つかまれた腕が痛かった。みかは引きずられるように石畳の上を歩く。早足というか足を踏み出さないとそのまま蹴躓いて転んでしまうだろう。
「お師さん、お師さんってば」
腕を掴んだ相手はこちらを振り向きはしない。まっすぐ前を向き、ずんずんと歩いていく。すっと伸びたうなじと短く切りそろえられた襟足。襟の高いコートを着ていて、その後ろ姿はふと、パリに来て人形と昔話に振り回されていた春先のことを思い出させた。
(あのときは、)
なにがなんでも、お師さんの邪魔をするものはすべて自分が消し去る。その覚悟で墓地へ赴き、掘り返し、必死に考えた推測とは違う結果に呆然として座り込んでいたところを、なぜか彼が迎えに来てくれたのだった。ちゃんと帰国すると嘘をついて、そういうふうにふるまったのに。彼にはすべてお見通しだったらしい。
(お師さんの手、あったかかった)
いまは手首のあたりを握りしめているその大きな手のひら。長い指先。硬く、力の入った手はじりじりと熱かった。彼の手はいつでも温かい。途方に暮れたみなしごのようなみかを、いつだって迎えに来て、ひっぱってくれるその手のひら。
「お師さん、」
何度その名を呼んだことだろう。ようやく、宗は立ち止まった。ほっとしたけれど、それはアトリエの玄関にたどり着いたからであって、宗は雑な動作でポケットから鍵を取り出すとがちゃがちゃと解錠し、扉を開けた。室内は物が多く遮光のためカーテンがひかれていて薄暗い。けれど清潔に保たれたその広々とした空間に、ぐい、とひっぱりこまれ、みかは否応もなく引きずり込まれている。
がちゃん、と古びた錠が降りた音が響いた。
「……お師さん、どうしたのん」
一体何度、その名前を呼んだことだろう。大学構内で彼を見つけてから、急に腕を掴まれ、そのままここまで歩いてきて。その間、普段はおしゃべりなはずのこの人は驚くべき忍耐力で、あるいは不機嫌さで、押し黙ったまま。
みかは視線をうろつかせる。トルソーにはこの間から取り掛かっている舞台用の衣装が仮縫いの状態でかかっていた。机の上はだいたいは整理されているが奥の方に積み重なったスケッチブックと選び途中の布の切れ端、ビーズやボタンといった細かなもののしまわれた箪笥はきっちりと閉ざされ、布が収まった棚もまた静かな圧迫感ともに二人を包み込んでいる。
すこしだけ埃っぽい気がして、喉の奥が詰まった。
「……お師さん、なぁ」
「君は」
こちらの言うことを遮るように、低い声が響いた。みかは、びくっと肩をすくませる。なんだか久しぶりにその声を聴いた気がした。不機嫌さを隠しもしない、地を這うような艶のある低音。
宗はようやくこちらを振り向く。コートを羽織ったまま、ばさりとなびかせた布のせいで彼がいつもより長身に、大きく、影のように思えた。このまま食べられてしまいそう、ととっさに感じて、みかは瞬く。
(……お師さんはそんなことせえへんけど)
いつでも正しく、明るく、まっすぐな人だ。一時期は本当に落ち込んでいたけれど、それはもう過去のことだ。そのはずだ。
けれど、なんだか。
振り向いたその視線の剣呑さに、不機嫌だけでなく、あの頃のいらだちと憂鬱に似た何かを感じ取って、みかはすこしだけ目を細めた。
「……お師さん?」
「彼と、ずいぶん親密にしているようだけれど」
感情を押し殺したように告げるその声と、だが意味がすぐにわからなくて、みかは愚かにも首をかしげてしまった。
「んと、なんのはなし?」
途端、つかまれたままだった手首が、ぎゅっと軋んだ。宗の指先に力が込められたのだ。
「――――フランシスだよ」
「え? フランシスさん?」
先ほどまで会話していた相手だ。どうしていまその名前がでてきたのかぴんとこなくて、思わず聞き返してしまった。フランシスーー宗の同級生であり、グループ展の仲間でもある彼は、ほかの誰よりも確かに会話をした相手かもしれない。それは単に、みかがまだフランス語がへたくそでほかの相手とはあまり会話が弾まない中、彼だけはずいぶん熱心に話しかけてくれたからにすぎない。たとえば宗に急な宅配便を届けるため、初めて大学に踏み入ったときも、たまたま出会ったのが彼で、彼が親切に案内してくれたから。あるいはグループ展を見に行った時も、宗は大勢に囲まれて話しかけにくかったが代わりにフランシスが相手をしてくれたから。レセプションに宗の知り合いということで招待された際も、どうふるまっていいのかわからなくてとまどっていたみかを、さりげなく助けてくれた。つまり、みかの認識では――
「親切なおひとよなぁ」
すなおにそうつぶやいた。それ以上の感想は特になかった。だが、宗はその言葉にひくりと眉を跳ね上げさせた。
なにかよくないことを言ってしまったらしい。そのくらいはみかにもわかる。けれど、その核心がわからない。戸惑いながら相手を見上げると、宗がこちらを睨んだ。
「――親切。君の愚かな頭ではそう置き換えるのかね」
「えっと……? でも、おれ、フランス語まだ上手やないからいろいろ助けてくれるんよ、お師さんにとりついでくれたり、パーティーで一人で困ってるときとか」
「僕は!」
腕をひかれ、みかの体は一歩前に踏み出してしまう。宗の顔が近づく。怒っている、と思ったけれど、少し違う気がした。怒ってはいる。だがそれだけではなく、
(……焦ってる?)
