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お腹が空いた。
目覚めてから1時間くらいだっただろうか。
暖かい布団の中の心地よさを食欲が上回り、外に出たくない気持ちを堪えてなくなく身体を起こす。暦の上では春ともいえるが、布団から身体を出すこの瞬間はまだまだ寒いと感じる。
どれだけ寝ても怒られない変わりに、どれだけ待っても食事が出てこないのが一人暮らしというシステムだ。もっと資産を増やして、家事代行でも頼もうかな…。割と真剣にそんなことを思いながら、キッチンに向かう。
自炊はほとんどしないが、
食パンは楽だけど意外と足が早いから、最近はもっぱら冷凍のパンをストックしている。
トースターに袋から取り出したロールパンを2つセットして、すでに覚えた時間の分だけダイヤルを回す。
インスタントのコーヒー用に、水をはった電気ケトルのスイッチも押せば完璧だ。
ふわあ、とあくびをしながら、居間に移動する。
日の当たる場所に置いたこたつは、研磨のお気に入りの一つだ。
焼きたてのパンと温かいコーヒー。時刻はとっくに正午を過ぎているが、研磨の1日は、ここから始まる。
熱いコーヒーが人肌程度に冷めるまでの間、テレビでも見ようとリモコンを手をのばす。ふと、無造作に置かれた白い封筒が目に入った。昨日ポストに入っていた書類を、開封もせずにそのまま放置していたものだ。
今度は忘れないうちに目を通してしまおうと封を開ける。
「あ…。」
思わず声をだしたのは、それが少しだけ予想外の内容だったから。
まだ少し熱いくらいのコーヒーをそっと一口飲み込んで、ほうと息を吐く。
この一軒家の借家契約の満了となる日が迫っていることを通知する案内だった。
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とにかく静かな場所がいい。
長距離の引っ越しも面倒だから、どうせなら住み慣れた都内が望ましい。
でも、ほとんど外出することもないはずだから、いざとなれば駅まで歩ける距離なら、アクセスはあまり気にしない。
株式投資の環境と、動画配信のための機材、趣味兼仕事のゲーム部屋も欲しいから、部屋は最低でも3つ以上は欲しい。
条件を満たせれば、予算はいったん、考慮しない。
提示した条件の中でいくつか提案された物件の中、一番条件のよかった今の一軒家の借家契約を結ぶに至るまで、実印を押しに行く日を除きすべてのやり取りはメールで行われた。
知らない人と顔を合わせると流されてしまいそうだし、営業マンから感じる、独特の圧が苦手なのだ。内見にすら行かずに初めての一人暮らしの住処を決めたことを知った両親やクロは呆れていたけど、金にはとりあえず困っていないし、借家契約期間に満たなくても違約金さえ払えば引っ越しはできる。
それに、自分には高速通信環境さえ保障されていれば、多少の不便には耐えられるという自信があった。
そうして始めた一人暮らしは、想像以上に快適だった。収入源としている株式トレードも動画配信も、時間と場所にとらわれない。何時に寝起きして、ゲームをして、時には風呂や歯磨きをさぼっても、だれにもなにも咎められない。大学に入り自分で金を稼ぐようになるまでの約20年間を実家で過ごした研磨にとって、その自由さはとても背徳的な充実感をもたらした。
好きなことを好きなだけできる人生。まさに研磨がずっと求めていたものだ。
「研磨ー。入るぞー。」
ガチャリと古い引き戸のカギが開く音がして、引っ越し当初、遠慮がちにインターホンを押していた姿が嘘のようだ。自分を除いては誰よりもこの家の敷居を跨いだその声にそんなことを思うのは、少し感傷的になっているからだろうか。
「なんだ、起きてたのか。」
クロは居間の戸を開けて少し驚いたように言いながら、手慣れた手つきで上着をハンガーにかける。
「さっきね。」
「まあ、お前にしちゃ上出来かな。」
そのまま研磨の隣の向かいに腰掛けるクロに対する遠慮なんてものは持ち合わせていないから、こたつ布団の中、伸ばした足はそのままだ。クロは気にした風もなく、布団の中で胡座をかくことで一つの戦いを避けた。
月に1回、多いと2回、こうしてクロはうちに訪れる。初めのうちは「ほっといたら死にそう」という理由で足を運び、食事や掃除、洗濯に至るまあらゆることを口酸っぱく注意された。年下の幼馴染の面倒を見る……というより、躾されたと表現するほうが正しい勢いだ。その甲斐あってか、今では研磨も人間として最低限の生活は送れるようになった。今だってこうして、太陽が高い位置にあるうちに起きて、食事まで準備している。
どちらかといえば心配性よりの両親よりもさらに過保護に世話を焼かれるのは少し鬱陶しかったが、その面倒見の良さに、昔から甘えている自覚もあるのだ。
そうして数年が経った今でも、決してアクセスがいいとは言えないこの家にクロが通い続ける理由は、正直なところよくわからない。仕事も忙しそうにしているし、クロはそれなりに友達もいて、プライベートもきっと予定が埋まっていると思う。
時折バレーのPRのために研磨のチャンネルを使わせて欲しい、というビジネス寄りの用事で訪れることもあるが、ただ会って意味のない話をしたり、互いに好きなことをしたりして終える日がほとんどだ。流石にお互いに働く身であるゆえ、来る前に連絡はくれるが、いちいち理由を言われたことはないし、聞いたこともない。
今日も特に仕事の話もないのだろう。こたつに入って無言でスマホをいじっている。
「クロ」
「あー?」
目の前に置かれた、食べかけだったパンをちぎる。すっかり冷めてしまったせいか、断面に塗ったマーガリンがうまく溶けない。
「俺、引っ越ししようと思う。」
もう一度温め直すのも面倒で、そのまま口に放る。当たり前だが、焼きたての風味とは程遠い。マーガリンに至ってはただの油の塊のようで、これならないほうがマシだ。けれどやっぱり立ちあがるほどではないから、冷めたパンを、もうひとくち分ちぎる。
「……ああ、契約期間!」
研磨の言葉に動かしていた指の動きを止めて、目についた書類で話を理解したらしい。おいた携帯はそのままにクロが立ち上がる。あっためるだろ、それ。当たり前のように聞かれたから、うん。当たり前のように返事をする。そのまま台所へと向かう背中ごしに会話を続ける。
「3年だっけ。もうそんなに経つのか。どんどん1年が短くなってる気がするわ。」
明らかに研磨のそれよりも手際良く器具を使いこなす姿を横目に、手持ちぶさたでスマホを触る。ゲームを始めてしまうと終わらないから、直近の配信動画のレビューをなんとなく眺める。あまり気乗りする行為ではないが、市場調査のためには必要なことだ。それに、意味をなさない言葉の渦に紛れた原石を発掘するゲームなと思えば、それなりに楽しむこともできるのだ。
「早いよね。いつの間にか大学も卒業したし、クロは就職もしたし。あっという間に三十路…。」
「最近そういうのがちゃんと“デリケートな話題”なりつつことが辛い。」
「まあ、契約期間については俺もさっきお知らせ見てから気がついたんだけど。」
「あっという間だったな。」
「うん。」
「…なんだよ?」
「クロはどう思う?」
「え、なにが?」
「…引っ越し。クロ、この家よく来てたから。」
「お前が俺に聞くなんて、明日は雨か?」
「……。もういい」
「冗談だって。まあ、ちょっとボロだけど広いしお前の家だし、第二の実家みたいで良かったよな。ただアクセスが微妙。」