この街はまだ冬の中にいた。
 それでも、ココにだけ春が来ようとしている。
 深津一成が見上げると、縹色の空に刷いたような薄い雲がかかっている。朝からちらついているのは風花か。
 かろく舞い上がる淡い雪をしばし眺める。
 もう、暫く見ることもないだろうから。
 明日の卒業式を控え、山王工業高校三年生のクラスはどこも明らかに浮ついていた。
 就職組ははなから最後の高校生活を満喫するためだけに登校していたし、少数派の受験組はちまちまと問題集をめくってはいるが、どちらにしろ集中出来るものではない。
 それを眺めやる深津は進学組ではあるが、既に推薦で行き先が決まっている身であったし、最初からここでは異分子だった。
 自習の続く授業をほったらかし、ぼんやりと校庭を眺めていたのだが、不意に肩をつつかれた。振り向けばイチノが目顔で教室の入り口を指している。首を伸ばすと、野辺が手招きしていた。はて、何かやらかしが見つかったか、と無言のまま野辺に近付くと、
「リハだってよ」
 とひと言。見れば、廊下の奥、階段の前でゴローが手招いていた。なるほど、と深津もそこでようやく気付く。
 明日に迫った卒業式のリハーサルだった。
 といっても、もう高校生ともなれば、卒業式に時間をかけたりはしない。むしろ、司会の生徒、進行役の教師、送辞・答辞を担当する代表生徒、校歌・国歌を演奏する吹部のための時間であった。ご苦労様だ。
 深津は卒業生がずらりと並ぶはずのエリアのうち、一番前の真ん中から三番目に腰掛けた。といっても、今は椅子も三脚しかない。なんせ、午後からはこの体育館でバスケ部が練習するのだ!
 一番目の椅子には、既に腰掛けている生徒がいる。卒業生代表、前生徒会長の松本稔だ。こちらに視線だけ寄越して、ずっとぶつぶつと呟いている。恐らく答辞を暗誦しているのだろう。原稿を読みながらでも誰も文句は言わないだろうに、真面目な男である。一方、ちょっと外れたところでは同じように真面目な顔でぶつぶつとやっている男子生徒もいて、送辞担当の現生徒会長だった。そろいもそろって人がいい。
 と、まったくの無表情で深津が確認を終えた頃、大きな音と供に入り口が開き「すみませーん、遅れました」という声と、その割にはのんびりとした足音が続く。そうして、足音は深津の隣で止まった。
「やあ、深津、元気?」
「ほどほどピニョン」
 応えると、まだピニョンなんだ、という余計な返事が返ってきた。
「松本は……なんでもない」
 さすがに憐れんだのか、それ以上は何も言わず、小柄な影が深津と吾妻の間の椅子にぽんっと腰掛けた。生徒副会長の古谷である。
 容積で云えば河田の1/2、美紀男であれば2/5くらいしかない古谷は、女子の制服の下にジャージーのズボンをはいていた。いわゆる埴輪ルックである。式典とは?と思わないでもないが、まあこの寒さだ、リハーサルであれば……彼女のことだ、本番でもそのままのような気もするが、そこは深津の管轄外だ。見なかったことにする。
「深津、いま、いらないこと考えてたろう」
「……正解ピニョン」
 素直でよろしい、と言いながら、彼女はもう一度、隣の松本を観察してから深津に視線を戻した。
「そういえば、深津、選手宣誓やったことあるよね? そのときさ、語尾どうしてたの?」
「……プライバシィピニョン、ノーコメントピニョン」
 相変わらず観察力が抜群だ。古谷相手なら最初からシャットアウトに限る。だんまりを決め込む深津の横顔に、ほほうとひとつ頷くと、彼女は、
「あとで河田にどうだったか聞こうかな。いや、松本がいいかな」
 そう言って笑った。
 ……こんな時の、バスケ部レギュラの穴をよく知っている。あとできつく口止めをしておこう、と心に誓っていると、「在校生代表」と声が掛かり、我らが生徒会長は「はい!」と勢いよく立ち上がった。
