特に用事があったわけではない。ただ単に時間が少し空いて、部屋はいまは月永たちが帰国していてたいそう騒がしいから戻る気になれず、それなら共有ルームでお茶でも飲もうかと思ったのだ。備え付けのキッチンはお茶やコーヒーの類を皆が好き勝手持ち込んでいてある程度の調理器具もある。そこにあるオーブンで焼いたクロワッサンはやはり思い通りの歯ざわりにはならなくて、使い慣れていない機械で焼くのは難しいものだと思ったのがついこの間のことのように思えた。
ソファに腰かけ会話しているのは鳴上たちで、軽く会釈をしてそれからふっと顔を向けると、キッチンに人がいる。誰か、なんて考えるまでもなく、あの子だ。
「おや、」
お茶でもいれているのかね、と聞こうと思ったのだ。だが、うつむいていた彼がこちらの気配に気が付いたようにゆっくりと顔をあげる。
長い前髪の下からのぞいた色互いの双眸が、潤んで光っていた。
その顔を見た瞬間、宗のうなじがぞわっと総毛だつ。何を言うべきか考えるより先に大股でキッチンの方に進み、みかがぱたぱたと瞬きをして小さな口を開きかけたときにはすでに彼の隣にたどり着いていた。
「あ、お師さ、」
「どうした」
彼の言葉尻にかぶせるように声をだす。自分で思ったよりも低く、凄みのある声音になってしまったことに気づくが今更取り消すこともできない。手を伸ばし、彼の左腕をつかむ。こちらの手のひらが大きいのか相手の腕が細すぎるのか、骨ごとつかみとってしまえそうな頼りなさだ。
みかは、もう一度ゆっくりと瞬きをした。
「んえ? えっと?」
「なぜ泣いて、」
そこまで言って、宗は彼の手元に気が付いた。みかは左手を中途半端にうかせ、右手は、包丁を握っている。お茶ではなく、なにか料理をしていたらしい。そしてまな板の上に広がっているのはみじん切りの途中らしい玉ねぎ。
「……」
思わずうつむいて、それからもう一度みかの顔を見る。彼は、ん、と左手を動かそうとして掴まれていることに気づき、それから右手の包丁をまな板の上に置いた。
「んと、目にしみてしもたんよ、んあ~いたいわぁ」
「……あのねえ」
「お師さん、なにか用事? ごっつ真剣な顔しとったけど」
「……もういいよ」
はあ、と宗はため息をつきながらみかの腕を離した。なんのことはない。玉ねぎの刺激で涙がにじんでいただけだ。ただそれだけ。それだけ――
「紛らわしい!」
「んあっ」
我慢できずに大きな声を出せば、みかがびくっと肩を跳ねさせた。ソファの向こうからあらあら、といった声が聞こえてきた気がするがかまっていられない。ああもう、まったく、みっともない。常に完璧で冷静で、落ち着いた行動をするべき自分が、いったいなんてざまだ。
(影片が、)
泣いている、と思っただけで居ても立っても居られなくなって柄にもなく動揺しただなんて。
「えと、なんやわからんけどごめんなぁ。うう~目、しみる」
みかはまるでわかっていないような顔で曖昧に謝ると――この子はこういうところがある。会話が理解できていなくてもそれっぽく返事をしてくるのだ――、あろうことか目をこすろうとでもするように右手を持ち上げる。いよいよ見ていられなくて、宗は再び手を伸ばし彼の右手を抑え込んだ。
「こら、衛生的によくない」
「あ、せやね。でもいちいち手洗うのめんどいねん」
「料理は衛生的にやりたまえ。あとで困るのは食べるひとだよ」
みかの手を抑え込んだまま、もう片方の手でその目尻に滲んだ涙をそっとぬぐってやる。みかはおとなしくされるがまま、目を閉じる。長いまつげが細かく震え、ふっくらと涙袋に影を落とす。白い頬は相変わらずほっそりとしているが一時のやせこけた不健康そうな顔よりは幾分丸みを帯びただろうか。
(小さな顔だ)
反対側の目尻もぬぐってやりながら、宗はしみじみとその顔を眺めている。片手で掴めてしまいそうだと思う。人差し指の先が影片の涙でうっすらと濡れ、けれどすぐに乾くだろう。
