手首を掴む手は強い。きっと振りほどくことは出来ない。
なにより、雪華を見つめる瞳が物語っていた。じっと、見つめられている。それは獰猛ではないけれども狙いを定める鳥のようなもので。
「……か、しこまりました」
断ることはできなかった。
雪華の声に掴んでいた手はゆっくりと離れていく。今更だが、目の前の子供の手は冷たかった。すり、と掴まれていない手の方で手首を擦る。跡はない。
随分と器用なものだ、と嘲笑混じりの声がでそうであったがなんとか止めた。もしかしたら雪華が思っていたよりも力は強くなく、恐れを感じたばかりか過剰にでもなっていたかもしれなかったからだ。もしそうであるなら、相手は悪くない。
そういえば、と雪華は顔を上げ、相手を見た。
名を聞いていない。
子供と形容すべきかどうか今一度考えて、流石に失礼であろうと改めた。以後は彼と呼ぼう。
彼の姿に見覚えがない。
雪華の先祖は公家である。上級官人の家庭ということで血縁のものは多い。京都に属していたとはいえ、全国各地に親戚と呼ばれるものはいた。ならば見覚えがなくても仕方がない。ここで名を聞いても何ら可笑しくもない。だが、なんとなく聞くのは憚られた。
棋譜を見上げる彼の姿を邪魔してはならない。そう必然的に思ってしまったからだ。
まるで美しい絵画を汚してしまうことと同じように、声を上げることが悪い事だと脳が直感的にそう告げている。だといえど、名前を知らぬままということも失礼にあたる。
雪華はまあいいか、と考えを放棄した。
どうせ彼の気紛れに付き合わされているだけだ。ここで適当に過ごしていれば興味は薄れ、解放してくれる。何ならこうして正当な理由でお手伝いを休めるのなら、感謝せねばなるまい。
何をしろとはいわれていないが、勝手に行動をして彼の癪に障るのは御免こうむる。雪華は静かに畳の上に座り、膝を正した。
そうして何もするわけはなく、彼が棋譜を探し、見詰めているのを観察していた。観察しているのなら、気づいてしまった彼と目が合ってしまうことは仕方がない。
不味いな、と目を伏せる。現当主である雪華の叔父は目が合った途端に舌打ちをしてくる輩である。この家では当主の言うことは絶対。機嫌を損ねぬよう目は合わせぬように躾られた。
「ねえ」
驚いた。彼が雪華に話をかけた。
「はい」
話しかけられたのなら目を見て話す。伏せていた目を向け、雪華は背筋を伸ばした。
「どうして、なんもしいひんの」
それはきっと、正しいのだろう。雪華は何も表情を変えず、そう問う彼が比較的普通と呼ばれる場所で生きているということを理解した。
こうなった時、どう返せば良いのだろうか。
この家にとって、先程の雪華の態度は正しい。だからこそ、普通をまだよくわからない雪華はどう返せば良いか悩んだ。
「好きにしとっていいのに」
「かしこまりました」
雪華はまた間違わぬように小さく頭を下げてから、立ち上がる。少し痺れていたがよろけもしないのに、慣れが見れた。
この部屋は元々、今は亡き祖父の書斎であった。多趣味であった祖父は子孫にたくさんのものを残している。そのひとつが、この部屋だった。叔父は書斎には近づかない。叔父と顔を合わせたくないのなら、この部屋に逃げ込むことが雪華にとっての定石だった。
彼が目を向ける本棚とは真反対方向の棚を向き、一冊の文庫本を取った。雪華の年齢には合わない内容であるが、辞書だって置かれている書斎である。読めないことはなかった。
ぺらりと最初の一頁目を捲った時。
「名前は」
またしても相手から問われた。
「雪華です」
けろりと躊躇いもなく答える雪華に、彼も口を動かした。そうや、と。
「僕は宗谷冬司」
「わかりました」
宗谷様。
早速間違えたな、とすぐさま思った。
目を見開いて己を見る。宗谷は一分にも満たない間、雪華を見てから、すうと目を離した。
何も言われないことから安堵と、驚きがある。ただ、その後何もいわれることはなかったからか問いようもない。
途中から宗谷が出した将棋盤に指される駒の音と、頁を捲る音、そして二人の息遣いだけがその部屋を占拠し、ただ穏やかに時間だけが過ぎていくのみであった。
忘年会は恙無く終わり、途中から抜け出したというのにお咎めも何もなく、無事に年を越すことが出来た。雪化粧に染った庭を見ながら、時間でも巻き戻ったのかというような、廊下まで響く笑い声に雪華は皺を寄せた。不満の表れである。
