あ、と思ったときにはもう遅かった。唇と舌がしびれだし、指先がかすかに震える。
――毒でも盛られたか。
アベンチュリンは内心で舌をうちたい衝動に駆られたが、それを無理やり抑え込み笑顔の仮面を貼り付けた。今は商談相手との会食中で、かつ、分かりやすくエヴィキン人を嫌っている輩が相手だ。いや、“嫌っている”というのはぬるいか。なにせ、あからさまに毒を仕込むくらいだ。憎んでいると言ったほうが正しいだろう。事実、目の前の男はでっぷりとした口元をニヤニヤと歪めて、アベンチュリンの様子を観察して面白がっているようだった。
「どうかしたか、手が止まっているが」
「あまりの美味しさに驚いてしまってね。特に今日のメインはスパイスがよく効いているみたいだ、特別なものでも使っているのかな」
よく分かっているとでも言いたげに男が頷いた――ように見えたが、正直、頭から血が降りていくような冷ややかな感覚のせいで、視界が判然としない。
銀食器を持つ手の感覚が薄くなる。取り落とさないように一度食器を置いた。それを見た彼は「おや、」とわざとらしい声を出す。
「もういいのか? 卑しい奴隷のくせに、食事はえり好みするようだ」
「いやいやまさか! すべていただくつもりさ。けど、美味に酔う前になべきことをなそうと思ってね」
口元に手をあてながら、くすくすと上品に笑って意識して目尻を下げる。男はあからさまに反応して、汚らしく相貌を崩した。蔑むくせに魅了されるとは、バカなやつだ。
不意打ちで始まったタイムアタック形式のゲーム。チップは自分の命と、この取引の結果いかん、といったところか。症状から逆算して、猶予はせいぜい…………。
「楽しい楽しいお金の話をしようじゃないか、マイフレンド」
結論から言えば、商談はアベンチュリンの勝利で終わった。悔しそうに唸る男を見たところで下がる溜飲などどこにもなかったが、石心として最低限の仕事はできただろうことに安堵する。
ただ、一番の問題が残っている。
男の前では余裕の演技ができた。部下に業務の終了を告げて帰すこともできた。けれどホテルに戻って、宿泊予定の部屋が見えた瞬間、気が抜けてダメになった。
そのまま壁に手をつき、ずるずると崩れるように座り込む。廊下に敷かれた赤い絨毯がふかふかだったおかげで膝を打つことはなかったけれど、それを幸運と呼ぶにはいささか小さい。
――仕方ないなあ。
壁に背中を預けるようにして座り直し、震えて言うことを利かない手で端末を取り出す。ホーム画面の端にまとめてある連絡先のウェジットからアヒルのアイコンをタップ、呼び出し音が聞こえたところでスピーカーの設定にする。腕から力が抜けて、端末を耳にあて続けるのもままならない。
「もしもし、レイシオだ」よかった、数コールで出た。「電話をするなら時計を見るべきだな、ギャンブラー。非常識だぞ」
「あは、ごめんね教授。深夜料金でも振り込んでおこうか」
「結構だ。……それで、要件は?」
「夜間の診察ってやってる?」
口の中も周りも、しびれがひどくて動かしにくいったらない。意識してゆっくりと、大きく声を紡ぐ。なにかしらの皮肉と文句が渡されるのはわかりきっていたので、さえぎるようにつらつらと症状を並べる。手足のしびれ、口が動かしにくい、血が下がってる感じがして気持ち悪くて――……。まるで必死にさえずる鳥のように、体感していることを余すことないように言葉になおす。
「神経系のものか? 呼吸は」
「そういやなんか息苦しいかも。ネクタイのせいかと思ってた」
「……言いたいことは色々とあるが、ひとまずあとだ。今どこにいる」
「ホテルの廊下」
もともと今日の商談は警戒していたから、なにかしらの嫌がらせはあるだろうと踏んでいた。そのため事前に用意できることは終わらせてあるし、必要な引き継ぎも済ませてある。そうやってまとめていた準備の中には、仕事仲間の大まかな予定も含まれている。不備があった場合報告ができるように、大事になってしまったら手を借りられるようにと、念の為で覚えていたものだったが、案外役に立つものだ。