 二人は彼の背中と、彼が登っていくステージを見た。
 体育館の窓から、淡い光が差し込んでいる。
 部活をやっているときは百人から居る部員で満ちる空間が、随分と余っている。
 寒々しいはずのその風景は、それでも洗われたように美しかった。
「50点かな」
 出し抜けに古谷が言うので、まだ送辞を終えていないのに厳しい点ではないか、とさすがに後輩をフォローしようと顔を向けると、彼女はステージの奥を見ていた。後輩の頭上には、
『平成●年度 卒業式』
 の看板が見える。
「あれね、書道部の部長が書くんだよ」
 そうだったのか、と思うと同時に
「ん? ひょっとして」
「そうそう、去年はね、僕が書いたンだ」
 古谷は書道部の前部長でもある。
「木村、几帳面なんだけどさ、勢いが足りないんだよね。ああいいう大看板は思い切りがキモなんだけどなあ」
 それで50点……と、反芻しつつ、まあ彼女からすると、多くの人間はだいたい勢いが足りないだろう。どうやって応えたものか、と深津が珍しく悩んでいると、彼女が笑った気配がした。
「そういえば、年末はありがとう」
 何の話か、は、すぐ分かったので。
「どういたしまして。ピニョン」
 とだけ、深津は応えた。
 冬の選抜、代々木の体育館で行われる全国大会では、校名入りのプラカードを先頭に入場行進が行われる。そこで使うプラカードに校名を入れるのが、歴代の書道部部長の最後の仕事だという。
 インハイでの緒戦敗退後、内外からは心ない罵声が浴びせられ、腫れ物に触るような扱いを受けた。それこそ、松本などは随分と気に病んでいたのだが、深津は平然として過ごしていた。
 つもりだった。
 それなのに、何処か集中出来ていなかった。おそらく、本人でさえも無意識に。そこで、
  深津、君は勝つ気があるのか?
 と古谷に訊かれたのだ。そして、
  やる気がないなら止めちまいなよ。
  それが嫌なら、これから秋も冬も全部勝って、僕の花道を飾りたまえ。
 と、言われたのだ。
 傲慢な山王の女帝からのご下命だった。
 そうして今、深津はここに居る。
 秋の国体、続く冬の選抜。全部勝って日本一の座を奪還し、最強山王の面目躍如であった。そのため、籠球部前部長として特別表彰を受けるのだ。当然、選抜の開会式は古谷の書いた孔明のプラカードをマネージャが持って入場した。女帝もご満悦であった。
 なお、ちゃんとアメリカには”Veni, vidi, vici”と書いたハガキを出したのだが、その前に結果を知った(おそらくテツさん経由であろう)沢北からは「どうしてすぐ知らせてくれないんですか!」と泣きながら電話が掛かってきた。台無しである。
「ん? てか、その君の年下彼氏はどうしたの? 卒業式くらい戻ってこないの?」
「……明日の午前の便で戻って来るピニョン」
「ああ、って、遅くない? 式は間に合わないでしょ……ん? ひょっとして、」
 深津はそこで彼女の顔の前に手を出した。皆まで言わせるのは気が引けた。
「あいつ、時差を忘れてたピニョン」
「マジで!! さすが!」
 褒めてない。まったく褒めてない。
 なお、大笑いする古谷を他所に(正直、松本をはじめ、皆、よく我慢していると思う)粛々とリハーサルは進んでいる。「卒業生代表、松本稔」の声に、我らが冬のエースも、いい声で返事をすると立ち上がった。
 ピンと伸びた背中が、やはり嬉しかった。
「まあ、らしいっちゃらしいか。あっちでは元気でやってるのかい?」
「よく泣き言の電話はかかってくるピニョン」
 と答えれば、もうお母さんじゃん、とまた遠慮なしの突っ込みが返ってくる。余計なお世話であった。
「もうすぐ君らも引っ越しでしょ? 大丈夫なの?」
「……俺も河田も寮暮らしピニョン、もうそんなに頼られても困るピニョン」
 そうか、あっちでもそうなんだ、と古谷は呟いた。深津と河田は、それぞれ首都圏の別の大学でバスケを続ける予定だ。そして、
