「ハクは覚えてる?」
 半分ほどに減った酒瓶を手で転がしながら、思い出したようにヨナが聞く。夕餉の席に出された酒が気に入ったのか、珍しくヨナから2人で飲み直そう、と晩酌の誘いがあった。断る理由もないのでこうして2人、まだ涼しい風の通る縁側で晩酌をしていた。
 ヨナは大勢の護衛をそばに置くことを嫌う。もっともたいていは本人の意思は無視する形でいかなるときもこの国の姫を守れるような配置を敷いているが、ハクがそばにいる時だけは例外だ。
「あの頃、私、スウォンにとても憧れてた。」
 長く伸ばした紅い髪を耳にかけながら、ヨナは言う。その表情に、もう憎しみの色は浮かんでいない。過去形になった言葉の通り、ただ思い出した事実を口にしただけなのだろう。
 スウォン。
 彼女の口からその名を聞くたび、ハクは複雑な気分になる。今も昔も、それは変わらない。
「なんでも教えてくれて、誰にでも優しくて、私のわがままもいっぱい聞いてくれて……絵本で読んだ王子様みたいだってずっと思ってた。」
 男としては、複雑だった。当たり前だろう。想いを通じ合わせた男が目の前にいるというのに、他の男について語る彼女の横顔は恨めしいほど可愛らしい。こうして過去を慈しむように語れるほどに、ヨナの受けた傷が癒えたのだという点においては良いことだ。けれどその顔を、自分以外の男がさせていると思うだけで、醜い欲望が顔を出す。今だって、熱ったその唇を塞いで押し倒してしまいたいと思っているのだ。こんな感情、とうに飼い慣らしたと思っていた。10代の青くさいガキにできた我慢が、歳を重ねて難しくなる事があるのか。今では気を抜けばすべてを求めてしまいそうになる。
「…。」
「…?姫さん?」
「…聞いてないなら、言わないわ。」
 己の従者が人知れず煩悩を滅していたとは露知らぬ姫は、ハクが上の空であることに機嫌を損ねてしまったらしい。時折ハッとするほど凛々しい表情を見せるこの姫が、自分の前では子供の頃と同じように、むっと頬を膨らませてそっぽを向く姿を見せるのが可愛い。かと思えば、髪の隙間からチラリと見える熱った頬に邪な気持ちがむくりと湧き上がって焦る。月明かりに光る美しい人の髪に触れたくなって手を伸ばせば、甘えたように頬を擦り寄せるから、堪らない気持ちになる。
ーーハク、手、冷たくてきもちいいね。
 人の気も知らないで、ともすれば男をいとも簡単に誘惑するその仕草。天然でこれだから恐ろしいものだ。欲望に飲まれぬよう、かき集めた理性で頭の片隅で他人事のように思う。
(好きだな…。)
シミひとつない滑らかな頬を、壊さないように、あやすように、優しく親指でなでる。
「姫さん、続き、聞かせてください。………まあ、優しく話を聞いてくれる王子様はここにはいませんがね。」
するりと出てきた皮肉混じりの言葉に、酔っぱらい相手にムキになっていることを自覚してしまうから嫌だ。今、こうして触れられる距離にいるだけではもう、満足できないのだと思い知る。
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