なにか、焦燥感がある。その根源が、理由が、けれどみかにはわからない。戸惑いながらも彼を見上げてしまう。それしかできない。
アトリエの中は静かだった。布たちは息を顰め家主のふたりを見守っている。作業用に設えられた空間は大きなテーブルと椅子、ミシンやアイロン台と棚が大半を占め、ふたりが立つスペースはごく狭い。奥に行けば休憩と仮眠用の長椅子があるくらいだ。
「親切だけとは思えなかった」
「……んあ?」
思わず間抜けな声を出してしまうのだが、宗は苛立ったままに「君は迂闊すぎる!」と早口で続ける。
「どうしてそうやすやすと相手の近くに立つのか、彼が君に触れることを許すのか――信じられない。信じられないのだよ、僕は、ああもう、うまく言えない!」
途端にぐしゃぐしゃ前髪をかきまぜはじめたおひとに驚いて、空いた手で彼の腕をつかむ。そんなこと、彼はふだんならしないのだ。いつだってきっちり整えて悠然と立っている人なのに。こんな。
(どないしたんやろ)
驚いて、感情を高ぶらせて。
もちろん、なずなのために怒りをあらわにしたこともある。かつての七夕祭の激しい、美しい怒りを忘れるはずもない。また芸術を生み出す前に躁鬱のように感情が激しく上下することもある。だが、いまはそれらにはあてはまらない。そのはずだ。
彼が心を動かすような芸術も、なずなというそのひとも、いないのに。
「お師さん、どないしたのん?」
おそるおそるそう尋ねてしまう。彼は、短く息を吸い、そのまま呼吸を止めてじっとみかを見た。まるで、初めて見るものでも見るような、異様な存在を見つめるような、鋭い、驚愕の瞳だ。いたたまれなくてそっと目を伏せる。だが、視界の端に彼の視線を感じて落ち着かない。
「……どうしたの、と聞いたのかね」
「だ、だって、お師さん、なんか動揺しとるやん。おれ、悪いことした? フランシスさんに案内してもらってお師さんのとこまで連れてってもらうとこやったんよ? あの、おれ、失礼なことしてしもたやろか、それなら」
謝らないと、と言いかけた舌が絡まった。顎先を掴まれ、無理やり引き上げられたのだと気づいたのは彼の顔が間近に迫ってからで、みかは、硬直してその顔を見つめる。片手を掴まれ、顔を固定され、身動きが取れない。宗の顔が、冷ややかなほど感情が読み取れない。息遣いはみかのものしか響いておらず、この瞬間、ここに生きているのは自分だけかもしれないと錯覚させられそうな、静寂。
(くるしい……)
息が、ひどくしにくかった。
宗の瞳はまるでそれだけで効力があるようで、みかは呼吸すらうまくできない。
「……君は、僕のなに?」
「――え?」
その言葉に、みかは凍り付いた目蓋を震わせる。瞬きできたのかすらわからない。見つめられて、そのまま動けなくなる。糸が。喉に、指先に、髪に、身体に、絡んでいる。この人の視線一つ、言葉一つで、いつでも、いつだって。
人間になれ、なんて言われたけれど。結局みかは、今だって、彼が望むように踊りたいのだ。
「……お、おれは」
喉の奥をひどく大きな塊が通りすぎていく。くるしくて、どうにか嚥下して、それから、かわいた舌を震わせて。
「お師さんの――お師さんの、ものや」
その答えに、なぜか宗は眉を顰めた。
顔を傾けた。そこまではわかった。それ以上は近すぎて、焦点がぶれてしまった。
「……ぁ」
中途半端にひらいたままの唇に、宗のそれが重なった。そう気づいたのは、口づけが行われて、数秒経てからだ。顎を固定されたまま、立ったまま、足が変な格好でこわばったまま、手のやり場がなく身体の横ではりついたまま。
触れた肌は、熱くも冷たくもなかった。乾いた皮膚同士が触れ合っただけ。ただの接触。そう思えてしまうくらい、淡泊な衝突だ。
みかが呆然としているうちに、宗はゆっくりと唇の角度を変える。そっけないふれあいが急に熱を帯びたのは、濡れた粘膜がみかの唇を舐めたから。びく、と肩を震わせたこちらにかまうことなく、湿った舌が内側に忍び込んできた。
「……っ、あ、」
驚いて、のけぞろうとしても相手の方が力が強い。抱え込まれ、ふさがれて、口の中を蹂躙される。ぬるぬるとすべりのよい粘膜が口の内側をなぞり、頬の柔らかいところを押した。
