【装丁:よこがき/左トジ/ゲーム風】
【境界】
p.m.17:34/豪雨/視界:3km
龍門外縁部
PR-D-2作戦 物資回収進捗:60%
 突然の雨だった。回収中の物資が濡れることを防ぐための簡易装置は常に携帯しているが、屋外任務に慣れたニアールでさえ装置の展開が間に合わなかった。とっさの判断で、ニアールは本日の物資補給任務の成果の、現時点でのすべてを諦めることを決めた。物資よりも優先するべきものが彼女にはあった。部隊にはニアールよりもオペレーター活動の経験が浅い者たちばかりが編成されており、かれらを導く義務が彼女にはあった。
「エンカク!」
 ペガサスの耳に雨粒を感じる直前、もっとも近くにいたオペレーターの名前を呼ぶ。しかしその声をかき消すほどの雨音が大地に突き刺さっていた。息を飲む間に視界が白くけぶる。ざばざばと打ち付ける雨粒は、衣服越しだというのに、小石でも降り注いでいるかのように重かった。ニアールはまつげに霧状の雨粒がしたたるのをうっとうしく片手で払い、もう一度、まだ慣れない名前を呼ぶ。
 視界不良の天候では、共同作業者と自分との位置関係、方位を見失わないことがなにより重要だった。ニアールはロドスに乗艦するまでの長い旅の途中でそういった勘を身に付けていたが、四日ほど前、崩落するチェルノボーグからロドスに乗り入れたエンカクというオペレーターが、どういった経歴の持ち主なのかニアールは知らない。かれがどのような野外活動の経験を持ち、不測の事態への対応力を持っているか。ロドス本艦から離れた屋外活動で、白くけぶる雨で視界を奪われ、叩きつける水音で聴覚を封じられ、獣の耳や過敏な肌で土地の状況を探ることができなくなったとき、どの程度の時間までなら耐えることができ、あるいはパニックを起こしたときにどのような症状を引き起こすか。エンカクというオペレーターは、艦の責任者であるドクター・■■にも、ケルシー医師にも、ロドス製薬CEOであるオペレーター・アーミヤにさえ、まともな経歴書を提出しなかった。エンカクは乗艦初日、ドクターの前でいくつかの重要人物の名前をそらんじ、「どいつも俺がとどめを刺した。証拠が必要なら詳細な状況と殺害方法を話してやる」と言った。ドクターはぴんと来た様子ではなかったが、そのやりとりを控えて聞いていたニアールも、同席していたケルシー医師も、エンカクが口にした名前のどれもが各都市の政治や軍隊、商業界の重要人物であり、原因不明の失踪状態にあることや殉職していることを知っていた。だから、エンカクの身分の証明は、それがすべてで、必要十分だった。
 傭兵で、並外れた実力を持っている。雇われて人を殺す、あるいは現状を打破するために他人を害する、そういうことに慣れている。でも、ニアールがその庇護の対象から外すには、十分ではなかった。
 長く艦に乗っている者や、移動都市から出たことのない者の中には、屋外での天候不順に恐慌をきたす者も少なくない。荒天とはすなわち、小さな天災であり、やがてくる本格的な天災の前触れとして、各都市に暮らす者たちに恐れられる気候現象だ。
 視界は一向によくならない。猛烈な雨は足元の土をあっというまにぬかるみに変えた。足跡や臭跡をたどって部隊の仲間と落ち合いロドス本艦をめざすことも困難だ。息苦しいほどの水しぶきの中、腕を伸ばすとその手のひらさえ見ることのおぼつかない視野を、ニアールはじっと睨みつける。わずかな人の気配も見逃すことのないよう、打ち付ける雨をただじっと耐える。
 もう一度呼ぶべきか、とニアールが口を開こうとしたとき、彼女の腕を背後から掴む手があった。
「エンカク」
「まだ荒れるぞ。何を突っ立ってる。ひさしになるものを探して身を隠せ」
 白く濡れた空間から、ぬうっと現れた額に角を持つサルカズ傭兵は、さながら幽鬼のようであった。
 その表情の薄い顔をニアールは見上げ、かれが正気を失っていないことにまず安堵し、そして落ち着いた声で応える。