記憶違いでなければ、レイシオは確か技術顧問としての打ち合わせが明日に控えていたはずだから、カンパニー関係者として同じホテルに宿泊しているはずだ。自分がいる階数と、エレベーターホールからの道筋を大まかに話す。――察しがついたらしい。通話口のむこうからがさごそと慌ただしい音がして、乱暴に扉が開く音がした。「バカが」とか「愚鈍がすぎる」などの文句が聞こえた。ある意味でいつも通りの態度に、ほっとした。
――ほっとした? なぜ。
「何故気づいてすぐに医者を呼ばなかった!」
「対応してくれる医者があちら側じゃないとは限らないだろう? せっかく相手が分かりやすい弱みをつくってくれたんだ。利用しない手はない」
貧血のように視界がぐらぐらしてきた。音が一瞬遠のいて、また戻ってと揺れるから、余計に気持ち悪くなる。
「それに、」
このまま大人しく座っていたら意識が飛んでしまいそうだ。それはいくらなんでもまずい。なんでもいいから口を動かさないと。
「どうせ医者を呼ぶなら、」
――だから、出てくる言葉はほとんど無意識。飾り立てる余裕も、選んで渡す気力もなかった。
「君がいい」スピーカーのむこうで、息を呑むのが聞こえた。「命をかけるなら、きみがいいんだ」
端末のスピーカーと廊下のむこうから、ポーンと気の抜けた音がした。エレベーターが到着したらしい。ついでパタパタと軽い足音がして、視界のはしに金のサンダルと濃い青が見えた。
――よかった、もう大丈夫だ。
やってきたレイシオに軽く手をあげる。その反動でアベンチュリンはバランスを崩し、そのまま廊下に倒れ込んだ。
「あと、よろしく」
そこでアベンチュリンの意識は途切れる。
――……なのでここからは、いわゆる後日談だ。
アベンチュリンが次に目が覚めたのは病院のベッドの上で、レイシオが解毒を完璧に済ませ予後を観察しているところだった。目覚めた瞬間からアベンチュリンに投げられる罵倒は普段の比ではなく言葉はきついものの、石膏像のない彼の顔にはありありと安堵が浮かんでいたため、威力は大分落ちていた。
「助かったよ、教授」点滴が繋がる左腕をあげて笑い「おかげで取引相手の弱みをひとつ握れた。毒物を使うだなんてカンパニーへの明確な悪意だからね。ついでに診断書でももらって、相手をとことん追い込む材料にでもしよう」
「悪意をむけられたのは君自身だ」
「変わらないよ。結局、これを使って商談をするんだから」
「それでも、悪意をむけられたのは君なんだ」
繰り返される言葉の意味は分かるが、意図が分からない。とりあえず笑って「そうだね、覚えておくよ」とうなずく。にも関わらず、レイシオは不満そうにため息をつくばかり。
レイシオが素早く各地に通達したこともあり、毒をきっかけにカンパニー有利で交渉が進んでいること。今はアベンチュリンが倒れてから一日が経過していること。解毒は完璧になされたが、しばらくは指先がしびれる可能性があること。
それらの話をうんうんと頷きながら真面目に話を聞いて、頭に叩き込む。
「つまり、今回の賭けも僕の勝ちってことか。君が手を貸してくれたおかげだね。ありがと、教授」
「……こんな思いは、二度とごめんだ」
苦々しげに吐き出された言葉に、そりゃそうかとアベンチュリンは納得する。面倒ごとに巻き込んでしまったうえ、余計な仕事を増やしたも同然なのだから、当然の反応だ。納得している。しているのだけれど、……なぜだろう。どこかで少し、さみしいと感じている。
「安心して、教授。次はこんなヘマをしない」
「ああ、そうしてくれ」
――次は、迷惑をかけないようにしないとな。
アベンチュリンはひっそりと決意をする。レイシオはレイシオで、今回の件を最後にアベンチュリンが身を削る方法を控えると言ったと解釈をして、安心した。きっとこれで、彼の危なっかしく無駄なギャンブルが減るだろうと期待した。……のだが、互いの認識がすれ違っていると気がつくのは、また別の話である。