みかはだいたいすべての事柄に於いて宗に勝てるところはない。
手芸の腕はもちろん、振り付けや作曲のノウハウ、美術に関する知識、創作への情熱とあくなき美への探求心。もう少しささやかな部分をあげれば、料理の腕前やボタン付けの正確さ、歩く速さ、身長、指の長さ。
そして今日も、みかは勝てなかった。
「……んあ、」
ごそごそと心地よい毛布の中から体を起こすと、もはや隣には誰もいない。むう、とむくれる気持ちで、みかは起き上がり寝間着の襟をもそもそとなおす。室内履きをつま先で探してひっかけ、扉をあけるといい匂いがした。
その匂いにつられるようにふらふらと短い廊下を歩き、すぐそこにあるダイニングとキッチンへつながる扉を開ける。
「おや、早起きだね」
オーブンの前で腕組みをしていた人がくるりと振り向いた。朝だというのにすでに寝間着ではなくぴしっとのりのきいたシャツとパンツに着替えている。グレージュのエプロンは最近新調したものだ。ミシンの調子が悪くて、といいながら糸の張り具合を調整する片手間に縫い上げていた。なんていうか、無駄がない。そしてきっちりきれいに縫われたエプロンはもう一着。キッチンの片隅に深い緑色の同じデザインですこしだけ細身のサイズのそれがひっかかっている。
視線を彼に戻し、ぺたぺたと吸い寄せられるように歩み寄る。宗はなぜか、すこし口元を緩めた。
(ご機嫌さんやね)
寝起きのいい人なので朝から機嫌がいいことは珍しくはない。朝から不機嫌なことも同じくらいある。面白いくらい気分の差が激しい人なのだ。ジェットコースターかあるいは嵐のよう。
「寝癖がついているよ――おはよう、よく眠れたかね」
今朝は穏やかな方で、みかも返事をしようと口をあける。
「んあ、おはようさん……くあぁ」
気をぬいていると、語尾があくびに溶けていく。くく、と宗が口元を隠すようにしながら笑い、手を伸ばしてきた。
「朝ごはんまでまだ時間がある、せめて顔くらいゆすいでおいで」
「ふあ……はぁい」
素直に頷きながらもなんとなく離れがたい。バターとお砂糖のいい匂いはオーブンから漂っていて、彼の背中から首をのばすようにそのなかをのぞきこもうとしてみる。薄暗くて、中が赤く燃えているようにうつる。天板の上にのっているのは、けれどクロワッサンではないようだった。
「……なに焼いてるのん」
「できあがってからのお楽しみ。ほら、身体を冷やしてしまうから」
宗はダイニングの椅子に手を伸ばし、彼が使っていたのだろうカーディガンをみかの肩にかける。料理をするのに邪魔で脱いだばかりだったのだろうか、ほんのりあたたかさが残っていて、そのぬくもりを逃がさないように両手で襟元を掻き合わせた。
「コーヒーと紅茶、どちらがいいかね」
そんなことを聞かれるのもめずらしい。みかはぱちぱち瞬きをしながら「お師さんのすきなほうで」と答える。なぜか、軽く眉をひそめられたけれど理由がわからずじっと見つめ返せば、宗は首をふって「それならアールグレイにするよ」と告げた。
顔を洗って口をゆすいで戻ってくると、宣言通り紅茶の匂いがしている。オーブンの灯りは、気づけば消えていた。そういえば先ほど高い音が鳴っていたから、これかぁ、とみかは納得しながら宗によたよたと近寄る。
「おれ、お手伝いすることある?」
砂時計はまだ半分ほど残っている。宗はかぶりをふって「座っていたまえ」と椅子を指さした。かつてみかが一人で暮らした単身者用のマンションほどの狭さではないが、ここもキッチンとダイニングまでの距離はさほどなく、ものの詰め込まれたラックや壁に並んだ調味料などを眺めながらみかは素直に指示に従った。
頬杖をついてキッチンに立つ彼の背中を眺める。
(ほんま、ご機嫌やねぇ)
なにかいいことでもあったのだろうか。新しい衣装案を思いついたとか。舞台に使うのにぴったりな小物を見つけたとか。旧友から連絡がきたとか。なずなからライブの招待でも受けたとか。
みかはいろいろと考えて、頬杖に顎をずるずるとあずけていく。だんだん背中も丸まってきた気がする。
(……おれは朝ひとりっきりで目が覚めたのに)
この人は朝から元気いっぱいだ。けれど、それを恨めしいように思うのはお門違いというものである。宗には宗の輝きがあり、目標があり、楽しみがある。みかは、ただその彼の人生の隅っこに座らせてもらっているだけなのだ。弁えないと。うん。ひとりでうなずいて、けれどなんだかずるずると滑り落ちてしまいそう。
(おれにとってはお師さんが全部やけど)
このひとにとってはそうではないのだ、と当たり前のことを、もう何度も、何十回何百回考えたことをまた思い返して、唇を尖らせた。宗の手がポットを持ち上げ、カップに注いでいく。きちんとソーサーにのせて、こちらに振り向いたひとはみかのだらしない恰好をみて片眉をあげて見せた。