新年会。
忘年会をつい最近行ったばかりだというのに、などと愚痴をいっていたのは誰だったか。的を得ているなとこっそりと肯定したことだけを覚えている。
だがやはりそれを思ったのは親戚の中にでもいるらしい。忘年会よりも参加している人数は少ない。それでも大きな笑い声は変わらなかった。
「おば様、運び終わりました」
公家の頃から受け継いできた家はとても大きい。それと比例して厨房もとても広かった。あくせくと料理を作る人混みの中から白髪が多い気の優しそうな老婆に雪華は声をかけた。
「嗚呼、雪華さん。おおきに、少し休んどってええからな」
おば様は実際雪華にとっての叔母である。当主である叔父に大阪から嫁いできたという。家事が得意で料理がどんなものでもお店で出せるくらいには美味しい。
一人娘だということで叔父に睨まれた時、泣いてくれたのがこの人である。泣いて、泣いて、謝って。何で泣いているのか、なぜ謝っていくのか、当時も今よくわかっていないけれど、叔母という立場は叔父に強く出れないということは知っている。
だから本来、叔母は今で料理を食べ酒を飲める。だがそれでも、こうやって厨房に経つのはきっと意味があるのだろう。その意味は雪華にはまだわからないけれど、いつかわかってしまうのがこの家の歪さを表している。
「そういえば」
雪華は先程までいた宴会の場を思い返した。いたらすぐさま視界に入るだろう白さがいなかった。そこまで詳しくは探していないから確証はないが。
「宗谷様はお休みでございましょうか」
「そうや?」
叔母は雪華の言った人名にぱっと思いつかなかったらしい。首を傾げていると皿を洗っていた一人が「将棋の方では……?」と聞き、思い出した。
「ええ。今年度は新年会は見送ると」
「そう、ですか」
予想はついていた。
ああも、大人たちにからかわれ、言われ続けていたのだ。来る意欲など地の底であろうし、きっとこれからも来ることもないのであろう。
心の中にもやりと影が生まれた。
初めての感覚に雪華は疑念が浮かぶ。
もしかしたら年は離れているとはいえ、仲良くはなった彼と会えないことで寂しいのだろうか。
そんなこと、思ったことがないのに。
もやもやをどうにか打ち消そうと奮闘している雪華に叔母はくすりと笑った。もしや顔にでも出ていたのか。くすくすと笑う叔母はそのあと自室に行き、京紫の風呂敷で包まれた荷物と臙脂色のがま口財布を持たせた。
「雪華さん。急でっけどお使いにいってもうてもええか。電車をつこうて三十分かかれへん場所ですから」
にこやかな叔母に雪華は意図が取れた。寂しがっているから会わせようとしているのだ。その気遣いが気恥ずかしくて、頬に熱がいったのがわかる。
「はい」
だがこのご厚意を無下にするのは遠慮などできない。
地図と電車賃の入ったがま口財布が「落とせへんように」と紐が着けられ、首からかけた。着物から着替える時間も惜しかった為、羽織を来てから雪華は家を後にした。
息が詰まったような感覚が己から抜け、やっぱりあの家は酸素が薄いと改めて思い知らされた。
電車に乗るのは、何も初めてではない。だがやはり正月だからか人が多く、銀閣寺の傍にあるといわれた目的地までどれだけの人に揉まれるのか、心が折れかけていたが近づくにつれ、人は捌けていった。
歩いている道の橋には雪が積もり、びゅうと吹く風は寒かったが足は止まらなかった。
静かな場所だ、と思う。
自分の家とは大違いで、雪華はこの静けさが家にも来ればいいのにと、天地がひっくり返っても起きないようなことを考えながら呼び鈴を鳴らした。ぎりぎり届いてよかったと、冷えた指先に息を吹きかけながらそう思う。
家の扉からでたのは、よし乃という方だった。宗谷にとっての祖母だと予め叔母から教えて貰っていた。
「あらあら、こんな寒い日に」
「新年のご挨拶と、これをとおば様から」
包みを渡せばよし乃一度酷く驚いたような顔をした。中に何が入っているかなど雪華に知られてはいない。「とにかく家に入って」と背を押され、半ば強制的に雪華は家にお邪魔した。
自分の家よりかは小さいが、祖父と祖母と宗谷だけで住んでいるとならば広すぎるそこは、やはり中もしいんと静まっていて雪華は羨んだ。