「君を待っていた。避難できる場所には当てがある。そのまま、私の腕を掴んで、ついて来い」
 ニアールはゆっくりと、一歩を踏みしめるように歩き始める。右ひじのあたりを掴んでいた骨ばった手が、離れることなく、一定の握力で従っているのが分かる。エンカクが気まぐれに離れて行く気がないということを確かめてから、ニアールの歩幅は大きく、歩みは速くなった。エンカクは黙ってついてくる。
 遠くに雷鳴が聞こえていた。雨脚は弱まる気配もない。騎士団が列を乱すことなく道を進むように、ふたりは言葉もなく豪雨の下を進む。
 東へ1kmほど歩いたところで、ニアールは歩みを止めた。
「その先が崖になっているはずだ。岩壁に身を寄せながら2mほど下ると、洞穴がある。そこに身を隠そう」
 雨の勢いはやや弱まっていたが、ロドスに戻るまで天の機嫌が持つかどうかは分からない。相変わらず曇天は重く、濃く空を覆っていて、いつまた槍のような雨に変わるとも分からなかった。エンカクは西の空を見やり、ニアールの案に乗るしかないことに納得して頷く。
「俺が先に降りる」
「いや、私が先行する。ここは以前通ったことがあるし、今の豪雨で崖が緩んでいるおそれもある。降り方を知っている私が安全を確かめてから、君は降りてこい」
 ふたりは崖を目前にして、それぞれの言い分を口にした後、互いに相手が折れないだろうという気配を感じ取ってしばらくにらみ合った。エンカクはニアールのペガサスの耳を見下ろし値踏みする。ニアールはエンカクの頸の体表源石が雨粒に濡れて光っているのを見上げながら、聞き分けのない部下を視線で諭す。数秒の沈黙のあと、エンカクが吐き捨てるように口を開いた。
「だめだ。俺が先に降りる。お前はこのあたりの土地勘があるんだろう。雨がやんだら艦への道のりを導き出すこともできる。だからお前の安全確保が先だ。お前が先に降りて、崖で足を滑らせでもしてみろ、俺が一人残ったところで艦に戻る方法がない」
 エンカクは整然と言う。各地を移動するロドス本艦と外勤ポイントとの連絡ルートを確保するのは、慣れたオペレーターでなければ難しい。ロドス・アイランド製薬はその企業様態のために、ステルス機能と暗号通信を使用し、部外者が仲介者なくコンタクトを取ることはほぼ不可能だった。だから外勤任務では、ロドスに関わって間もないオペレーターたちは必ず経験豊富なオペレーターとペアあるいはグループで行動する。
 ニアールは「一理ある」と視線の鋭さをやわらげた。「何よりこうして言い争っている時間が惜しい」
 雨は弱まり始めた、とはいえまだ視界を確保するのも困難な荒天に変わりはない。さらに風が吹きつつあった。長い嵐になるかもしれない、とエンカクもニアールも最悪の可能性を考えていた。
 エンカクは腿のホルスターバッグからいくつかの暗器を取り出す。
「そんなものまで仕込んであるのか」
 感心したように言うニアールに視線もやらず、エンカクは淡々と答える。
「俺は、お前たち騎士のように正々堂々と勝負ができるわけではないからな」
「そのグローブはずいぶん薄手だが」
「カズデルの奥地で生産されていた繊維でできている。柔軟で強靭だ。……降りるぞ」
 ロープの一本でもあればより安全に崖を降りることができた、という希望はふたりとも口にしなかった。言い出したところでかれらはロープ状の装備を持っていなかったし、代わりになる物があったとしても周囲にはくくりつけておくのにちょうどよい木や岩もない。ふたりは手元にある道具だけで、身体の安全を確保しなければならなかった。
