どんな日でも朝は来る。
その日も、変わらず朝が来ていた。水木は重だるい全身を布団寝そべらせたままタバコとマッチに手を伸ばしていた。
「寝たばこは止めてくれ。吸うなら台所行け」
どうやら起きたらしい中村が、しかし、ハッキリとした声音で水木に水を差す。畳の部屋で寝たばこをすると畳に灰が落ちかねない。そうなると退去の時に文句を言われるのだと中村は愚痴を零した。
にしても、散々無体を働いておいてその言い草とは。だが、居候の身の水木には返せる言葉が無い。このぐらいの事で鬼太郎と共に屋根のある温かい家にもう暫く住んでいられる事を想えば気怠い裸体を起こす気にもなった。
もう、さすがに素っ裸で家の中を歩けるほど暖かい季節では無い。部屋の脇に放り投げてあった夜着をひっつかみ、簡単にはおる。そのまま台所に行って、念願の至福の一服をふかすことにした。相変わらず、そういうことをした後の朝は少し歩きづらい。しかし、そんな下半身を引きずってでも今の水木にとっては吸いたい一服であった。
シュッとマッチを擦り、タバコに火を付ける。台所の小さな扇風機型の換気扇を回せば、煙は緩やかにそちらに吸い込まれていった。ここまで来てタバコを吸えと文句を言っていた中村は再び裸体のまま眠りについてしまったようである。
「わしにも一本くれぬか?」
だからだろうか。小さな声がした。見てみれば、目玉の姿のゲゲ郎が水木の足下で両手を伸ばして立っていた。
げ、と言いかけた水木が折角吸っていたタバコを取り落としそうになったのも無理は無いだろう。銜えていたタバコを手に取り、しゃがみ込む。そうしても見下ろす形になるその小さな生き物に煙がかからないようにふっと横に煙を吐き、水木はその小さな生き物に対峙した。
「お前、鬼太郎とお化け界とやらに行ったんじゃ無かったのか?」
中村に気付かれないように小さな声で問いかける。精神安定のためにもう一度タバコの煙を深く肺に吸い込んだ。
「水木のことが心配でわしだけ残ったのじゃ」
タバコを吸いたいともう一度言われて、水木は目玉姿のゲゲ郎がどうやってタバコを吸うのか興味が無くは無かった。火を付けた新しい1本を小さな生き物に差し出す。すると、目玉だけだったと思っていたその丸い眼球の下辺りに小さな口らしき物が現れ、そこで両手で支えた(目玉にとっては随分大きい)タバコをすぅっと吸っていた。
にしても、である。目玉が今、ここに居るということは、昨晩の事も全てこの者は知っているのであろう。知っているだけで無く、当然ながら、見ていたのだろう。こんなにデカい目玉をしているのだから。
水木はもう一度短くなってきたタバコを深く吸い込んだ。カタカタと音を立てながら回る換気扇の羽の音が妙に大きく聞える気がした。
「おぬしらが愛し合う仲だとは気付かなんだ。二人きりの時を作ってやれなくてすまんかった」
「・・・・・・」
美味そうにプカプカとタバコを吸う目玉の言うことに水木はなんと返せばいいのか解らなかった。同じ人間同士だったとしても理解しがたいことだろう。愛だの何だのと言う甘い感情が無くても利害が一致すればまぐわってもみせる。そんな水木の感覚が一般的なそれとは異なることは水木自身が一番理解していた。
目玉の吸うタパコの灰が長くなってくる。そっと目玉をつまみ、そのままシンクの縁に座らせた。目玉が水木の行動を理解してか、タバコをその小さな口から横にずらすと、その先からぽろりと落ちた灰が上手くシンクの中に落ちていく。シンクの横に立ち上がった水木も同じように手を伸ばし、トントンとシンクの中に自分のタバコの灰を落としていた。そうして、目玉の横の縁に腰を寄りかける。
「妖怪ってやつらも、愛だの恋だの感じるのか?」
「当たり前じゃ。人間よりずっと妖怪の方が愛情深いぞ」
「そうかい」
戦地から戻ってずっと水木は愛情という物がよくわからない。確かに鬼太郎は可愛いが、彼を育てているこの感情が愛情だけかと言えばそうではない気がした。どちらかというと、義務感と鬼太郎といることであの突然の頭痛が和らぐからと言う水木にとって都合の良い事があるせいが大きかった気がする。
「俺にとってはやっぱり、愛って物がよくわからない」
ぽつりと呟いた言葉に、目玉が水木を仰ぎ見る。そのまん丸な目はもしかしたら不思議そうな表情をしていたのかも知れなかった。
「中村を愛しているわけでは無いのか?」
「馬鹿言え。あいつはただの同僚だ」
「ならばなぜ・・・・・・」