「なんだね、だらしない。まだ寝足りないのかね?」
「んあ~お師さんは早起きさんでご機嫌さんやね」
つい絡むようなことを言ってしまった。けれど彼は別にとりあわず、みかの前にソーサーを置き、自分の分も反対側に置いて、再びこちらに背を向けた。
「熱いからね、手をださないように」
どうやら紅茶のことではない、とわかったのは彼がオーブンを開けたからだ。甘い匂いが強くなって、みかはおもわず鼻先を上向けた。つられるように顔も上がる。ふっかりとしたミトンを使い天板を取り出した人が、慎重に中の陶器を取り出す。グラタン皿みたいに見えた。けれどグラタンの匂いではない。
「プリンみたいな匂いする」
「おや、正解」
振り向きざま、宗は愉快そうに笑った。そのままテーブルの中央に置かれている鍋敷きの上に皿をそうっと乗せる。中身を覗き込むよう首を伸ばせば「あぶないよ」とすぐさま制された。
「触らへんよ」
一応そう言い返せば、宗はどうだか、とでも言いたげに肩をすくめた。
「風呂の水を覗き込んで落ちてしまう子猫の動画をこの間見せてもらったよ」
「……どういう意味?」
「さて、取り皿をもってこよう」
なんだか失礼なことを言われた気がするのだが、みかのうろんげな視線などどこ吹く風のように宗はさっさと動き回っている。そもそも、人に尽くしたりなにかしてあげるのが大好きな人だったりする。逆になにかしてもらうのも当然みたいに思っているから、塩梅が難しいけれど、一緒にいるとそのへんはわりとわかりやすい。つまり、彼がやりたいようにさせてあげればいい。顔を見ればどうしたいのかおおむねわかる。
きれいなフルーツの描かれた金縁の皿を差し出される。朝からティーカップもお皿もしっかり高価そうなものを使われて、さてみかが一人暮らししていた時の食器を思い出すとあまりの落差にくらくらしてしまう。一度彼が部屋に訪れた際に訝しそうな顔で食器類を見つめていたけれどそのときはそれどころじゃなかったので口を出されることはなかった。ぜんぶ百均で適当に買いそろえた、なんて言ったら卒倒されそうなのでみかも黙っていたのだった。
「パン?」
ほかほかと湯気を立てているグラタン皿を覗き込む。少しばかり冷めただろうか、だがまだまだ熱そうだ。宗が大きなスプーンで取り分けてくれた。
「パンプディング」
「んあ、おいしそう」
いただきます、と手をあわせると、宗もおなじようにした。けれど彼は自分のフォークには手をつけず、のんびりカップにはいった少し冷めてしまった紅茶を味わっているようだった。
「クロワッサンやないの、珍しいなぁ」
みかはさっそくフォークをつかい一口分すくいあげてみる。ぷるん、と固まった表面と小さくカットされたパンのはしがのぞいていた。スプーンの方が食べやすいかも、と思ったのであとでとりにいこう。プリンかも、と思ったのはキャラメルの匂いのせいだろうか。
「仕込むのに時間がかかるからね」
彼は澄ました顔でカップを置いた。朝はさほど食べない人だから、わざわざパンプディングなんて見慣れないものを作ったのは、もしかして自分のためだろうか、とみかはそこでようやく思い至る。
口にいれるとまだ熱くて、はふ、と舌が逃げた。
「んん……あまい。おいひい」
「熱いから火傷しないように」
「はひぃ……んふ、プリンみたい、おれ、プリンすき」
「君が食べたいというから」
「んん?」
口の中の塊を飲み込んで、みかは彼を見た。宗は自分の分のパンプディングにようやくフォークをつけたところだった。
「プリンがたべたい、なんて、夜にいうから――日本じゃないんだから、夜も朝もコンビニはやっていないのだよ」
「んふ、知っとるよぉ……ん? おれ、ほんなこと言うたっけ?」
はて、と首をかしげてしまう。宗は自分の分の一口をしっかり咀嚼し飲み込んでから、フォークを置いて、なぜかぎろりとこちらを睨んだ。えっ、なんでか怒ってる? さっきまであんなにご機嫌だったのに。
「……君はどうしてそう鳥頭なのだね」
「えっあっ、えーっと? 昨日?」
みかはあわてて昨日の会話を思い出そうと試みた。そもそも昨日、昨日はたしか、宗が夜遅くに帰ってきたのだ。大学の発表会のあと、レセプションがあって、そのあとつきあいで食事にも顔をだしたと説明された。みかは、発表ってこんなに遅くなるのかと心配だったり不満だったりでまんじりともせずソファに座って待っていたので、それを聞いて、そう、ちょっと怒ったのだ。
なんで連絡もくれへんの、と。宗は、忙しかったから! と強い口調で答えて、喧嘩にはならなかったがまあ、なんとなく甘やかな雰囲気とはいかなかった。それで、それで?
