ここで聞くには場違いな単語だが、その瞬間、楓の脳内で警報が鳴る。この流れは、それは、
「古谷さんの名前で、乳がん、悪性腫瘍の」
 悪性腫瘍!
 まず、それであれば遺体の正体が解る、と思った。
 しかし、それはミスリードではないか、と返しが来る。楓はすぐさまいくつかの可能性を検討し、何れにせよ、利昭の確保が最優先であることに変わりがないことを確認した。
「分かりやすいストーリィを用意しましたね、古谷にしては」
 と、不意に、静かな声が。はっと振り向けば、深町の横顔があった。研ぎ澄まされた森のような碧さで。
「……ですね」
 楓もゆっくりと深呼吸する。そして、再度、部屋を注意深く見渡した。バスケットボール以外に、何か遺したものがあるはずだ。必ず。
「申し訳ない、すぐに一昨日の夜から今朝までの、実験場への出入りのチェックを。古谷のIDが使われているはずです。監視カメラは、微妙なところですが」
 彼女であれば、死角を採って個体識別が出来ないようにしているだろうが、それでもやらないよりましだ。楓の指示に、急報を持ってきたスタッフが気圧されて頷くと、とって返した。楓の意図に気づいた深町は、ボール以外の何かを探して、デスクの方に近付いた。
 そこで深町は立ち止まり、周囲を見渡す。不自然な間に、楓もそちらに寄った。
「どうされました?」
「ここは、本当に古谷の机なんですか?」
 珍しく不安定な物言いだ。何か異常が、少なくとも深町の琴線に触れる違和感があるのだ。何だ?
「えっ、はい、古谷さんのデスクです」
「なにか、気になることが?」
 加納の応えに被せるように楓が質問すると、深町はちらりとこちらを見た。鋭い、射貫くような視線が。
「マウスが左側にあります。古谷は右利きでした、書道部ですから」
 !
 彼女の利き手、はどちらだった?
 楓の記憶は曖昧だ。通常右利きの人間が、マウスを左で使うことはまずない。ただ、書道に於いては左利きには圧倒的に不利である。左利きの人間が、毛筆のときだけは右利きに矯正される、右利きを覚えることはよくある話だ。左腕の柳澤も赤谷も、習字の時間だけは右利きでやった、と昔話をしていた記憶がある。古谷も同様に利き手とは逆の手で……書道部の部長を務めるだけの技量があったと?
 どちらであっても、この違和感にすぐ気付くのは、高校時代を知っている深町ならではだろう。
 古谷は、近々に深町に会おうとしていたのだ。
 そして、楓にも。これは公開講座の話があったからだとして、そのタイミングで深町に声を掛けたとしたらどうだろう。この部屋に深町が来ることを予測し、”あのとき”のボールを持ち出した。不自然が二つも続けば意図だ。
 一年半の間に作られた”存在証明”は、電子データとしてばらまかれ、すり込まれている。古谷(かのじょ)の本体は、いつの間にか電子データになっていた。
 のであれば。
「たぶん、診断書はもう一枚出ます。古谷忍さんの名前で」
「えっ?」
 加納が問い返す。
「どういう、ことですか。二人とも同じ乳がんやいうことは」
「それはないだろう。でも、罹患している”古谷”がそれぞれの保険証で受診すれば、同じ診断書が出来る」
 はっ、と深町が息を呑む。
「発見されたご遺体には……病巣があるはずです。ただそれでも診断書が二枚あれば、古谷か忍さんかは特定できない」
 おそらく。
 ここから検出される指紋の一つと、遺体の指紋も一致する。ただ、それは古谷の実家でも採取されているはずだ。しかも、居住者しか触らないような場所から出る。
 それであっても、二人のどちらかなのかは分からない。
「昨日見た忍さんは……顔はよく見えませんでしたが、小柄なところは古谷と同じでした。年の近い姉妹であれば、体格も体型も似ている可能性は高い。そして血液型まで同じならなおいい」
「……入れ替わっていた、ということですか?」
 さすがに理解が早い。深町の問いに、楓は少し考えて首を振った。
「入れ替わり、よりは、むしろ統合でしょう」
「とうごう?」
「二人が”古谷真”を演じて、いや、つくっていた」
 ヒトは、何処までヒトなのか。
