「……お師さん?」
 訝しげな声とともに、目の前に突然その顔が現れて、宗は一拍置いてのけぞった。
「ギョッ!? か、影片、先に声をかけろ!」
 ぐ、と背中をそらせば当たり前にソファの背もたれにぶつかる。こちらを覗き込むような格好のみかは、曲げていた背中を伸ばし、ソファのすぐ前に立って眉を顰めた。
「さっきから名前呼んでたんやけど、お師さんぜーんぜんお返事してくれへんやん。寝とるんやろか、って心配でこっちまで回ってみたらちゃんと起きとるし」
 みかの発言から察するに、どうやらずいぶん前から彼はここにいたらしい。ライブラリーはめずらしく無人で、宗は次の舞台のために資料となりそうな文献を探していたところだった。テーブルの上には何冊もの参考資料が積み重なっているが、うち一冊を膝の上で開いたまま、つい、考え事をしていたのだ。
「……集中していたのだよ」
 苦し紛れにそういうと、みかは「ほっか~」と頷く。
「せやねえ、なんや難しいお顔でじいっと目の前睨みつけてたもんなぁ。ほんなら、邪魔してごめんな?」
 素直に謝られると宗としてもなんとも文句をつけがたい。この子はすぐそうだ。こちらの後をしつこくくっついてくるくせに、すぐどこかにいってしまう。かと思えば手放したつもりでも隣に寄り添っていたりする。自分のことよりも宗の方が大事だと言わんばかりに、怒って、笑って、わめいて、走り回っている。
「……もういいよ、」
 宗は首をふり、手元の本を閉じた。集中できていない自覚はある。目の前の鈍感な子はどうやらそんなこちらの言い訳など気づかないようで、ぽすんと隣に腰を下ろした。ちらりと横目で見ると、拳一つ分ほどの距離はあるが、すこし傾けば肩がぶつかりそうな距離の近さだ。三人掛けのソファなので、当たり前にまだまだ余裕はある。
『みかちゃんのことどう思ってるのかはっきりしてんだから』
 先日、これの友人に言われた言葉が頭の奥にひっかかっている。ずっと鳴り響いている。
 宗は、意識して隣の彼の気配を、無視した。無視するように心がけた。
「この間の試験結果返ってきたんよ、勉強会のおかげでちゃーんと赤点とらずにすんでよかったわぁ」
 宗の気持ちなどおかまいなしに、みかは好き勝手しゃべり始める。足をぶらぶらさせ、両手を身体の横において、軽く肩を揺らしている。何が楽しいのか、そんなささやかな日常を報告するだけでもみかはいつも嬉しそうな声だった。尻尾があればきっとゆらゆら揺れているだろう。
 知らず、その手を見てしまう。爪はまあるく整えられ、ささくれもできていない。絆創膏も最近はみられない。前はしょっちゅうけがをしていたけれど、ここ数か月、離れて暮らすようになってからも、ときおり日本に帰ってきて体をチェックすると以前より怪我が減っているのだった。ちゃんと気を付けているなら良い。良いことだ。
(……人間なのだから)
 痛みに鈍いのは決していいことではない。仕方ないから去年は宗が目を光らせていた、それでもこれはけがをしていた。傷ついていた。傷つけていた? 
『先輩のこと昔よりは好きだけど、でも別に全部忘れたわけじゃないですからね』
 嵐の声がよぎる。歯噛みしたくなる。ああそうだ、まったくもって、自分ですら忘れることはない。だが他人に指摘されることがこれほどまでに不愉快だとは。嵐でなければそのまま席を立っていただろうあの場を思い出し、ぐ、と唾を飲み込んだ。
『自分の思い通りの年下の子を、『お師さん』さんはどうするの?』
 凛月は、兄に似た血の滴るような瞳でやさしく、まとわりつくような言葉を囁いてきた。サークル仲間であり友人の弟であるからと油断していたわけではないのだが、まったく、どうして、ふたりともああもずけずけと言ってくれたものだ!
