最寄りの駅を出たところでスマホを取り出し、通話履歴の一番上にある相手をタップする。ツーコールの後、すぐに聞きなれた声がするので、宗はすこしだけほっとした。右耳にスマホを押し付けるように強く握りなおし、息を吐く。
「ああ、影片。いま駅に着いた。うん――ああ、雨? どうかな」
 空を見上げるとうっすらと暗い。パリの日暮れはずいぶん遅い。六月のいまは、ずいぶん遅い時間まで明るいのだ。それでも今日はどんよりとした雲が一面を覆っているようだった。
「いや、今は降っていない――うん、まっすぐ帰る」
 電話の向こうで明るい声が響く。はやく帰ってきて、と全身で訴えているような声音に聞こえ、宗は目を細めた。
「うん――いい子で待っていて。じゃあ」
 ぷつ、と通話を切ってカバンを肩にかけなおす。帰宅の際にいちいち連絡をいれているところを目撃され、仕事仲間にたいそう冷やかされたのは記憶に新しい。それから宗は、面倒くさいので皆と別れ、ひとりきりになってからこういった電話をするようにしている。連絡をいれない、という選択肢はなく、メッセージでも事足りるのだけれど、とくに今日みたいに疲れたときにはつい億劫になってしまって、あるいは声をすこしでも聴きたくて、通話をしてしまう。
(――――まったく、)
 我ながら、甘ったれたものだ。肩をすくめ、大股で歩き出す。この時間でもそれなりに混雑している通りを眺め、けれど実のところなにも目に入ってはいない。今日はもう十分働いた。あとはただ、彼の待つアパルトメントに戻るだけだ。
 さて、宗はいつもどおりドアベルを鳴らした。それから鍵をつかって中に入る。
「ただいま」
 ひとりで暮らしていた間は声にだすことのなかった言葉だ。かつて自分は一人でパリに暮らしていたのだ――そう思うと、なんだか懐かしい気すらした。その間、いつも以上に電話をするようになった。その癖は、いまもまだ抜けていない。同じ家で暮らしていようと互いに仕事で離れていることも多いから。
 ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえてくる。靴を脱ぎそろえながら軽く汚れをチェックしているところで、室内のドアが開いた。
「おかえりなさい」
 弾んだ声に、つい口元が緩む。宗はかがんだ状態からゆっくりと振り仰ぎ、そしてそのまま、動きを止めた。
 当然そこには同居人であり公私ともにパートナーである一つ年下の影片みかがいる。いつも彼は外での装いとは違い室内では気の抜けた格好を好む。いつから着ているんだろうと疑いたくなるようなスウェットやパーカー、だぼっとしたゆとりのあるパンツ。靴下はこれまた猫や犬の刺繍が入った子供みたいな柄を好むし、どう間違っても宗の衣服と混同したりまかりまちがって手に取ることもない。そのことは別にいいのだ。彼は彼の好みがあるのだから。
 だが、宗が硬直したのはそれが原因ではない。
「えと……お師さん、おつかれさま」
 みかの声が聞こえる。少しためらいを含んだ、恥じらったような声に聞こえた。だが宗はその表情を確認できていない。
 宗の目の前には膝がある。白いタイツに包まれた膝。ふだんはゆったりしたパンツに包まれ、あるいはダメージジーンズの隙間からぎょっとするくらい大きく露出することもあるけれど、そうではなく。
 ぎこちなく首を上向かせていく。なんだか油でもさしたほうがいいくらいの、ブリキの人形じみた動きだと、自分でも思った。宗の視線は細い膝を通りすぎ、同じく白いタイツに包まれた太ももがあって、途中で布のため途切れた。品のよいチョコレートブラウンのショートパンツは折り目正しく、見覚えのある縫製だった。
「……お師さん、あの、大丈夫?」
