――握られた2Bの鉛筆の先からキラキラと光の軌跡が現れて、文字になっているような気がした。
その文字が拙くも楽しそうな形をして文となり、使い込まれた自由帳にふわふわと見たこともない素晴らしい世界が広がっていく。
「わあ……! すごいすごい、今日のお話も面白いよ!」
「そうか? へへ、今日は朝すごく面白い夢見てさ、それを元にして……」
そんな風に活き活きと物語の創作過程を話す綴くんの姿はあの光の軌跡よりも輝いていて、僕はそれを一番近くで見るのが幸せだった。
春のエネルギーの結晶のような若草色の瞳が、自分には決して見えない世界を見つめている時の浮世離れした空気に、憧れと、ほんの少しの寂しさを覚えた。
僕が決して共有出来ない世界に居る綴くんは――本当にカッコ良かったから。目の前にいるのに手を伸ばしても届かないと、錯覚するくらいに。
でも、いつだって綴くんは、そんな臆病で足の竦んでしまう僕に手を伸ばしてくれた。
「水野! 一緒に行こう!」
綴くんの屈託ない笑顔に、何度励まされたか分からない。その手を取れば、いつも温かで幸せな世界に連れて行ってくれた。物語でも、現実でも。
……けれど、そんな綴くんの手を振り払ったのは、僕だ。
母親に言われたから、なんてただの言い訳だ。
本当に嫌だったら、本当に綴くんを選びたかったら、家出だってなんだって、手段はあったはずなのに。
僕は選ばなかった。だから――もう綴くんとは友達でいられない。だからもう二度と……あの手を取りたいと、思ってはいけない。いけないのだ。
○
「あ、水野。それ貸して」
「えっ? あ、うわあああ!?」
「え、あ、悪い。間違えて手ぇ握った」
綴くんは、私が持っていた布巾を取ろうと手を伸ばし、私の手ごとギュッと握った。
予想以上に大きな掌が私の拳を包み込み、私は驚きと衝撃で心臓が天まで跳ねていくかと思った。
「悪い悪い。コーヒーちょっと零しちゃってさ」
「そそそ、そんなの私が拭きますからどうかつじゅ、つぢゅ、つづりゅく、綴くんはすわっ、座って……!」
「そんなに動揺するなよー。俺が零したんだし、自分で拭くよ」
困ったように笑う綴くんの笑顔は優しく、鼓動がロケットの発射音並に打ち上がっている今の私には太陽の如き眩さだった。
「いやでもそんな綴くんに机を拭かせるような雑用を……!!」
「いやいや、家でも寮でも毎日やってるから。つか、それ言うなら水野にこそそんな雑用させられないだろ」
「いえいえいえいえ、私如き綴くんの偉大さの足元にも及ばず……!!」
「あーはいはい。これ言い出したらキリなかったっけ。じゃあこの話はおしまい。な?」
そう言いながらニッと笑った綴くんの顔は、子供の頃から何も変わらない屈託のなさと、子供の頃以上に育った頼もしさで、本当に太陽のように格好良かった。
そして思わずぽうっとしてしまう私の手からするりと布巾を取り、机に少し溢れてしまったコーヒーを拭く。
「今日も忙しいのに悪いな。今度やる子供劇団の脚本、一応出来上がったから、子供達に見せる前に水野に確認して欲しくてさ」
綴くんが申し出てくれた、私が任された小学生劇団の舞台の脚本。2人でネタ出しをして、創り上げたお話。
「もっ、ももも勿論! 私などで良ければ……!!」
私がそう言うと、綴くんはふっと笑って首を振った。真正面から私を見つめ、真っ直ぐ伝えてくれる。
「水野、『など』じゃないよ。水野『に』見てほしかったんだ。昔みたいに、一番最初に」
「綴くん……!!」
私は不覚にも涙が零れそうになり、慌てて袖で目元を拭った。
私に泣く資格なんてない。私が彼を手放したのだ。それが奇跡のように再び綴くんと出会えたからといって、私の過去の行いが許される訳ではない。だから、私は泣くことで彼に許されてはいけない。
いけない、けれど……
「まったく。ホント、水野って子供の頃から変なとこ強情だよなあ」
「!!」
綴くんは苦笑しながら私に近づいて、そっと私の目尻にハンカチを当てた。
「あわっ、あわわわわっ?!」
その布越しの手の感触と綴くんのあまりの顔の近さに動揺する私に、綴くんは優しく微笑む。その笑顔は、いつか見たお兄ちゃんの顔をしていた。
「泣きたかったら、泣いていいんだからな。無理に我慢する方が身体にも心にも悪い。俺で良ければ、なんでも話聞くからさ」
「そんな……っ! 綴くんに、そんなこと……!!」
「『そんなこと』じゃないよ、水野。友達の話を聞くのは、全然『そんなこと』じゃない。俺にとって、すごく大事なことだ」
「綴くん……っ」
綴くんは、何度も、何度でも、私のことを『友達』と呼んでくれる。それが……泣くほど嬉しい。
また溢れてきた涙を、綴くんは優しく拭ってくれる。
「水野が俺を頼ってくれること、俺はすごく嬉しいよ。お前にはずっと――それこそ、子供の頃から世話になってるから」
「世話……? そんな、綴くんに世話になってたのはいつも私の方で……」
「そんなことないよ。兄貴の誕生日プレゼントの花冠作るの付き合ってくれたのだって、誕生日会の芝居の脚本書く時に付き合ってくれたのだって、何よりあの河童の話を思いついたのだって、全部水野のお陰だ」
「綴くん……」
「それに、ロミジュリだって、水野との出会いや別れがあったから書けた話だ。柊さんとこの劇団の脚本だって……水野がいなきゃ、原点に立ち戻れなかったかもしれない。水野は、離れていても、ずっと俺を助けてくれてるんだよ」
そう言って、綴くんは持っていたハンカチごと、ギュッと私の手を握ってくれた。
さっき触れた時も思ったけど、大きくてちょっとゴツゴツしてて、でも誰より優しくて温かな手だ。
「……っ! ありがとう、ござい、ますっ!!」
私は堪らなくなって、その手を握り返した。
握る資格がないのは分かっているけれど、彼の気持ちを無下に出来るはずがない。していいはずもない。
三度溢れる涙をハンカチで吸い取りながら、綴くんは笑う。
「そして今日のこの脚本は、水野と一緒に創り上げたものだ。だから、水野と一緒に確認したい。もっともっと良くしていきたい。それじゃ、ダメか?」
「ダメじゃ、ないです……っ!!」
私は涙を拭うと、やっと真っ直ぐ綴くんを見た。
昔と変わらない、いやそれ以上に輝く若草色の瞳に映る自分の姿が、少しでも綴くんの友人として恥じぬように、精一杯背筋を伸ばして。
「一緒に、もっともっと物語をよくして行きましょう!」
「ああ!」
子供の時のあの日。自分が決して共有出来ない世界に居ると思っていた綴くんと、今、共に物語の世界を創っている。
この時間は私の一生の宝物だと――そう確信して、彼の手をギュッと握った。【終】