「ほんでな、白鳥くんも勉強苦手なんやって。また蓮見先輩にお願いして勉強会してもらおうかなあっておしゃべりしとったんよぉ」
 やわらかい声で、語尾で、隣の子が喋っている。いつもそうだ。部室でこちらが縫物をしているときも後ろで好き勝手しゃべっていた。こちらの返事などおかまいなしに、かまってくれることなんて期待していないみたいに。ひとりで、踊って、歌って。
「……僕が見てやれなくて悪いね」
 思わずそう言ってしまって、それからはっと口をふさぐ。すこしだけ、ひねた口調になった自覚があって、気恥ずかしさがこみあげてきた。
 なんだ、これは。
 別に同じ屋根の下にいた時だってまめに勉強をみてやったわけではない。試験前で泣きつかれたときはさすがに教えてやったが、基本的にみかはこちらに教えを請わない。舞台の上については別だ。衣裳については、最初はこちらが触らせなかったからそういうものだと思って、その後こちらが促してもなかなか関わってこようとしないのでそれはそれは苦労をした。
 だから、つまり。
(自業自得と、鳴上であれば笑うのかもしれない)
 いや、案外情の深い彼のことなので、憐みの目で、けれどやっぱり、同じことをいうだろう。
 宗の挙動をふりむいたみかは、まるで驚いたようにぱたぱたと手を振った。
「んああ、ほんな、お師さん忙しいしおれのことなんてかまってたらあかんやろ」
 まるでこちらが変なことを言ったみたいに彼が慌てて答えるので、なんだかそれも面白くない。むっとしてふりむけば、ライブラリーの読書灯の下、いつもより翳りを帯びた琥珀と藍に似た色を見つける。
 照明のためだ。そうわかっている。
 けれど、なぜか、胸をつかれた。
「僕はたしかに多忙だが、別に君の勉強をみてやる時間くらい、作れるのだよ。通話でだって可能だ。そもそも君、落第なんてしようものならアイドル活動にも関わるのだよ、つまり僕にとっても重要なのだから、そのくらい相談したまえ」
「んあ、でも、」
「なに」
 ここまで宗が心を砕いて言ってやってるのに、なおも逆らうのか。いらだちを覚えながら問いかけると、みかが困ったように瞬き、目を伏せた。両手を胸の前で組み合わせ、だって、と呟く。
「……お師さんとお電話したいことたくさんあるのに、勉強で時間とられるの、いややわぁ」
 長いまつげが震える影が、くっきりと浮かぶようだった。
 宗はしばしその顔を見つめた。日光を遮るように作られた薄暗い書架の中で、そのほの白い顔がいつもよりいっそう小さく見える。長い前髪に包まれ、その下から秘められた宝石のように瞬く瞳。この子を形容する言葉ならいくらでも思いつく。どんな芸術よりも、自らの創作意欲を刺激してやまない顔かたち、動き、目を離せない彼の姿を。
(……僕は、これを)
 こく、と唾を飲み込んだ。それから、乾いた舌を、意思の力でむりやり、いつもどおり、動かす。
「僕は、君とならどんな話でもかまわないよ。勉強も奥深いものだ、芸術と同じくね」
 つとめてそっけなくそう呟き、頬杖をついてそっぽを向いた。みかが顔を上げた気配を感じるが、振り向くことはできない。表情をうまくつくろえない。なんだか、すごく、つまらないことを言ってしまった気がして、苦い味がこみあげてくる。
(僕は、影片をどうしたいんだったか)
 その考えに答えを探しだす前に、彼の声がすべてをさらっていう。
「うん! おれも! お師さんとおしゃべりできたら、それだけですっごくしあわせ! また明日もがんばろうって思えるんよ」
 無邪気に笑うその声を、気配を、表情までを目蓋の裏にくっきり思い描けてしまって、宗はいよいよ目を閉じた。
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