「場所どこだっけ? 駒場と近い?」
 古谷は先日、T大理学部を受験している。おそらく手応えがあったのだろう、合格は間違いないらしい。古谷はおそらく三年間の定期考査のうち、半分は学年首位だったはずだ。全国模試でも上位の常連である。山王工高始まって以来の才媛、なのだが、そうは云われていない。中身が中身だからだろう。
 まあ、そのため成績優秀者として表彰を受けるので、ここに居るのだ。
「……分からないピニョン、東京の路線図は謎すぎるピニョン」
「まあね、あれ蜘蛛の巣というより迷宮だよね、線路が立体って何? なんでひとつの駅に路線がみっつもあるの?」
 まったくだ。
 深津も何度か東京には赴いているし、卒業式が終わればすぐに入寮なのだが、まったく馴染める気がしなかった。
 と、
「松本、最後、乾坤一擲じゃなくて、捲土重来のほうがいい」
 古谷の声が響く。
「なんだよ古谷、ずっと深津と喋ってんのに、なんで聞いてんだよ!」
 松本がせっかくの二枚目を崩して泣き言を言う。まあ気持ちはわかる。というか、さすがとしか言い様がない。深津はちなみにさっぱり聞いていなかった。
 明日の本番では必ず聞くから、と心の中で謝った。
「うーん、でもなんか東京で深津と会うとか、イマイチだなあ」
 似合わないよ、とどうしようもないことを云う。まあ諸手を挙げて賛成だが。
 ただ、彼女も、自分も、この街に残ることは有り得なかった。きっと。
「どうせならさ、アメリカで会おうよ」
「は? アメリカで……ピニョン?」
 そう、と彼女は頷く。
「きっと沢北くんなら、ちゃんと進学しても続けて、試合も出るでしょ。私もいつかは留学しなきゃだからさ」
 ちなみに、古谷は宇宙開発ロケットの打ち上げを目指し、宇宙物理を専攻する予定だという。だから宇宙開発の先駆者たる米国留学は欠かせない、らしい。まあNASAとか行きたいよね、とのことだ。
「そんで、深津と一緒にあの子の試合見てさ、張り切るだろうからMVPとか取るんだよ。で、ヒーローインタビューとかで、ってバスケでもある?ヒロイン、よかった。でね、そのときに”この喜びを伝えたいのは?”って聞かれたら、”高校の先輩の深津さんです!”って答えるでしょう、あの子なら。そこでカメラがパンされて君が映って、隣りに私が居たら、あの子ゼッタイ、私の顔なんか覚えてないだろうから、”深津さん、誰ですか彼の女の人!”とか騒ぐよきっと」
 無駄に人騒がせなやつである。
 しかしその光景がまざまざと思い浮かんだ。彼はゼッタイ泣きながら抗議するに違いない。「ぜったい一緒に行かないピニョン」とお断りしたところで、深津が呼ばれた。返事をして立ち上がる。
 いつもと違う顔の体育館は、酷く眩しかった。
 ゆっくりと、閉じていく。
 閃光のように一瞬で過ぎ去った高校時代の、その最後の時に。
 つつがなく(あれを問題なしといえるのならば)、リハーサルは終了した(進行役の教務主任の先生とゴローには激しく申し訳ないとは思ったが)。
 教室に戻ろうと見れば、松本と古谷が答辞の原稿をチェックしていた。古谷も何だかんだ言いつつ付き合いがいい。松本とはどうせあとで会うし、と暇を告げると、二人が顔を上げ、
「おう、またあとでな」
 と松本が言うと、
「うん、じゃあまた明日」
 と古谷も応える。ああそれと、と彼女はちいさく微笑むと、
 君の大事なワンコくんにどうぞよろしく、と。
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山王の卒業
初公開日: 2024年03月02日
最終更新日: 2024年03月02日
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ある工業高校、卒業式のリハーサルなう