私の夫は、生粋の演劇バカだ。いや、バカなんて言葉じゃ足りない。
あれはもう狂人の域だ。演劇に夢を見、演劇でご飯を食べ、演劇で息をしている。
きっと、彼の人生から演劇を取ったら、その場で消えてなくなりそうな――そんな演劇狂いが、私の夫・立花幸夫だ。
私は、そんな彼の生涯を傍で見ていたいと思ったから、結婚した。
だから、別にあの人が家に帰らず演劇に打ち込んでいても、特に不満はない。生活費もそこそこ貰っているし、何より私は自分で稼ぐので、金銭面で彼を大してあてにはしていない。
ただ――可哀想なのは、娘のいづみだ。
幼い頃からろくに家にも寄り付かず、幼稚園や小学校の行事にだって殆ど顔を出したことなどない父親を、しかしいづみはよく慕っていた。ほんの少しだけ劇団で娘を預かってくれたこともあるが、それが贖罪になっているとは私は到底思わない。けれどいづみは、その話を何度も繰り返し私に話してくれた。
「おとうさんはね、まほうつかいなんだよ。おとうさんのことばで、みんなすっごくキラキラするの
。みちにたってたおとこのこもね、はじめはさみしそうなかおをしてたのに、おとうさんたちのおしばいみたら、すごくたのしそうにわらったんだよ!」
まるで我が事のように誇らしげに胸を張って話す幼い娘に、私は嬉しいような切ないような、複雑な気持ちを抱いた。
いづみは、父親の作る舞台が大好きだった。いつの頃からかその舞台に立つのが夢になり――そして、高校は演劇部へと進んだ。
その頃、そのきっかけを作った父親は、とある事件に巻き込まれ、失踪してしまった。
行先は私も知らないし、いづみにはその事件の存在すら話さなかった。
父親のことが大好きだったから相当なショックは受けたはずだが、幸か不幸か、私の血を引いてかなり精神的に逞しい少女に成長していたいづみは、その事実を大して引きずることもなく、自分の人生を謳歌した。高校、大学と演劇の道に進み、社会人になってからも、劇団に所属していた。
ただ――いづみに、芝居の才能はなかった。
私も幸夫に連れられて観劇に行ったり、彼の創り上げる舞台を幾度となく観てきたから分かる。
私の娘には、絶望的に芝居の才能がない。そもそも、根が素直で正直な子だ。舞台の上でとはいえ、噓をつくということに徹底的に向いていないのだろう。
それは人としては褒められるべき美点だが……役者として生きていくにはあまりに大きな欠点だった。
やがて彼女の所属する劇団内で彼女に関する揉め事が起こり……いづみは、役者を辞めてしまった。悪いことは重なるものだ。時を同じくして勤めていた会社も倒産してしまい、彼女は急に宙に放り出されてしまった。
やることがなくなり、しばらく家でぼーっと過ごすいづみを、私はどうやったら元気づけてあげられるか、日々思案していた。
――そんな時、松川伊助という人から、一通の手紙が届いた。
それはMANKAIカンパニーの公演のチラシで、何故か立花幸夫宛だった。
「差出人の人、お父さんあてに手紙をよこしたってことはお父さんのこと知ってるはずだし、会えば何かわかるかもしれないよ」
そう言って頑なにMANKAIカンパニーへ行こうとするいづみに、私は何故かひどく苛立った。
幸夫は、いづみに殆ど父親らしいことなんてしてあげていない。なのに、今のいづみにやる気を取り戻させたのは、私ではなく幸夫なのだ。その事実が……どうにも腹立たしかった。
「だったら、勝手にしなさい。お母さんは知らないから」
「お父さんがいなくなってから、もう八年だよ? お母さんは心配じゃないの?」
「あんな人、どうせどこかでのたれ死んでるわよ。縁も切ったし、どうでもいいわ」
本当にどうでもいい。私に「傍で見守ってて」なんて言ったくせに、ろくに相談もせず私の目の届かないところへ行ってしまったあの人なんて……私の守備範囲を超えている。
吐き捨てた私に、いづみは悲しそうな顔をする。本当に、あんな人でもこの子にとっては大切な父親なのだと、今更ながら実感する。
「お母さん……私は、行くからね。MANKAIカンパニー」
その真っすぐな瞳を見て、私はそれ以上のことを言えなかった。
強い決意を宿した目。その目に宿る光は、父親によく似ていた。
「好きにしなさい。あなたももう、子供じゃないんだから」
そう言うと、いづみは複雑そうな顔をして、それでも静かに頷いた。
〇
自他共に肝が据わっていると評判の私だが、観劇に行ったはずの娘が、帰宅早々「私、MANKAIカンパニーの主宰兼総監督やることになっちゃって」と言い出した時にはさすがに目を剝いた。
「それで、その……MANKAI寮の方に引っ越ししようかと思うんだけど……」
「はあ……」
私は不意にしてきた頭痛に眉間を揉みながら、それでも真剣な目で私を見つめるいづみを見ていたら答えなんて決まっていた。
「……言ったでしょう、好きにしなさい。あなたがそう決めたなら、私は何も言わないわ。どうせ、言ったって聞かないでしょうし」
「あはは……」
誤魔化すように笑ったいづみだが、この娘の強情さは母親の私がよく知っていた。それはもう、幸夫と付き合っている時から。本当に、この父娘はよく似ている。
「その代わり――中途半端なことはしないこと。事情はよく知らないけれど、あなた一人の話じゃないんでしょう? だったら、自分を信じてくれた人たちのことは、必ず責任をもって面倒をみなさい。私にできることなら、頼ってくれてもいいから」
「――ありがとう、お母さん」
いづみは亜麻色の瞳を潤ませ、心から嬉しそうに笑った。そんな笑顔を見たのは久しぶりで、それだけで嬉しくなる私はただの親バカだ。
「まったく……本当に、蛙の子は蛙ね」
父親と同じ道を選んだ娘。それはきっと平坦な道ではないだろう。けれど、きっと普通なら出会わない人たちと出会え、安定を取れば見れない景色が広がる世界なのだろう。
その世界を、私も娘を通してもう一度見たくなった。
「……いづみなら、きっと大丈夫よ」
だって、私とあの人の娘だから。【終】
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