「Web会議に参加していた”古谷真"が、古谷本人か、忍さんかは特定できない。カメラは……嘘を吐きますからね。アーカイブに声が残っていたとしても、声も偽装が出来る。メールやチャットならなお簡単だ。たとえば、ここに出勤するのは忍さんで、業務を行うのはネットワークの向こうの古谷だった、という事もありうる」
 可能なのだ、あのやり方であれば。
「異動前からの同僚や、我々のような昔の知り合いを誤魔化すのは難しいかもしれないが、リアルでの接触を極端に減らした今の”古谷真”であれば、他人をアバターとして置いても偽装できる」
 そして、それは少しずつ、ゆっくりと均す時間もあったのだ。1,2時間から初めて、1日、数日、1週間。さすがに専門的な業務では無理でも、そこはWebやリモートでの参加に切り替えればいい。
 新たな人間関係は極力排除し、リアルでの接触を断ち、ネット上(仮想現実)に現れる”古谷真”こそが本人だと。
「たまに、雪かきやリアルの集まりには本人が顔を出す。それで職場の人間の記憶は上書きできる。いつもの”古谷真”として、皆の記憶は更新される」
 時間をかけて、二人分の痕跡をこの部屋に残す。ネット上の”古谷真”の情報を蓄積する。
「人工知能、は、自ら問いを作るようなことはしない。膨大な情報をインプットし、必要な判断のルートとループを作ればいいだけだ。たとえばバスケットボール」
 楓は深町が手にしたボールを指差す。かつて、彼女が彼の首を模して作った、レプリカント。
「丸い、重い、冷たい、弾む、は、ボールが持っている性質で、現実世界では共通だ。そこに、母校の備品である、20年以上前のもの、当時の文化祭で使用したもの、という個体の情報を追加で入力すると、特定の物体に。更には、大変だった、弾みすぎた、おかしかった……ある特定の個人の記憶で補完して、ようやく思い出のボールがカタチになる。その膨大な繰り返しによって、AIが」
 楓はゆっくりと目線を上げ、深町の黒い瞳を見た。
「古谷真のコピーを作る」
 ヒトひとりを再現するには、膨大な情報のインプット、と、膨大な反射の学習。
 ただ、現代に於いては情報の入力はすこぶる簡単になっている。あとは学習だ。ありとあらゆる選択肢を、特定の個人のカタチに錬成していく。意図して、作ろうとおもえば。時間と根気と、彼女の能力があれば或いは。
「それは、何のために? 彼女であれば好奇心だけでもやる。それは解ります。ただ、この計画にはお姉さんの協力が不可欠だ。そこまでして、」
 深町の目の色が陰っていく。
 ふたりで、世界を欺くのは何故か?
「今の情報だと、本当に乳がんを罹患していたのがどちらかは特定出来ない。古谷の、真の可能性が高いと思いますが、いずれにせよ、この方法を採ると記録上、どちらかが死ななくてもいい。二人とも死亡しないままでいられる。二人分の居住権、戸籍、来歴、身分、財産権を失わないで”使える”」
 楓もそこまで詳しくないが、遺体の身元が特定出来なければ、二人は行方不明扱いだ。失踪者は何年か経つと死亡宣告が出されるはずだが、それも最も身近な血縁者であるお互いが申請しなければ、恐らくそのままだ。つまり、
「生き残った方が、ここ、現実(リアル)から逃げられる」
 何から、逃げていたのかは、
 深町の眉間の皺が深くなる。何を傷付けて、何を失っても、捨てたかった何か。彼女が、どうしても成し遂げたかったのは。
 楓はゆっくりと息を吸う。喉がカラカラだったが、本題はむしろここからだった。
「しかし、彼女は失踪、いや”消失”の直前、私と、深町さんに連絡を取った。今回の事故がこの計画と関連しているかどうかは……わかりませんが」
 恐らく無関係なのではないかと、楓は考えている。彼女は何よりもまず研究者だ。他人の、いや、自分たちの研究の邪魔をするようなことはしない。
「我々に、何か遺している可能性があります。そのバスケットボールのように」
 だから。
 ふっ、と深町の目の色が変わった。これは楓も見たことがある。すべてを掛けて挑む者の眼だ。
「なるほど、俺達であれば見つけられるもの、ですね」
 彼女は自分がいなくなった場合、自分と深町であれば、自分を探しに来ると予測していたはずだ。楓はもう一度、デスク周りを中心にすべてのモノをスキャンする。ボールが深町宛のキーだとすれば、自分宛のキーは、