 エンカクはためらいを見せずに崖の向こうへ足を降ろす。何度か体を揺すったあと、足場を見つけ、ぐっと腰をおろし、体重移動をしていく。かれの手が掴む岩壁には自然のおうとつがあり、摩擦力の高いグローブをはめた手のひらで難なく掴むことができた。一歩、また一歩と小さな岩のおうとつを爪先で移動しながら、エンカクは崖を下っていく。風に吹かれた雨が靄となっていて、降りる先の視界はおぼつかないが、エンカクは体じゅうの神経を研ぎ澄ませて進んでいった。足元の白い闇の下では、足をかけた瞬間に崩れ落ちるような脆い岩肌があるかもしれない。ニアールがそこにあると言った洞穴には、有害な獣が先に潜んでいるかもしれない。あらゆる可能性を考慮しながらエンカクは一歩ずつ降りていく。やがてブーツの先が中空を蹴った。何度かあたりをつけて足元を探ったが、そこで岩壁は内側に大きくへこんでいるらしかった。目的の洞穴まで降りたのだ。エンカクは息を詰めて、獣の匂いが漂っていないか、あるいは有毒ガスが吹きだまっている気配はないか探った。サルカズの高い身体能力でもってしても危険はないように思われた。あとは己がたどった岩場をニアールにも正確に伝えて降りてきてもらえばよいと、エンカクはそこで生涯でほとんど初めての、安堵を感じた。自分以外のだれかと、仲間と、行動を共にするのはエンカクにとってずいぶん久しぶりだった。
 岩場にしがみついたまま、エンカクは視線を上げた。おい、お前も降りて来い、と声をあげようと口を開いた。自分が通ってきた岩壁が、覆いかぶさるようにそびえたっている、そのさらに上で厚く重い雲がゆっくりと風に押されている。その視界に、金属をぶつけあったときの小さな火花が弾けた。エンカクは目を見開き、それが見間違いでないことを確信する。かれの灰色の視界で、黄金色の火花がちいさく、音もなく、しかし何度も弾ける。
「ニアール!」
 上空へ向かって吠える。
 応える声はない。
 エンカクは以前に行動を共にした傭兵たちが噂していたのを思い出す。騎士は音もなく闘う。手練れであればあるほど、その戦闘は静謐さを増す。ぶつかり合う刃や飛び交う矢だけが現実味を帯びていて、かれら騎士は死にゆくときでさえ表情を歪めることもない。夜警の暇つぶしにもならない冗談だと、エンカクは当時それを聞いて呆れた。同じ夜に耳にした、カジミエーシュの最年少の騎士が、彼女が、命の奪い合いにまるで似つかわしくない冷静さで闘うのだという噂も、エンカクはくだらないと相手にしなかった。
 崖の上を見上げたまま、エンカクはほんの一瞬、息を飲んでいた。すぐに表情も険しく声を張り上げる。
「状況を知らせろ! おい、聞いているのか」
 叫ぶのと同時に、今しがた下ってきた岩場のおうとつの上へ手を伸ばす。すぐに悪態をついた。下る分には体重を支えるだけの足場があれば十分だったが、上っていくには体重とさらに反動をつけて高い場所へ伸びあがる必要がある。190cmを越える慎重と鍛え上げた体の荷重を、この岩場は耐えられるだろうか。しかし慎重にルートを取っている余裕はなかった。崖の上からの応答はない。エンカクはもう一度悪態を吐き捨て、高い位置の岩へ手を伸ばす。勢いをつけて跳ね上がると、足元でぼろぼろと岩肌が崩れる感触があった。しかしそれを構う一瞬も惜しい。
 事前に打ち合わせたとおり、ニアールがいなければ天候が改善したあともロドスに連絡を取る方法が限られる。エンカクならば荒涼の地で数日生き延びることは不可能ではないが、その環境にニアールが耐えられるかどうかは分からない。彼女は戦闘経験を積んだオペレーターではあるが、エンカクとは種族が違い、性別が違い、本来的な体の耐久度が違う。ではニアールを捨て置いて、いずれロドスに帰還できる時が来たとして、古参オペレーターを荒地に残して戻ってきた自分はあの艦に受け入れられるだろうか。その可能性は低い。移動式艦艇という限定されて密集した暮らしをするあの製薬会社の面々は、軟弱な能力に見合わず驚くほど仲間意識が堅牢だった。エンカクは、今はあの中に溶け込まなければならない(・・・・・・・・・・・・)。ロドス・アイランドという隠された場所で再会したドクター・■■の、在りし日の真意をこの耳で聞くまで、かれらには「雇っておきたい」と思わせておく必要がある。