 みかの声に、かろうじて頷く。視線はベストで隠れたウエストに映った。ほっそりとした腰を隠さず、品よくまとまったレースで縁取られたベストと濃い色のシャツ。そのまま襟元までたどれば、きっちりボタンは留められ、胸元にはタイまで飾られていた。ほとんど肌が露出しないかしこまった、上品な、どこかヨーロッパの古めかしい映画に出てくる少年のような、あるいはアンティークドールにも似た装いに、宗がこの世で一番美しいと断言できるほの白い顔が覗く。
 思わず、唾を飲み込んだ。
「……影片、その恰好は?」
 見覚えがあるのも当然だ。これは昔、まだ学生の頃、彼のために仕立てた衣装なのだから。
 みかは、ようやくこちらが反応を示したことにほっとしたように顔を緩ませた。それから、白い指先で頬をかりかりとかいてみせる。
「んと、お師さん、ここ最近お仕事つまっててお疲れ様やったやん? せやから、今日は、ゆっくりしてもらおって思って」
 えへ、とほほ笑む顔は、ようやく二十歳を越えたというのにいまだに幼い。いや、大人びた表情もできるのだ。だというのにこうしてふたりきりになると途端に緩んだ、警戒心などみじんもない様子になってしまう。そのことを愛しく思うけれど、でもそうではなく、いまはそうではなくて。
 宗はまだ玄関先に膝をついたままだったことにようやく気が付いた。よろよろと腰を上げる。当然こちらが見下ろす格好になり、みかは素直に宗を見上げた。
「えっと、お師さんが好きそうな格好したら、喜ぶかなって……えっと……あかんかった?」
「いや」
 ご丁寧に帽子まで当時のものをひっぱりだしてきている。だがつける位置が少々高すぎた。ごく自然な調子で手を伸ばし、その小さな帽子に触れる。
 すこしだけ、傾ければちょうどいい。そう思った。ただそれだけだ。
 けれど。
「んっ」
 みかが、驚いたように両目をつぶった。その反応に、宗の指先が固まる。
 あの頃のみかは。まだ僕の人形であると思い込み、そのことを誇り、そのことにすがりついていた影片みかであれば、たとえそのまま目をえぐられようと、首をしめられようと、素直に従っていたのだろう。こちらの手の動きの先を想像することすらせず、ただ素直に、愚直に、目をそらさずにそのまま立ち尽くしていただろうから。
(……でも)
 いま目の前のみかは、きゅっと目をつぶり眉を寄せている。それから、おずおずと睫毛を震わせ瞳をのぞかせた。琥珀と瑠璃の、年を経てなお光り輝く宝石のような双眸で、宗をじっと見つめ、照れたように唇を曲げる。
「んあ……撫でてもらえるのかと思った」
 はずかし、と早口に告げるその唇の動きを最後まで追いかけられず、その肩をつかみ顔を寄せる。触れた唇はほのかに暖かく、柔らかかった。人形ではない。当たり前だ。持ち主を待つ人形ではなく、恋人を待つ人間として、たぶん、考えて、こうして行動して。
 細い肩が手の中で震えた。その驚きと、戸惑いと、けれどすぐに力を抜くまでの軌跡を手のひらで確認しながら、ためらわらず舌先で相手の唇を舐め、内側を軽く押し、けれどあまり深くなりすぎないうちに顔を離す。
 どうにか焦点があう距離をたもち、その顔を見つめれば、先ほどより血色がよくなっただろう頬をさらしてみかが瞬いた。
「あとでね。いくらでも撫でてあげる。でもその前に、思う存分君を鑑賞させてくれたまえ」
「んえ……えーっと、でもさすがに、もうきっついかなあって恥ずかしいんやけど」
「なにが? ああ、サイズ? 問題があるなら直してあげる」
「んあ、せやなくて……その……幼すぎるっちゅうか」
「どこが? 君はいつでも完璧に美しいけれど」
「んあ、んああ……」
 口ごもりながらなにか言い返そうとして結局なにをいっても宗がすぐに言いくるめてしまうので、結果としてなにもいえなくなったその唇を、宗はもう一度名残惜しく舐めた。かわいがりたい気持ちをおさえこみ、その腰を抱いて部屋に誘う。せっかくの懐かしい、かわいらしい姿だ。思う存分、味あわせてもらわなければ。
ひとまずここまで。
ありがとうございました!
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