何かが口の中に入ってくる。そうして、喉の奥から掬い上げられ、吸い取られる。水木はその異様な感覚に危うく、口の中に入ってきたぬめった何かを噛み切ってしまいそうになったが、その前にそれは満足したのかスルリと離れていった。ぼんやりとした、喪失感。
「水木。水木・・・・・・」
呼ばれる声に覚醒する。目を開けると目の前に人の姿のゲゲ郎の丸い瞳があった。中村は部屋の中央でぐぅぐぅと寝ている。時計を見れば深夜二時。こんな時間になぜ起こしたんだと水木はゲゲ郎を酷くなじりたかった。しかし、眠気で口さえも動かない。
「ちょっと付き合ってくれ」
ひょいといつぞやのように肩に担がれる。そうして、そのまま窓からとっと外に飛び出す。ひんやりとしたゲゲ郎の体温と外気に身が震えた。ヒュウヒュウと風を切るのがまた寒い。パタパタと寝間着の裾が風にたなびいた。水木はブルッと身を震わせる。やっと思考回路が現実に引き戻された心地だった。
「なんだよ?」
「またおどろおどろが出た。退治に行くぞ」
「おどろおどろ⁉」
その名前に水木はハッと覚醒する。血液製剤Mを服用した者が夜な夜な変化してしまう吸血妖怪おどろおどろ。借り家を崩された記憶もまだ新しい。だが、おどろおどろになる前の人間の姿も見ている水木にとっては『退治』というゲゲ郎のキーワードがどこか不穏に響いた。
担がれたまま、水木はゲゲ郎を振り向く。
「結局、おどろおどろを人間に戻す方法はないのか?」
「無いようじゃ。じゃから、ただ退治するしかない」
ぴょんぴょんと家の屋根から屋根へ跳んでいくゲゲ郎に担がれながら、水木はバタバタと暴れる。そうするとゲゲ郎は少しだけ体勢を崩しかけ、水木を担ぎ直していた。
「ほっとけ。わざわざお前が人殺しになる必要はねぇ」
「妖怪ポストに手紙が届いたからには行くより他ない」
「妖怪ポスト?」
聞き慣れない単語に水木が大人しくなっているうちにゲゲ郎がまた高く飛び上がる。電線の上を駆け、ぎゃぁと悲鳴のした方に向かっていった。
「助けてくれぇ‼」
降り立った地面に、おどろおどろ。そうして、その髪に絡め取られたふくよかな男性。スーツを着ていることから考えるに残業帰りなのだろうか? まだバタバタと抵抗している所を見ると、捕まっただけで殺されてはいないらしい。
かっ、かっ、とゲゲ郎がその足に履いていたゲタをおどろおどろめがけて振り出す。するとそれはスーツの男性を捕まえる長い黒髪に当たり、どさりと男性を解放させていた。あたふたと男性が駆けていく。獲物を逃がした元凶であるゲゲ郎に向かっておどろおどろのぎょろりとした目が向けられていた。
「ぎぇぇぇぇぇ‼」
おどろおどろが一声上げる。それは怒りの咆哮だったのか? それともゲゲ郎に何か訴えかけていたのかは水木には解らない。とさりと地面に下ろされ、裸足のまま地面に立つと、その目の前にゲゲ郎が立ち塞がった。跳んでくるおどろおどろに向かって手で鉄砲のような形を作り、その指先に光を溜める。
どん、と低い地響きと共に放たれた光の弾は、真っ直ぐにおどろおどろにぶつかる。そうして、あっという間にその大きな頭の妖怪は跡形もなく消えてしまっていたのだ。そのあまりにもあっけない最期に水木は息を詰まらせる。
確かに、おどろおどろが夜な夜な出没することで人間達は恐怖におののいている。吸血される人間も少なくない。吸血事件が妖怪のせいだということで罪のない妖怪達が不用意に人間に退治される被害もあると砂かけババァが言っていた。
「だからって何でこんなあっさりと退治できるんだ⁉」
がっとゲゲ郎の着物を掴む。ぐいっと引き上げれば、さらりと流れるゲゲ郎の前髪の隙間からいつもは見えない左目が見えていた。
「妖怪ポストは本当に困っている者の願いを届ける物じゃ。今見たおどろおどろになっていた人間から退治してくれと手紙が入った」
まだまだあるぞ。
そう言ってゲゲ郎が懐から取り出したのはいくつかの手紙や紙切れ、それから葉書。それぞれ全く違う筆跡でしかしどれにも『人を殺める罪に耐えきれない』と書かれているのが見える。
「人間である間は不死身な奴らじゃ。妖怪に変化しているこの時間帯に退治してやらんと願いは叶えられん」
胸ぐらを捕まれたままゲゲ郎は冷静にそう呟く。水木はパッとその手を離し、ゲゲ郎が差し出してきた手紙達を一つ一つ開いていく。助けてくれ、どれにもそう書いてあった。
「おどろおどろになる人間の戻し方が解らない今、わしに出来るのは退治だけじゃ」
ぎえぇ、という鳴き声が遠くから聞える。すると、ゲゲ郎は「話は後じゃ」とまた水木を担ぎ上げた。取り落としそうになった手紙を水木が自身の懐の中にしまいなおす。
「今日はひとまずこの辺りに三体程度おるはずなんじゃ。付き合え」
数本先の路地に、またもや人間を捕まえているおどろおどろがいた。捕まっている人間は今度はぐったりとしていて。その姿を見た瞬間、水木は改めてこの妖怪の恐ろしさを思い出す。ミイラのように干からびた肌をしているのは元々なのか? それとも?
今度はゲゲ郎の白い髪が針のようになって跳んでいく。おどろおどろの髪から解放された人間は麻袋か何かの様にどさりと落ちたまま、地面から動かなかった。ぐっと水木が唇を噛みしめる。
おどろおどろもゲゲ郎もしかし、そんな人間のことなど気にしていないのか、互いに対峙し合い、鋭い眼光で睨み合っていた。
おどろおどろが飛び上がる。ゲゲ郎の真上に跳んできたところで、再び、ゲゲ郎が指鉄砲を構える。
どん。
容赦のない光の弾がおどろおどろを包み、塵一つなく消し去ってしまっていた。
水木が道路に倒れたままの人間に駆け寄る。真っ青な顔をしていたが、どうやらまだ微かに息があった。
「近くの病院に連れて行けばまだ助かる、か?」
首筋に触れてみると、弱々しいが脈が確かにあった。しかし、どこまで連れてこられたか解らない水木には病院の場所さえも検討がつかない。みゃぁ、と黒い猫が通りかかる。しかし、よく見ればその猫の尻尾は九つに分かれているではないか。これはもしかして化け猫なのか? 水木は一縷の希望に託すことにした。
「黒猫。近くの病院の場所を知っていたら教えてくれ」
水木の言葉に、猫が頷いた気がした。そうして、とっとと先を行く。水木は全く意識のない人間一人を抱え、その黒猫についていくことに決めていた。
「どこに行く」
「死にそうな人間がいるってのに見逃せない。お前は残りのおどろおどろをどうにかしてくれ」
「全く・・・・・・」
ぶつくさと何やら文句を言っていた様子であったが、ゲゲ郎はそのままどこかに飛び去ってしまう。水木はそれを見送りもせずにただ、九つに尻尾の割れた黒猫を追いかけていた。なんとなく気怠い。そんな感覚を忘れるほどにその時の水木は懸命に見知らぬ人間を助けようとしていた。