(そ、んなとこ)
お師さんにさわられたこと、なかったのに。
そう思って、それだけで、頭が熱くなる。逃げようと思う、はずなのに体が動かない。そのまま好き勝手触れられて、ようやく解放されたときにはすっかり酸素が足りなくて咳込んでしまった。
げほごほみっともない声をこぼし体を丸めているこちらを宗はじっと見降ろしているようだった。みかがおそるおそる顔を上げると、すぐに目が合う。
「僕のものなの、君は」
「え……う、うん、だって」
「そう――どこまで?」
「え?」
どこ? と尋ねたのが先か、肩を突き飛ばされたのが先か。よろけて、数歩下がればそのまま腰が作業台にぶつかった。支えるために手をついて、宗が大股で詰め寄って来る。ふだんよりずっと距離が近く、威圧感を隠さずにこちらを見下ろしてくる。両腕でこちらの体を囲い込むよう作業台に手のひらをつき、覆いかぶさって、見下ろされた。
「フランシスがどういうつもりで君に声をかけていたのか、気づかなかったのかい」
「え……?」
はたりと瞬くと、苛立たし気に彼の膝が動く。足の間に割って入り、抵抗する間もなく、ぐ、と奥を押し上げられた。
「んあっ……な、なに」
「言葉で説明してもわからないのだろう? 彼は、あからさまだったじゃないか。こういうことに疎いと馬鹿にされる僕にだってわかるくらいだ、ねえ、影片、本当にわからないの。彼に食事に誘われていただろう、その意味を、理解しないの」
不機嫌そうな声を聴いて、理解して、返事をしようとするのに、不規則に押し上げてくる膝の硬さが思考をばらばらにしていく。わからなくなる。ひどくやわらかいところを雑に扱われて、その意味がわからなくて、とまどって、けれど、じわっと背中が熱くて。目の奥が熱い。
「や、お師さ、ごめんなさ、」
「何に対しての謝罪だね」
「んあ……あ、あ、おれ、あほやから」
「あ、そう。そうやって適当にごまかすつもりかね」
彼の膝がひときわ強くおしあげてきて、みかは息を呑んだ。きゅうっと背中を丸め、指先でかりかりとテーブルの表面をひっかく。痛い。こわい。でも――なんだか、
(あつい、)
目尻に滲んだ涙のせいで視界が曇る。気が済んだのか宗が足をゆるめてくれて、みかはほっと息をついた。けれど、彼は両手をテーブルに着いたまま、身体を前に倒してくる。
ローズの匂いが鼻をかすめる。それだけで、みかはたまらなくなってしまう。
(お師さんの、におい)
ぎゅうっと胸の奥がつかまれるような。もう太刀打ちできない。何も抵抗できない。くらくらとした思考をぶったたくように、宗は、さらに体を密着させてきた。
「んあっ!?」
咄嗟に腰をひこうとしてもテーブルの縁にぶつかるだけだ。宗は、身体を寄せてきた。ふたりで向かい合うような格好で、腰のあたりが密着している。硬く、たちあがった部分がかすめて、みかは動揺して目を伏せた。そうすると狭苦しいなかで、互いの下半身がくっついているのが見えてしまう。触れ合ったのは、あきらかに、彼の体だ。
「……あ、」
「ねえ、影片。君は、僕の何? 何になりたいの。芸術の同士? 一番弟子? それとも――ていのいい、ただの、ビジネスパートナーか」
「な、なに」
宗の言い方に反論したいのに、身体の方に引っ張られてうまくいかない。みかはぐらぐらと揺れている。実際そのまま倒れてしまいそうなのに、机と宗の体に挟まれて、そのまま無理やりそこに立たされている。押し付けられた熱がみかの思考回路を乱す。あつい。それの意味するところは、みかにだってわかる。
(いや、でも、疲れとるときも……)
「お、お師さん、その……疲れてたりする?」
みかがすがるような気持ちでそう尋ねた。宗は一瞬黙ったのち、みかの細い腰を両手でがっと掴む。
「んあ!?」
「疲れてはいる。苛立ってもいる。だって、こんなに君が……君が、ひどいからね」
吐き捨てるように呟くと、さらに密着するように、布越しにでもくっきりとその形を知らしめるように、彼が腰を押し付けた。
ひとまずここまで。
ありがとうございました!どうなるんですかねこのあと