さすがにこの距離でもわかった。嫌がってはいない。そう確認しながら、小さな頭を撫で上げ、ぴんと尖った黒い耳に指を這わせる。
「ん、」
 小さく身じろぎしたのをわかっていながら、宗はそのうすい耳を指先でくすぐった。やわらかくはさんで、押して、すりすりとこすりあわせる。細やかに耳が揺れ、みかが笑いたいのをこらえるように吐息をこぼす。
「ん、んふ、お師さん」
「君も、今日はのんびりだね」
「おやすみ、お師さんとあわせてとったもん……んふ、んあ、くすぐったいわぁ」
 とうとう耐え切れないように首をふると、身体を起こしてしまった。宗も追いかけるように起き上がる。宗の脚をまたぐように座り込んでいるみかは、パジャマの上をだぼっと着ただけで膝から下の素足が覗いていた。思わず眉を顰める。
「身体を冷やすよ。下もはきなさい」
「うん、もう着替えるけど」
 みかはそういいながら、すぐに動き出そうとはしない。宗の膝の上でなんとなくもぞもぞとしている。きれいな膝の丸みがパジャマの裾からのぞき、つられるように手を伸ばしても彼は逃げ出さなかった。
「いくら家とはいえ、だらしのない恰好はいけない」
 すべらかな膝を撫で、そのまま太腿を撫で上げる。当たり前のように素肌ひとつのそこをため息を吞み込みながらさすった。すこし冷えてしまっている。するすると肉付きの悪い脚をたどり、今度こそ宗はため息をかくさなかった。
「下着くらい履きなさい」
「んあ~」
「こら。いつから猫になったのだね君は」
 昨日も散々掴んだ腰骨をなぞり――跡がついていないか、少々心もとなくなってきた。あとで確認しなければ――、そのまま腰を指先でたどる。逃げ出したいのかみかが膝を軽く浮かせるままにさせておいて、腰の真ん中、背骨の付け根あたりでちょうど、やわらかな尻尾に触れた。
「んあ、」
 ぴくん、とその体が震える。先ほどの気の抜けた声と違う響きを聞きとがめ、宗は左手でみかの体を抱き寄せた。あわてて身をよじろうとしても、もう遅い。
 右手で尻尾の付け根をやさしくなぞる。くるくると円を描くようにふれ、指先でひっかくように押して、その都度、腕の中の子がぴくぴくと肩を震わせた。
「んあ、あ、……あぅ、んあ」
 はふ、と吐息すら甘ったるい。俯いたままなので宗がひそやかに笑ったことにみかは気づくはずもない。ただ腕にからめとられ、腰をくすぐられて、そのあまやかな刺激を甘受し続けているようだった。
「あ、……あぁ……も、お師さん、そこ、やだぁ」
 蜂蜜を流し込まれるような濃厚な吐息とあからさまに呼吸が速くなってきた相手を抱き寄せて、宗はふと顔をあげる。みかは両目を潤ませ、ぼんやりと壁の方を見ている。薄く開いた唇から艶のまざった声がとぎれとぎれに落ちていく。
「いやなの?」
「んん……っ」
 意地悪くそう聞いてやると、みかはぎゅっと目を閉じる。宗はその頬に頬ずりをして、そのまま首をのばし、頭の上の耳にくちづける。ひゃ、とみかが首をすくめ宗の肩に額を埋めた。ぴんと尖った三角の耳がかぼそく震えている。尻尾の付け根をかわいがることも忘れないまま、その耳に唇を寄せた。
「ほんとうに?」
「っ、ぁ」
 優しく囁いてやると、ひきつった悲鳴がこぼれた。そのまま耳たぶを柔らかく唇で食み、リップ音を立てた。
「かわいい」
「や、も、だめっ、お師さ、ん」
 泣きそうな声は甘くかすれて脳をひっかいていく。とてもじゃないが拒絶の言葉には聞こえない。宗はそのまま、耳と尾の付け根をじっくりとかわいがる。くっついた身体の熱が伝染する。自身もゆるやかに昂っているのがわかり、軽く腰をうかせて熱をおしつけた。
「あ、」
 ぱ、と大きく目を見開き、みかがこちらの脚の間を覗き込む。あからさまなやりかたに苦笑しながら、そのかわいい耳にささやく。
「かわいい、かわいいね、君は本当に猫みたい」
「お師さん?」
 ぱち、と目があいた。先ほどまで見ていたはずのみかの顔が、目の前にある。その後ろには天井。ベッドにあおむけに寝ている、というごく当たり前の状況を思い出し、それからぎょっとして飛び起きた。
 ぶつかりそうになった相手が慌てて体をひく。
「んあっ起こしにきたんやけど、」
「……影片」
「え、うん、はい?」
 低くその名前を呼べば、みかはきょとんとしてこちらを見ている。ベッドサイドに突っ立って、パジャマの上だけをきて下は――さっきと同じように履いていない。ほっそりとした二本の脚の間には、当然のようになにもない。あらためて顔をあげて、そのぼさぼさの黒髪につつまれた小さな頭を見る。髪の隙間からのぞいた白い耳は、とうぜんのように、顔の横についている。
「……チッ」
 はああ、とため息をついて手のひらの中に顔を埋めた。ベッドカバーの上にさんさんと朝の日差しが差し込み、すっかり明るくなった部屋の中は見慣れたそれである。先日入手したばかりのライトもまだそのままの形で置いてある。昨日寝たままの部屋だ、昨日と地続きの今日である。
「え、え? なに? どないしたのん、具合わるい?」
 慌てたように顔を覗き込まれ、宗はそっぽをむいた。とてもじゃないがいまの自分の顔など見られたくない。みかが戸惑ったようにさらに体を近づけてくる。なじんだ匂いがして、気配がして、それで。それが。
(どうして、あんな)
「なあなあお師さん、どうしたのん、変な夢でも見た?」
「なんでもないのだよ」
「お師さんってばあ」
 んああ、と間延びした猫の鳴き声のようなしゃべり方だから。ふだんから寝ぼけた子猫のようなぼーっとした顔をしているから。理由はいくつでもみつけられるが、それにしたって。いくらなんでも。
(……信じられない)
 違和感をおぼえて、宗は少しだけ足を動かした。そして、まったくもって、げんなりした。羞恥なのか不愉快なのか、苛立ちなのか。とにかく。
「……シャワーをあびてくるから、紅茶をいれておいてくれないか」
 そう用事を言い渡すと、みかは、ぱっとうれしそうに背筋を伸ばした。
「うん! じゃあキッチンで待っとるな」
「そう時間はかからないから」
「昨日買ったクロワッサンもあっためとくな~んふふ、お師さんとあさごはん、うれしい」
 歌いだしそうなほどの上機嫌で軽く肩を揺らしながら出ていく後ろ姿をみて、宗はため息を飲み込んだ。まったく、なんて夢だ。
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