 なんらかの戦闘状態にあるニアールを、このまま見過ごすことは、エンカクにとってあまりにも不利だった。
 たった2mほどの距離がもどかしい。エンカクは岩肌を蹴るようにして崖を上っていった。ようやく断崖の上部に手がかかったところで、地表に触れた指先に凄まじい圧を感じる。濁流の中に手のひらを差し込んだような、痛いほどのプレッシャーがあった。
「頭を下げていろ!」
 ニアールの険しい声が聞こえる。
「遠距離術師と交戦している!」
 彼女は戦闘の隙を縫って状況を伝えようとしていて、途切れ途切れに届く言葉をエンカクは焦れながら拾い集めた。
 気象を操るアーツで、大気中の水分を集めて砲弾のように飛ばしてくる。一撃のこともあれば、散弾銃のように面での攻撃も繰り出してくる。圧縮された水を一時的に大量に噴射することも可能な様子で、ニアールいわく「この盾がなければ、私の上半身はばらばらになっている」ほどの殺傷力がある。
 エンカクは瞬間的に考えた。地表を俯瞰する鳥になったつもりで戦況を思い描いた。ニアールがエンカクに指示を発したことで、交戦中の術師は崖下にエンカクが身を隠していることに気づいているだろう。この状態でエンカクに直接攻撃がないということは、崖側のエンカクから見て、地表ではニアールを挟んでその向こうに術師がいる。それ(・・)はニアールを越えてエンカクを制すことや、ニアールとまとめてエンカクを害することを作戦立てて実行する能力がない。
 エンカクは崖の縁に身を伏せたまま、さらに声を張り上げた。
「おい、後退してこい!」
「なんだ」
「下がれ! 相手を引きつけながら、俺が手をかけているあたりまで後退しろ」
「しかし、それでは君を巻き込む。逃げ場もない。崖下にルートを見つけたのか?」
 ニアールはわずかに動揺した声で聞き返したが、エンカクは迷うことなく命じる。
 長く問答をしている猶予はなかった。ふたりとも、それぞれの戦闘経験からそのことをよく理解していた。
 オペレーター・ニアールの使用するアーツの光が、エンカクの視界にけぶる靄のような水滴に反射して、大気が黄金色に染まる。
 崖に伏せているエンカクからは直接その姿は見えないが、ニアールが戦いながら崖のほうへ近づいているのが、大気を染めるアーツの光の強さから分かる。
 やがてエンカクのすぐ頭上に影がかかった。差し迫った様子の声がすぐに状況を伝えてくる。
「まだだ。何か仕掛けるのだろう? まだ相手はこちらを探っている。もう少し距離を詰めさせる」
「敵の数は」
「三」
 エンカクはわずかに眉間にしわを寄せた。多くて二だと想定していた。重装オペレーターはたしかに最大で三つまで迎撃可能だが、ニアールの声の調子から、そこまで切羽詰まった戦況だとエンカクは考えていなかった。しかし同時に、エンカクの唇がわずかに吊り上がる。文字通り逃げ道のない、窮地にある中での戦闘の予感に、エンカクは高揚していた。
「ぎりぎりまで引きつけろ」
 冷たい谷底から響くような声でエンカクは命じる。
 しかし彼はそう口にした直後、そうしなければいけない(・・・・・・・・・・)直感から言葉を付け足した。
「お前の盾が耐えうる範囲で」
「……このカジミエーシュの盾が」
 今やエンカクの見上げる視界は黄金色でまばゆいばかりに染まっている。
「振り払えない害悪などこの大地に存在しない」
 鉄の溶ける色と見まがうほどに大気はニアールのアーツによって輝く。その盾と能力が発する輝かしさで、ニアール自身の影がエンカクの頭上に落ちていた。その影の形から、ニアールは本当に逃げ場の一歩もない崖の縁まで後退していることが分かる。三人の術師を相手に、じりじりと体力を削られるしかない場所へ自ら踏み込んでいくのには、よほどの胆力が必要だ。戦闘経験を積んだだけでは得られない、生来の勇壮さが試される。
