最初はほんのちょっとの言い争いだった。揃って招待された舞踏会に少しの間顔を出すだけの、そんな用事。ただその場に留まれば済むような仕事なのに、周囲からチェコへと向けられる不躾な目線が必要以上に気になってしまった。普段から離婚だなんだって揶揄われるからだろうか。それとも、チェコの美しさを他の男に知られたくないという邪念が脳裏を掠めたからだろうか。
 俺とのファーストダンスが終わって貴婦人たちの元へ行こうとするチェコを壁へ誘導し、それでも執拗に、かつ下品に話しかけてくる獣どもとの間に割って入ったり。そんな俺の突飛な行動を、最初の方こそ楽しんで顎で使っていたが、不審に思ったチェコが帰り際に俺を問い詰めてきた。
「一体どういうおつもりで? 急にこんな行動をとるなんて」
「ただの気まぐれ……そう! 気まぐれ、うん、なんかそんな感じ」
 一瞬だけ外した目線も、背中に流れる冷や汗も、チェコにはお見通しなことぐらい知っているけれど、こんな低俗な欲が理由だなんてバレてしまったらもう会わせる顔がない。
 チェコがこういう華やかな場で築いた関係を大切にしているということは、頭の中では分かっているつもりだ。だからといってチェコが下劣な獣どもの視線を浴びる必要はない。別に俺だってチェコの社交活動を制限する気はないし、そんな権限がないことも分かってるけど。
「嘘おっしゃい。私にそんなごまかし、通用するとでも? 一体何年の付き合いだと思っているのかしら」
 多分俺が先に、チェコの気に触るようなことを言ったんだと思う。
 そこから応酬のように言い合い、喧嘩別れして、なあなあになったまま。謝りたい気持ちだけが空回りして、昔よりもめっきり少なくなった一緒の仕事すら、次は数ヶ月先。チャットで謝りでもしたら二度と口を利いてくれなくなるくせに、会おうとすると適当な理由を並べて玄関のドアすら開けてくれない。長年の経験則だ。
 ただ手ぶらで行っても門前払いされることはこの世で一番俺が理解している。だからまずは贈り物で家に入れてもらい、チェコが望むデートをして、その夜に浴びるほどのお酒と愚痴を聞く。そうして数多の修羅場を潜り抜けてきたんだ。今回も何とかなる……はずだった。
「あなた、なぜ私がこんなにも怒っているのか。その理由が分かっていないでしょう?」
 ドアが閉められる直前で、どうにか上体を捻じ込んだ。ちょっと、というかかなり痛い。チェコは閉めるのを諦めて、俺に向き直った。
「言いすぎた、反省してる。ごめん。あの日はなんかイライラしてて」
「言い訳なら結構。それに、私も言いすぎましたわ。その点はお互い様ということで水に流しましょう」
 言葉では謝りながらも、その表情からは『納得できない、まだ怒っている』という感情がひしひしと伝わってきた。これ以上は平行線だ、というのは分かっているのだけれど、あなたは分かっていない、なんて言われっぱなしじゃいられない。
「でも俺以上にお前のこと分かってやれる国なんてないよ」
「まあ、随分と大口を叩きますのね。それが火に油だって分からないのかしら?」
 言い終わる前に、チェコに抱きついた。面と向かって伝えれば、俺は恥ずかしくなって自分の気持ちを言えないし、チェコはまた怒ってしまうだろう。だから俺たちの間には、顔を見ない方が伝わることもある。
 突然抱きつかれたことで動揺したチェコの左手は行き場を失い、抵抗さえもしなかった。チェコが何か言い出す前に「恥ずかしい話だけど」と前置きして、その状態のままチェコの耳元で話し出した。
「お前は俺より周りのこと見てるし、賢いからきっとああいう対応にも慣れてるだろうし、いや慣れてほしくはないけど、でも、多分なんとか上手くやってるだろうけど。なんか俺が嫌だった。お前にとっては昔のことでも、横にいたんだし頼って欲しいって」
 抱きしめたままなのも、こんな歯の浮くような台詞も、少しは俺のことを『頼れる隣人』として認識してもらいたいが為の行動だったはずなのに、腹の中で蟠を巻くように、邪な気持ちが巣食っている。行動している時点で獣以下だ。
 チェコの抵抗がないのを良いことに、より強く抱きしめた。耳まで赤くなったチェコの鼓動が聞こえてくる。目尻を赤くして泣きそうになっているのを誤魔化すように、俺の腕に頭を押し付けてきた。
「別に、あなたからの好意が嫌になったわけではありませんのよ。そういう訳ではないんですの。ただ、そんな理由ならちゃんと言って欲しかったですわ」
「言ってたら怒らなかった?」
「そうですわね、もし事前に聞いていたら、あなたに話しかけてきた貴婦人を睨みつけるどころじゃ収まらなかったかもしれませんわね」
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