「それで、何を作っていたのだね、というか君、料理なんてするの」
みじんぎり、というには少々大きすぎる塊たちを見下ろしながらゆっくりとみかの顔から手を離す。眠る人形のように整った顔のまま、みかは「んー」と間延びした声で口を開いた。
「ハンバーグ。前に調理実習で作ったことあるし、作れるかなって」
「どういう風の吹き回しだね? 自分好みの焦げたハンバーグが食べたくなったのかね」
彼の味覚は少々人とは違うところがある。焦げたもの、あまったもの、誰も食べなそうなものを積極的に選ぶのは、もしかしたら大勢で暮らしてきた頃の名残なのだろうかと気付いたのは彼と暮らし始めてだいぶ経ってからだった。そのような発想にすぐに思い至らないくらいには、宗の環境はみかの生育環境とはかけ離れている。なにをしてもお互い驚くことが多くて、なにからなにまで違って。一緒に暮らしながら頭を抱えそうになったことも何度もある。
「んと、そうやなくて――お師さん、ハンバーグ、好き?」
薄い目蓋がかすかに震え、ゆっくりと開かれる。翳りを帯びた月のような黄色と夜の深い瑠璃色。何度見ても見飽きることのない瞳を覗き込んで、それから、ようやく問われたことを考え出す。
「……嫌いではない」
「ほっか~」
なぜか残念そうな返事で、宗は訝しく相手を見つめる。みかは、困ったように眉を下げ、唇をむずむずと動かした。小さな口の奥でちらりとほの暗い舌先が覗く。
「最近な、できること増やそうと思ってんねん。お料理も、練習してみよかなって。おれ、なにやってもお師さんみたいに上手にはできへんけど、練習したらちょっとは上手になるかなって思って」
「努力はいい心がけだと思うよ」
意図がよくわからないが、彼なりの成長なのだろう。宗は素直に感心し、褒めてみた。みかは面はゆそうに眉を顰める。
「んふ……だっておれがお料理できたら、お師さんはその分ほかのことに時間つかえるやろ?」
「ん?」
「お師さんはやることたっくさんあるし、やりたいこともたくさんあるもんな。おれもお師さんがつくるものたくさん見たい、応援したい。せやから、おれもできることがんばらなあかんなって思っとるんよ」
んふふ、と笑いながらみかは首をかしげて宗を見上げる。気恥ずかしそうな、けれど嬉しそうな、まっすぐな視線を受け、宗はしばし瞠目した。先ほど涙を拭った指先の湿りが、その温度が、急にまざまざと戻って来る。触れた目尻の柔らかさ、繊細な睫毛の震え、なにもかもこちらに明け渡すような、目蓋を閉ざした静かな表情。
くらりと、めまいがしそうになった。もちろんありったけの矜持をかき集め宗はしっかりと地面に立つ。背筋が伸びる。この期待に、応えねばなるまいと腹の奥がじわりと熱くて、けれどそれだけではなく、なんだか。落ち着かないような。
「――まるで家事を分担する予定のようだね?」
平静ぶって、揶揄するように響かせたかったのに、かえって真剣に念押しするかのような声になった気がする。さきほどからどうにも声の調整がうまくいかない。この子の前では、思うとおりに行かないことがある。変に感情が高ぶってしまったりやけになったり、みっともないところばかり見せているのに。
目の前の子は、当たり前のように頷いた。
「だって一緒に居てええんやろ?」
素直な言葉が、宗の耳の奥から身体の底にまっすぐ落ちていった。遠い約束のようなそれを、彼の努力の方向を、どうにも見落としたくない。口を引き結び、けれど何と言っていいかわからず、少しだけ目をそらしてしまった。
「――ああ」
「よかった」
嬉しそうな声と、再び包丁をもち残りの玉ねぎにむきあおうとする子を結局どうしていいかわからず、宗はすぐ後ろに立ってしばらくその子を眺めているよりなかった。
「――エプロンでもつくろうか」
「ん? なに?」
「こちらの話なのだよ」