みかの察しの悪さにいら立ちが募ったのか、宗は紅茶をもう一口飲んで、少しだけ音を立ててソーサーに置いた。
「君が、つまらないことで拗ねていたじゃないか」
「つまらんって……スマホあるんやから連絡くらいくれたらええのに!」
「仕方ないだろう、忘れていたのだから」
「おれのこと忘れとったのん」
「ちがう! スマホをもっていたことを――忘れていたのだよ」
むう、とそこだけはきまり悪そうに答える宗を見ながら、みかはけれどそこまで怒ってはいない。昨日このあたりのやり取りはもうひととおりこなしているので、むしろその先を、今思い出した。
「あ」
みかが口を間抜けに開けたところで宗が眉を顰めて追撃をかけてくる。
「ようやく思い出したかね? 君はこういったのだよ。『デザート食べないで待ってたのに。こっちはコンビニもないからプリンも買いにいけへんっちゅうのに!』だったかね? どういう理屈かしらないけれど、とにかく、君はそんなことを言っていた」
「……んん」
たしかに言った。気がする。なんだかおもしろくなかったのだ。みかはこんなに帰って来るのを待っていたのに。ごはんの時間になっても帰ってこないから、外で済ませているのだろうかとか。それならあとで一緒にお茶にしようかなとか。そわそわ、待っていたのだ。貰ったクッキーくらいはあったけれどあんまりおそい時間だとそういう気分にもなれないし、でも、でも。アイスとかプリンとか、夜に映画を見ながらだらだら食べるっていう楽しみも、あるじゃないか――いやこのひとはあまりないかもしれないけど。
などと、みかはとっちらかった頭で考えた。宗の方は、むすっとした調子で続ける。
「だから、せめて朝に君が食べたかったものを準備してあげようと思ったのだよ。それなのに君ときたらすっかりどうでもよくなっている」
「えーっと……おれのご機嫌とろうとしたのん?」
唖然としながらそう尋ねると、宗は「そうだよ! わるいかね!?」となぜか食って掛かってきた。
「恋人の機嫌をとろうとするのは当然じゃないかね? うん?」
「えっ……なんでおれが怒られとるのん」
「君があまりにもロマンスに欠けているからだよ」
「ええー? おれが悪かったっけ……」
もしょもしょ呟きながらごまかすようにフォークでプディングをつつく。少し冷えて固まってきた部分をそうっとすくって、ほろりとはしっこが崩れた。やっぱりスプーンの方がいい。
(なんであんなにご機嫌だったんやろって思ったけど)
砂糖と卵のたっぷりしみこんだパンをかみしめながら、みかは想像する。もしかして、朝起きてきて、みかが驚いて、喜んでくれることを期待して、ご機嫌だったのだろうか。
ちらりと相手を伺えば、彼はまだちょっと不機嫌そうな顔で「なにかね」と睨みつけてきた。うーん、わかりにくい。
「んふ……お師さん、かわええとこあるよなぁ」
「はあぁ?」
などと宗が大きな声をだすけれど、みかはにっこり笑って残りのプディングをすくいあげた。なんともあまったるい朝のことである。
おしまい!
ありがとうございました!!