「あっ」
 声が先に出た。深町と加納が楓の視線を追う。楓は壁に貼られたスーパーカミオカンデの写真を額ごと外す。
「先生が撮ったやつですか?」
「ああ」
 加納の質問に応えつつ、額を改めて見れば、ホコリや汚れがない。ビンゴだな、と口の中で呟く。
 裏に向けて留め具を外す。板や台紙を外すと、写真の裏にQRコードが印字されていた。
「これ!」
 加納に応えるのももどかしく、楓はポケットからスマホを取り出した。撮影して現れたアドレスをクリックすると、ネットのクラウド上にあるフォルダであることがわかる。
「……猫?」
 深町が呟く。フォルダ名がCat、ということは……と楓は改めてデスクと向かい合う。PCの主電源を入れる。おそらく、その準備はされているはずだ。
 立ち上げていくらか操作すると、件のクラウドに接続する。Catのフォルダにはパスワードが掛かっている。
「わかりますか?」
「おそらく」
 と、楓は頷くと、”Schrödinger”と入力する。隣で深町が「なるほど、シュレーディンガーの猫か」と囁いた。
 しかし、エンターキーを押してもNGが出る。ん、と唸ってから、楓は深町に尋ねる。
「文字だけだとダメでしょうね、数字か。深町さん、思い当たる数字は? たぶん次はあなたの番だ」
 二人に遺したメッセージであるならば。
 そうですね、と深町はすこし考えると、
「7978、か、7879を」
 ひとつずつ打ち込む、が、どちらもNGだ。
「単純すぎたか。では、6162を」
「……乗算ですか?」
「さすがに速いですね。78-79、3年夏のインハイ緒戦敗退時のスコアです」
 思わず溜息を吐くところだった。なるほど、ずいぶんと厳しいパスワードだ。楓が苦笑しながら数値を打てば、
「開いた!」
 なかにある、の、は、黒い猫のアイコンと、白い猫のアイコンだった。
 一瞬、迷ってから、楓は黒猫のアイコンをダブルクリックする。
 と、ブウン、と低い音と共に、別のマシンの起動音がする。正面のモニタ以外にも、ふっと電源が入る。画面一杯に開いたウィンドに、黒いバックに白い"MAKOTO"の文字が出る。
 はっとする三人の前で、画面は切り替わる。
 白い顔と、黒く短い髪と、赤い唇、猫のような瞳の。
「ふるや!」
「やあ、山科、久しぶりだね」
 モニタの向こうに映る彼女は、あまりに自然に微笑んだ。
「それに深町と、そっちは……加納君、かな? そうか、山科のところで学生さんだったんだっけ」
 まるで歌うようになぞるその言葉も、鈴が転がるような声も、まるで実物のように。いや、本当に何処か別の場所に居る古谷とネットで繋がっているだけではないか、と疑ったが、楓はそこで気付いた。古谷の背景だ。大小のシェルフ、大きなテーブル、窓のない部屋。
 ”この部屋”だ。
「お、気付いたね。そうだよ、その部屋に居る”私”から再現したアバターだ。好い出来だろう?」
 そういう口調も表情も、何もかも。
 楓はもう一度、深く息を吸い、腹に力を入れた。
「久しぶりだな。それにしても、随分な変わり様だし、あんまりな歓迎セレモニーだな」
 楓の嫌味に、”彼女”はひょいと肩をすくめた。
「悪かったよ。こんなに早く事態が動くとは思わなかった……は嘘だね、そうでもない」
 その言葉に、深町の身体に力が入るのが分かる。ちらりと横目で見れば、酷く鋭いキャプテンの横顔があった。楓は彼を制すように手を上げる。
「古谷、念のために訊くが、一昨日の事故はこの件とは無関係なのか?」
 それには彼女は片眉を上げ、ちらりとこちらを見上げるようにする。昔、よく見た顔だ。本当に……素晴らしい再現度と云っていい。ツクリモノであれば、余計に。
「無関係さ。というか、残念だよ。これで暫く真空燃焼実験が出来ない。ロケット開発のスケジュールに影響が出る。本当に悔しいね」
 その言葉には嘘はないだろう。であれば。
「それなら、偶然なのか?」
「そうだよ。まったくの偶然で……でも、こんな機会は二度とない。少し早いけど、実行することにしたんだ」
 なにを?
