手の甲の端、指の付け根の硬い骨の部分を使い、斎宮宗はごく控えめにその扉をノックする。
静かな音に、返事はない。半ば予想していたことで、宗はかまわずそうっとドアを開けた。中を伺うと、夕日がカーテンのひかれていない窓から鮮やかに射しこんで簡素なベッドを朱色に染めていた。人の気配に乏しいその空間に、遠慮がちに声をかける。
「影片、眠っているのかね」
返事はやはりない。宗は部屋に足を踏み入れ、手に持ったお盆を傾けないよう注意しながら後ろ手に扉を閉めた。
ばたん、と音を立ててもベッドの中のシルエットはぴくりともしない。絨毯の敷かれた部屋はもちろん足音を吸収し、だから宗は、まるで忍び寄るようにそのベッドに近寄る。さほど広くもない部屋だが、この部屋を与えると告げた時、この子はなぜかひどく驚いた顔をしていた。
(ひとりで寝るの、寂しいかも)
などと言っていたのが懐かしい。当初はおもわず眉を顰めたが、会話をしているうちに、どうやら故郷では一つの部屋に数人が暮らしており、年下の子が彼のベッドにもぐりこんできたり、あるいは眠れないとぐずる子をあやすため添い寝するということも珍しくなかったそうだ。プライバシーという概念がないのか、と宗はひどく驚いた。そして、自分の知らない世界があるということをこれまで想像してこなかったことに、なんとなく、恥ずかしくなった。
(孤児院など、世界文学の中だけの話だと思っていた)
とにかく、そんなこんなで彼のベッドはいまやぬいぐるみであふれ返っている。それもシュタイフなどの立派なテディベアならともかく、どこでどうやって拾ってくるのかどれもくたびれてあちこちほつれたりふるぼけたりしている不格好なものたちばかりだ。くまやうさぎ、犬やわに――わに? こんなぬいぐるみもあるのか。宗は枕元にぎっしり並べられたそれらをまじまじと眺め、その綿たちの中に埋もれるように横向きで眠っている一際白い顔を見下ろす。
「影片」
もう一度だけ名前を呼んでみた。
やはり、返事はなかった。
薄く開いた唇からこぼれる吐息は幾分落ち着いてきたようだった。熱が下がってきたのだろう。起きたら水をたっぷりと飲ませなければ。おかゆなら食べられるだろうか。宗は病人の看病など慣れていない。しかし、仕方ない。この子を下宿させると決めたのは宗であって、いまは自分が彼の保護者なのだ。
(人形師であれば人形の管理をするのは当然だ)
人形は風邪をひかないわ、とマドモアゼルの声が聞こえた気がした。彼女に万が一のことがあってはならないので自室に置いてきたので、もちろん幻聴である。宗は首を振り、それから、ほつれて額にはりついた前髪をそっと指先ではらってやった。白いかたちのよい額が露わになる。日が暮れ始め薄暗くなりつつある狭い部屋の中で、みかはすうすうとおとなしく眠っていた。
しょっちゅう体調を崩す子だというのは、ともに暮らし始めてすぐに気が付いた。そもそも彼は自分を管理するということができない。仕方ないので宗が逐一口を出し手を出ししかりつけるよりなかった。髪すら満足に乾かさない子だったのだ。舞台に上がる以前の問題である。どんなしつけをされてきたのだねと苛立ちまじりに尋ねると、この子はあっけらかんと笑っていたけれど。
「……ちゃんと布団をかけなさい」
過去ばかり思い出すのは相手があまりに静かだからだ。気を紛らわせるように、あるいは思いをふりきるように、宗は胸元で乱れたままだったタオルケットをつかみ、肩口までひっぱりあげる。そのまま思いついて首筋に指先を這わせた。朝より熱はひいていて、ほっとする。
看病など知らない。自分が幼い頃、熱を出したときはどうしてもらっていただろう?