 短い時間だった。数秒を、エンカクは何度か唾を飲み込みながら待った。
 ニアールからの合図は端的だった。
「何をしてもいいぞ」
 エンカクは、影の中から身を躍らせて光へ飛び出した。大型の食肉動物が、しなやかに狩りへ走る時の獰猛さで跳躍し、大地に着陸する前に中空で刀を抜く。ニアールは十分に術師を引きつけてくれていた。重装オペレーターの能力で術師をこの間合いまで引き込むには大変な精神的消耗を要したはずだ。エンカクは宙でニアールの逆立った尾と獣の耳を見とめ、笑みを深くする。着地の瞬間に、ぬらりと光る刀で術師の頸をひとつ撥ねた。着地の姿勢から背を正す動きと同時に、背負った大剣を抜き、二人目の術師の胴を斬り捨てた。三人目は、もっともニアールへ肉薄しつつあった。エンカクは大股で一歩二歩と距離を詰め、ニアールの盾を破壊しようとアーツを展開している術師の背中に、大剣を突き立てる。剣先が肉体を貫き、その先にあるニアールの盾にがつんとぶつかった感触がした。
 術師の三つの肉体から噴きこぼれる血液は、ほとんど霧雨のようになりつつある雨であっというまに溶けて流されていく。エンカクが最後に立てた剣を引き抜くと、三人目の術師の体は重力に従って大地に崩れ落ちた。残ったのは、血まみれになった盾をかざした姿勢のニアールと、双刃を握りしめて立ち尽くすエンカクのみだった。
 はっ、はっ、と息切れの音のみがあった。雨で冷やされた大気に、ニアールの口元から呼気が白く漂っていた。エンカクは、少し遅れて、自分も同じように息を切らせていることに気が付きわずかに眉を寄せる。
「何をしてもいい、とは、寛大な雇い主だな」
 エンカクは刀を鞘におさめ、ニアールの雨と血で濡れた前髪を見下ろして笑う。
「君を雇った覚えはない。命じ方が気に障ったのなら謝罪する」
 ニアールは大型の盾を大地に突き立て、このとおりだ、と右手を差し出した。その仕草の意味をエンカクが図りかねていると、刀をおさめて鞘にあったその手をニアールが取り上げる。グローブ越しに、ペガサスのふっくらとした手のひらが、悪魔めいた骨格の骨太な手を握りしめる。
「なんだ」
 エンカクは思いがけず間合いを詰められたように感じて、怒ったような声で反射的に答えた。
 しかしニアールは握った手をそのまま引き寄せ、平然と続ける。
「さあ、雨雲と雷が遠くへ行くまで身を隠していよう。君が安全を確認してくれたのだろう?」
 ニアールは足元の崖を指し示す。
a.m.4:35
ロドス本艦
粉塵源石洗浄室
「A6の夜番の日で幸いだったわね」
 汚染洗浄室の前でパフューマ―はのんびりと書類をめくっている。
 野外活動を行う多くのオペレーターが入れ代わり立ち替わり(★)利用するため、源石汚染洗浄コンテナには個室と呼べるほどの設備はない。裸になる必要もないのでプライバシーへの配慮はほとんどなく、洗浄に必要な大量の生成水が効率よくオペレーターに噴射されるよう、仕切りがわりの強化ビニールカーテンが垂れ下がっているだけだ。20ほどある仕切りのうち、入り口で水しぶきを避けて立つパフューマ―から最も近いスペースにニアールが、そこからひとつ間隔を置いてエンカクが、頭から人工水のシャワーを浴びている。
「ラナ? 何か言ったか?」
 ニアールは規定の水量を浴びてカーテンを開ける。体格差の分、エンカクはまだ時間がかかりそうだった。
「ううん。少し失礼するわね」
 パフューマ―がニアールに歩み寄り背伸びをする。医師の目をした友人を前に、ニアールは獣の尾や耳をぶるぶると振るいたくてたまらないのをぐっとこらえた。「はい、粉塵源石の残存はないわね」パフューマ―は類いまれな嗅覚と観察能力で、オペレーターの体表の汚染状態を見極める。