「君たちに、会ってから……直接、キーワードのヒントを、と思ってたんだけど、要らなかったね。さすが山科と深町だ」
 ぱちぱちとにこやかに拍手する彼女に、何を言えばいいのだろう。
 彼女に、何をしてやれただろう。
「山科、ちがうよ」
 それは違う、と彼女はやはり微笑んだ。
「君が何をしても、どう答えても、何も変わらなかったよ。どうしようもない……深町、君もだ」
 はっ、と、改めて深町に顔を向ければ、あまりに悲愴な貌が見て取れる。自分も、同じ様な表情をしているのかも知れない。
「どうして、俺達だったんだ?」
 深町の静かな声は、それでもこの空虚な部屋によく響いた。
「……それも偶然だったんだ。時間は、それほど残っていなかったし、どうしてもということもなかったけど。でも、深町がこの街に帰ってくるって聞いて、最後に頼みたいことがあってさ」
 たのみごと?
「じゃあ、俺を呼んだのは」
 という楓の質問を遮って、彼女は嗤った。
「ああ、山科の方はもっと、本当にたまたまだったんだ。でも、それなら余計に、こんなチャンスは二度とないと思った。だから、今しかないと思ったンだよ」
 いましかないと、は。
「……どうして」
 と、深町の二度目の問いに、彼女は少し、困ったような顔をした。
 それでも、やはり歌うように言うのだ。
「山科なら、おそらく最短で僕を見つけてくれる」
 ここに遺された、”古谷真”の欠片。
「そして、深町なら、きっと躊躇わない」
 君たちなら、猫が居ると分かっている箱でも、きっと開けてくれる。
 と、彼女は。
「違うだろ。ふるや、それはちがう」
 今度はそう深町が否定するが、彼女は淡く笑うだけだった。
 部屋のどこかから、ブウン、と更に重い音がする。彼女の分身がゆっくりと瞬きをする。その動作だけは、やけに不自然だった。
「そろそろ時間だ」
 じかん?
「これが最後のタスクだったんだよ。君たちがクラウドにアクセスすると同時に、最後のデータがすべてネットワーク上にアップロードされる。そして、この通信が切れれば、その端末から”僕”の情報が削除される」
 その街から、僕が消える。
「待てよ!」
「待たないよ。それに、その街からは出て行くけれど、僕は何処にでも居るよ」
 ネットワークの海に。
「ひとに……俺達に、後始末させてんじゃねえよ」
「悪かったよ、ほんとに。それでも、君たち以外なら頼まなかった」
 どうして、と。
 三度目の問いを、深町が口にする前に。
「じゃあね。深町、申し訳ないんだけど、松本にごめんねって伝えて」
「……ダメだろ、自分で言えよ」
 そう深町が答えると、彼女はちょっと俯いた。睫毛の影が頬に落ちるのさえ、はっきり分かる。
「あと山科は、そうだな、大家さんにどうぞよろしく」
 そう言って、彼女は華やかに笑って、
 ふっつりと、画面がブラックアウトした。
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北の街_20240310
初公開日: 2024年03月10日
最終更新日: 2024年03月10日
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コメント
そろそろ最終盤
散華_20240831
文学フリマ札幌用 たぶん子どもの頃の物理屋さんが不忍池にハスを見に行く話
都築晶
沢深ワンドロワンライ_残り香
ちょっと出来心で旅先ですが沢深ワンドロワンライ参加しようかと
都築晶
桜の森
満開の桜の森には鬼が棲む
都築晶
兄妹で結婚式する話、35、36話目を書く【解け落ちた氷のその行く末】
タイトル通り。兄妹カップルに結婚式をプレゼントする話です。 結婚式をプレゼントする話→https:/…
ひさぎ