濡れたタオルで額を冷やしてもらっただろうか。汗をこまめにぬぐってもらっただろうか。着替えを手伝ってもらった? りんごをすりおろしてもらった? どの記憶もどこか曖昧で、久しく経験のないものたちばかりだ。
「果物なら食べられるかね」
ぽつりとつぶやいた言葉に、当然返事はない。いびつな修繕をほどこされたぬいぐるみたちが静かに虚空を眺めている。ぎゅうぎゅうと枕元におしこめられて、これでは窮屈だろうに、と宗はそうっと彼らを並べ直した。倒れないようヘッドボードにもたれかかるよう、均等に配置していく。眺めていればそれなりに愛嬌のある顔立ちをしているものもあった。ふうん、とひとつひとつを見繕いながら、ここのほつれは補修したほうがいいだろう、糸でひっぱっても耐久性がないから当て布をつかったほうがいいかもしれない、腕もこれではすぐにとれてしまう、などと気になるところが山ほど出てきて、ぐう、と飲み込むのに苦労した。
「ん、」
小さくうめく声がして、宗は手を止める。見下ろした先、彼が横向きのまま、むずがるように目をとじ、眉を寄せた。起きる手前なのだろうか、あるいは夢でも見ている? わからないままに、宗はただ相手の仕草を見守る。
みかはかすかに唸り声をあげると、もぞもぞと姿勢をかえた。背中をまるめ膝を抱くようにきゅうっとうつむき、そうすると先ほどかけたタオルケットの中に鼻先まで潜り込んでしまう。前髪がまた乱れて目元が隠れてしまった。
「こら、くるしいだろう」
おもわずそう言ってしまう。どうせ眠っているから聞こえないというのに。
体を前かがみにし、ベッドに寝そべるその横顔を覗き込んだ。覆いかぶさるように見下ろして、自分の影の中にその小さな顔がすっぽりと収まってしまう。鼻先がわずかに覗き、その下はタオルケットの下。
「んん、……んで」
みかが、寝返りを打った。ゆっくりと仰向けになり、顔が半分隠れたまま、動いた拍子に前髪がはらはらとこぼれる。うすい目蓋があらわになる。長いまつげが密になって震え、まだどこか困ったような、むずがるような顔で、みかがなにかを呟く。口元がタオルケットに覆われていてうまく聞き取れない。
「なに」
宗はおもわず尋ねてしまった。寝言に返事をしてはいけない、というのはなんの迷信だったか。思い出せないことをたぐりよせるようぼんやりと考えながら、身体は勝手にさらに前へ倒れる。白いすきおるような肌。ちょんと尖った鼻先。小さな耳たぶが髪の隙間からのぞいて、埋もれていた貝殻を見つけたように、急に胸を突かれた。
「、捨てへんで、」
かすれた声で、名前を呼ばれた気がした。わからない。聞き取れなかった。ぐらりと体の芯が溶けるようにあやうくなり、宗はとっさに両手を枕元に、彼の顔の真横につく。見下ろした先の白い額、鼻先、タオルケットに覆われたその唇のあたりに、何も考えるでもなく、唇をおしつけた。
時間にしていったいどのくらいだったのだろう。
は、と我に返って体を起こす。まるでいままで停まっていた心臓が急に走り出したように勢いよく血液が流れだす。こめかみがばくばくとうるさい。宗は、手の甲で己の唇を隠した。そこにのこる感触を拭い去るように、自分の手の甲を、きつく、押し付ける。
いま、自分は、なにをした?
「……んあ、」
ぽかんと影片が目を開いた。ぼうっとした視線がうろうろと移ろい、それから、宗のことを見つける。目がとろりと細められ、「お師さん、」とあまやかに名前を呼ばれて、うなじがぞっとした。
「……お師さん、よな? お部屋暗くてよう見えへんけど」
気づけば日はすっかりおちて、夕焼けに染まっていたはずの部屋も均一にほの暗くなっている。おかげでこちらの顔を見られることはない、宗は卑怯にもそう考えた。
「――気分はどうかね」
「んあ、ん、だいぶいい、かんじ」
「そう。水をもってくるから待っていなさい」
できるだけなんでもないように、そっけなくそう告げて、踵を返す。もぞもぞとタオルケットの中で身じろぎする気配がして、背後からまた名前を呼ばれる。
「お師さん、おおきに」
「――――別に。人形を管理するのは僕の役割だ」
「んふ、」
くすぐったそうに笑う声を聴きながら、大股で部屋の扉に向かう。先ほどかすめたのは布の感触で、けれどその布一枚を隔てたところにあったはずの彼の唇の形を、やわらかさを、まざまざと想像してしまいそうになり宗は首を振った。