 ニアールは別のブースへ移動して、尾と耳を大きく身震いさせて水気を弾き飛ばす。それから、濡れた隊服をべつの制服へ替える。彼女がそうしているあいだに、水洗浄を終えたエンカクも同様にパフューマ―のチェックを受けていた。獣の部位を持たないサルカズは、備品のタオルで髪や手足を拭いながら、ニアールの尾が「たしたし」と空気中で揺れるのを奇異なものを見る目で眺めている。
 その視線に気が付いたパフューマ―が苦笑いで指摘した。
「彼女や私みたいに毛皮を持つ人間からしたら、エンカク君はどうやって体温を調節したり空気の震えを感じ取るのかとってもふしぎだわ。尾もなくて、どうしてまっすぐ立って歩けるのかしら? その肌で寒くはないのかしら?」
 エンカクはわずかにぎょっとした目でパフューマ―を見下ろす。視線が合うと、パフューマ―は「うふふ」と音が鳴りそうな笑顔で笑って、「君の体温調節能力は、いつか詳しく調べさせてほしいわ。療養庭園の温度管理に活かすのよ」と夢見るように続ける。
 ニアールもエンカクも着替え終わると、パフューマ―は「野外活動が10時間を超えてしまったから、面倒かもしれないけどもう少し検査させてね」とふたりを連れだって別室へ移動する。パフューマ―の診療個室までの廊下を歩くあいだ、エンカクは最後尾を歩いていたが、2歩ほど前を歩くニアールの尾がいつまでも気ぜわしく毛先を揺らしているのを見るともなく見ていた。
 パフューマ―の診療室は、奥の壁が落ち着いたすりガラスになっていて、隣り合う療養庭園の景色がぼんやりと浮かび上がって見える。時刻に合わせて庭園は青い朝焼けの照明が灯っていて、その中で背丈や形もさまざまの緑たちがしんと呼吸している。そういう絵画が壁にかかっているようである。パフューマ―はデスクに歩み寄り部屋のライトを調節し、ニアールとエンカクに好きなところへ座るよう指示をする。
「追加検査は、野外活動の規定時間超過のためか?」ニアールは丸いソファに背を預けてパフューマ―へたずねた。「それとも、近くで源石爆発の疑いがあったため?」
「ふん」パフューマ―の返事を待たずにエンカクが鼻で笑った。「俺たちは感染者だぞ。今さら、数時間の源石接触をおおごとにするとは、ロドスの医者は暇なんだな」カウンセリング用の低床ベッドに腰をおろしてしゃがみこんだ彼は、室内でパフューマ―からもニアールからも最も遠い位置を選んでいた。
 ニアールが物言いたげにエンカクを見やる。
「なんだ」
「君はオペレーター契約から間もないから仕方がないが、パフューマ―は仕事で我々をケアしているんだ。君の言い分は、本来ならパフューマ―ではなく、超過野外活動の対応マニュアルに向けるべきものだ」
「つまりお前も、あの程度の源石接触にいちいち過剰反応だという部分には同意するわけだな」
 エンカクはニアールの言葉尻を捉えて、意地悪そうに唇を吊り上げた。ニアールは肯定も否定もしない。はいはい、とパフューマ―の声が割って入る。
「ふたりとも疲れているのね。エンカク君も早く居住区で休みたいでしょう。ニアールはロドスに来て長いから、こういう場面で私たち医療部門にぶつけられる文句を見聞きしすぎて、かばってくれようとしているのね。でもふたりとも、この対応の責任者は私よ。私がよしと言うまで、居住区には帰してあげられないし、指示には従ってもらうわ」
 医師としての決然とした声でパフューマ―は宣言し、手元に抱えていた書類ボードを1枚ずつめくる。
「問題は源石接触ではないの。長時間の野外活動由来のストレス測定は必要だけど……ふたりは戦闘経験が豊富だから、そちらはあまり問題ではないと判断しているわ。私が、というより医療部門としてチェックしておきたいのは、
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アクナイ原稿
初公開日: 2024年04月06日
最終更新日: 2024年04月06日
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