絶句する目玉の様子がなんだか面白くなってきた水木は、どこかやけくそのような気持ちも無くは無かったのかも知れない。大分短くなったタバコの最後の一吸いをしたかと思うと、その先をシンクに押しつけて火をもみ消した。
「愛情が無くたって性欲があれば、利害が一致すれば、あぁいうことだってするさ」
水木のその言葉はどこか冷めた響きをしていたかもしれない。目玉があんぐりとその小さな口を開け、固まる。こちらも大分短くなっているタバコを取り上げ、水木はさっき自分がしたのと同じようにタバコの火をもみ消した。そろそろ本格的に中村が起きそうである。このお喋りも止めにしなければ不審がられるだろう。
「人間は解らん・・・・・・」
溜息のようにぼそりと呟く目玉をつまみ上げ、そろそろ隠れとけ、と床に下ろす。どんな表情で目玉が水木を見るのかを水木はあまりじっくりと観察はしたくなかった。
鬼太郎に再び会ったのは、その日の夕方であった。何時に帰宅できると伝えていなかったにもかかわらず、水木が中村の家に辿り着くと、その玄関先に砂かけババァが鬼太郎を抱えて立っていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
なんと声をかけて良いのか、いつからそこに居たのか訊ねるべきか、水木は考えあぐねたが、砂かけババァはそんな水木の様子に頓着しないのか、すっと鬼太郎を差し出してきた。楽しそうに手を伸ばす鬼太郎を受け取る。ぴりぴりっと微弱な電流が流れるような感覚があり、重だるかった身体から何かを吸い取られるようだった。
「水木よ、もう少し早く帰ってこられんのか?」
「すみません。お世話になりました」
「親父殿も鬼太郎も、おぬしの体調を気にかけておるぞ?」
「俺の?」
他人に体調などを気にかけて貰ったことなど一度も記憶に無い。たまに田舎から出てくる母が「元気にしてるか」と気にかけてくれるが、母は身内だ。
「わしも少しはおぬしが心配じゃ。鬼太郎の世話が大変ならばわしが永久にお化け界で面倒を見ることも出来る」
「それは・・・・・・」
腕に抱く鬼太郎を見下ろす。機嫌良さそうに見上げてくる静かなこの子供を育てること、共にあることが嫌なわけではない。多少の愛着が無いわけでも無い。
「大丈夫です。ご迷惑おかけするかも知れませんが、まだもうちょっとこの子を育てていたいんです」
誰か、水木にって重要な存在から鬼太郎を託されたような気がずっとしているのだ。だから、不十分でも水木が鬼太郎を育てなければならない。そんな気が、水木にはしていた。
砂かけババァにもその水木の決意が少しでも伝わったのかも知れない。そうか、と引いた彼女から、そういえば、と言葉が続いた。
「最近、人間が罪の無い妖怪達を無理に退治しようとする事があちらこちらであるようじゃ。くれぐれも鬼太郎が幽霊族の子であることがばれぬようにな」
それだけ言い置いて消えようとする砂かけババァに「ちょっと待ってくれ」と声をかけたのは水木だった。くるりと振り向く彼女の黄色い瞳がちらりとほっかむりの下から覗いていた。
「退治? 人間にそんなことが出来るんですか?」
「出来ぬやつも多いが、中途半端に出来るやつもおる。だから困っておるのじゃ」
「何でそんなことに・・・・・・・?」
ぱちくりと目をしばたく水木に砂かけババァが振り向き直す。ぱさりと取れたほっかむりの下から、ただれたような顔面の老婆の黄色い瞳がギラリと水木を見上げていた。それはまさに妖怪の風貌。
「おどろおどろの吸血事件のせいじゃろう? あれのおかげで人間の妖怪に対する恐怖心が呼び起こされたんじゃ」
しかし、水木も砂かけババァも変わらずに会話を続ける。砂かけババァの風貌よりも、今は人間と妖怪の不仲になりつつある関係の方が気がかりだった。
「でも、おどろおどろは元は人間で・・・・・・」
言いつのる水木に、しかし、砂かけババァの冷めた声が続いた。
「そんな些細なことに構えぬほど恐怖しておるのだろう? 元々妖怪という存在は恐れられる物であるが、こうあからさまに退治だなんだとやられるのは少々堪える」
「そうですよね・・・・・・」
罪の無い妖怪、と先程、彼女は言っていた。きっと、通り魔かなにかのように「悪霊退散‼」などと叩かれるような物なのだろう。想像だけでも迷惑だという事がよくわかる。
「まぁ、落ち着くまで静かに過ごすしか無いさ」
わしはもう行く、と取れたほっかむりをもう一度巻き直す砂かけババァを見ながら、水木はかける言葉が無い。この件に関して水木がなにか出来るかといえば、良い案がその時は思いつかなかった。