「鼻も手も真っ赤ね、ほらおこたに入って。暖まったらええ。善哉だしたる」
「いえ、お気になさらず」
「子供が遠慮しいひんの!」
居間に押されるように入れられると、そこはもう違う国なのではないかと思うほど暖かい空間であった。
そこには雪華が探していた人物ももちろんいた。炬燵に入って本を捲りながら一人で将棋を指している宗谷は手を止め、雪華を凝視している。
「なんか用でもあった?」
宗谷は本に栞を入れ、雪華と目を合わせた。それになんとなく、会えないことに寂しいとか思っていた雪華は目を逸らす。単純に恥ずかしいから。
「いえ、お使いを任されまして。渡すだけだったのですか、押されてしまい。中断させてしまい、申し訳ありません」
「ええよ。入らんの?」
宗谷は隣に位置する面の毛布を上げた。雪華はそれにジリジリと近づき、遠慮がちにではあるが足を入れた。冷えていた足先がじーんと響く。顔が微かに綻んだ。
「一人で来たん?」
「はい」
また本を開き、将棋を動かし始めた宗谷は雪華に話をかける。宗谷の持っていた本は詰将棋のもので、本当に将棋が好きなのだな、と雪華は思った。
会話はそこで途切れる。何せ二人とも話を好きとするものではない。ぱちん、と駒の弾かれる音がするだけの中、宗谷と雪華は黙っているだけだった。だけどもそれに気まずいなどと思わず、心地よいとさえ感じ始めた。
「あら随分と黙りねえ。冬司もテレビつけるとかしたらええのに」
「いえそんな。静かな方が好きなので、逆に気を使わせてしまったかと」
「いや、気ぃ使うやなんてこの子にできるわけがあらへん……さ、お食べ」
目の前に置かれた善哉は白い湯気を上げていて、茶碗を手で包むとじんわりと熱が広がった。
汁気の多い善哉は関東ではお汁粉というらしく、粒餡だろうとこし餡だろうとお汁粉で統一される。関西では粒餡を善哉、こし餡をお汁粉という。汁気のない粒餡は亀山だとか区別されるが、宗谷の祖母が作ったのは善哉である。粒あんで小豆色の中に丸餅が浮かんでいた。
橋で餅をすくうと結構伸びた。砂糖の量は少なめなのだろうか。上品な甘みである餡子はとても美味しかった。
「雪華ちゃんは美味しそうに食べるなあ。そない顔してくれるなら作った甲斐が有るっちゅうものやで」
胸を張ってくれたよし乃に頬張っていた雪華はこくこくと頷く。もくもくと食べてはいるが雪華の目はキラキラとしており、表情には出ていないがとても美味しそうに食べていた。
ぴんぽーん、とチャイムが響く。
「珍しい。またお客さんかいな」
居間からでたよし乃を目だけで見送り、善哉を食べることに集中する。黙々と食べる人と将棋を指す人。それを破ったのは以外に宗谷である。
「美味しい?」
飲み込めていない雪華は頷いた。それを見て宗谷は嬉しそうに口角を上げる。表情が明らかに動くのを見た雪華は少し驚いた。
「あんときは、ありがとう」
最初、そうやが何に指してそう感謝しているのかはわからなかった。だがそれはあの宴会場から抜け出したことについてとはすぐに気づき、雪華はようやっと餅を飲み込む。
「感謝されるほどでもないです。引導を渡しただけですし」
「それでも」
ぱちり、と駒が置かれる音がする。それは玉を詰ます一手だった。
「我儘もいったし、迷惑やったんとちがうか思て」
思っていたよりも素直な人だと雪華は感じた。将棋盤に向けられていた視線は雪華を向く。それが真っ直ぐで目を逸らしたいのに逸らせない何かがある。
言葉が詰まる。
「なんか、お礼したいと考えたけど浮かばへんかった」
「なら」
雪華は息を飲む。どこか苦しげに、言葉を紡ぎ音にした。ぎゅう、と毛布を掴んでいる手に力が入る。
「時たまですが、ここに来てもよろしいでしょうか」
宗谷はその言葉は想定外だったらしくぱちくりとさせた。
「そんなんでええの?」
そんなん。
人が我が物顔で蔓延らず、怒鳴り声もなく、咎められることもない。
これが雪華にとってはそんなんどころではないのだ。
「はい」
きっかりと告げる雪華に宗谷は頷いた。
「お祖母さんにはいっておく。やから、好きな時に来て」
「……はい」
その後はまた、静かな時間が続くだけであった。駒を指すものと食べるもの。
気まづさなど微塵もなく、よし乃が来るまで穏やかな静けさはゆるやかに続いていく。