昭和30年代。ケチャップパスタというものが流行った。それはいわゆる、現代のナポリタンの原型なのだが、ケチャップの万能さに気付きはじめた戦後の日本人が開発した画期的な食べ物であったのである。
「ケチャップパスタを食べに行こう」
たまの休みに水木がそう言い出したのは、ケチャップパスタが社内で話題になっていることや、子供を持つ他の社員から「子供があれを気に入って」などと言われたからである。そんな話を聞けば、ぜひ鬼太郎に食べさせてやりたい。そう思うのが義理といえども親心というものだろう。
「どこまで食べに行くんじゃ?」
1年中同じ服を着ているゲゲ郎に「そのままじゃ行けねぇぞ」と水木が言った後の返事がこれである。
「銀座に美味い喫茶があるらしいからそこに行こうと思う。だからもうちょっとちゃんとした格好しろよ?」
「なら、前に水木に見立てて貰った洋装を着て行こうかの?」
ひょうひょうとそう呟くゲゲ郎に、確かに以前、水木は洋装をみたててやったのだ。それも確か、鬼太郎をデパートに連れて行った時だった気がする。もちろん、鬼太郎にも新しい服を買ってやった。少し値が張ったが、こういうちょっとした外出時に丁度良さそうなものだったので、鬼太郎にも「あれを着ていけば良い」と水木は提案した。ジャケットも半ズボンも、いつも鬼太郎が着ている青いものに色を揃えた。ゲゲ郎のジャケットはもっと薄い色になったが、ジャケットの形が鬼太郎のものと似ているので一目で親子のペアルックだとわかるだろう。
「そうだよ。ゲゲ郎。あれ、なんで着ねぇんだよ。たまに着ろ」
折角そこまで考えて鬼太郎と揃いのものを買ってやったのに。水木は不満そうにゲゲ郎に詰め寄った。
「洋装は首が絞まって苦しいんじゃ」
「でも、前に見た洋装の父さんもカッコ良かったです」
「そうか? なら、張り切って着るぞ?」
「服に張り切るも何もあるかよ」
呆れたような声を出したが、水木だって久々の親子を連れ出したお出かけとなれば楽しみなものである。早く着替えてこい、とのんびりとしがちな幽霊親子を促した。
ネクタイが結べ無いだの何だのとゲゲ郎が文句を言うのに付き合ってやり、鬼太郎にも例のジャケットを着せてやり。水木も一張羅である少し値の張る仕立ての良いスーツを着てちょっと洒落た帽子を被れば、休日のお出かけの準備は完了である。
季節は春。温かな陽光がいつもより少し厚着の幽霊親子には少しだけ堪えるようだった。
「やっぱり洋装は少し暑いのぉ」
電車にカタカタ揺られながら、ゲゲ郎は早速ネクタイを緩めようとする。その手を隣の席から阻んだ水木にゲゲ郎は恨めしげな視線を送っていた。
「父さん、銀座までもう少しですから」
「おぉ、鬼太郎は銀座までの道をもう覚えたのか? 聡い子じゃ」
ゲゲ郎が鬼太郎の頭に手を伸ばし、そのつやつやの髪を丁寧に撫でる。すると鬼太郎もそれが嬉しいのか「へへ」と小さく微笑み、それから水木の方を見た。
「お義父さん。ケチャップパスタが食べられるお店は、駅から遠いのですか?」
「そんなに遠くないみたいだぞ? 楽しみだな」
「はい」
以前、鬼太郎にはカレーライスも家で作ってやったことがあった。それも子育て中の女性陣が社内で「子供が好きで」と話していたのを聴いてからだった気がする。戦後になってもう10年以上の時が経つ。あっという間に豊かになった日本では、新しい食べ物が次々と生まれ、それらの多くは子供達に大変好評であるようであった。
目的の駅に電車が到着する。ぞろぞろと降りていく客に交ざって、水木達も銀座駅に降り立った。
水木達の住む地域と銀座ではやはり行き交う人の様子もかなり違う。流行のワンピース姿の女性達、白い手袋をした夫人、アイビールックの若者、水木のように洒落た帽子を被る男性も多く擦れ違った。
「ちゃんとした服着てきて正解だろう?」
「皆さん、着飾ってますね」
「そりゃそうさ、銀座に来るならそうするのさ」
「わしらみたいにな」
腕を組んで歩く男女、子供連れの親子、品の良い和装姿のご婦人たち。そんな人々の間を縫って、男二人の間に小さな鬼太郎を連れて。はぐれてしまわないように3人で手を繋いで歩く姿は少しだけ周りとは様相が違って見えたかも知れない。
だが、当人達は大してそんなことも気にせず、例の喫茶店へと向かっていた。
ケチャップパスタを出しているというその店は、大変繁盛しているようで、店の外に何組か入店を待つ列が出来ていた。
「少し並びそうだが良いか?」
「お腹はすきましたが、我慢できます」
「鬼太郎はほんに良い子じゃ」
「助かるよ、鬼太郎」
喫茶店の大きな窓から見える中は人で一杯である。一組客が出たかと思うと、すぐに入り口横の植木に寄りかかっていたカップルが中に入っていく。
それから数十分と待ったころ、やっと水木達の番が回ってきていた。カラカラとドアベルの鳴るドアをくぐり、店内へ。
丸いテーブルを3人で囲むような席に通されると、鬼太郎の椅子には厚めのクッションが置かれる。おかげで小柄な鬼太郎でも食事がしやすそうであった。
店内を回っていたウェイターの一人がメニュー表と水を共に持ってくる。大きな赤いメニュー表を開けると、ずらずらとコーヒーだのサンドイッチだのというメニューの中、大きな文字で「ケチャップパスタ」と目立つ場所に書かれているそれを、水木は指さした。
「この、ケチャップパスタを3人分」
「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」
「わしはコーヒーも頼む」
「僕はオレンジジュースがいいです」
「あ、なら俺もコーヒーで」
以前にもこうやって3人で近くの喫茶店に立ち寄ったことがあった。その時飲んだコーヒーをゲゲ郎はいたく気に入ったようなのである。確かに、コーヒーとタバコの相性は良く、コーヒーを飲みながらタバコを吹かすと、一層タバコが美味く感じられるのであった。
机の端に置いてあった灰皿を引き寄せ、タバコを一本取り出せば、ゲゲ郎も「1本くれ」と手を伸ばしてきた。それに素直に1本渡し、ついでに火も付けてやる。
「電車に乗るのはなんとなく緊張するのぉ」
「そうか?」
「水木はよく毎日あれに乗って会社に行くものじゃ」
「昔からそうだからなぁ」
「僕は電車、好きですよ」
幼いころからなにかとこういう外出に付き合わせていた鬼太郎には電車は馴染みのあるものなのかも知れない。逆に、ゲゲ郎は妻と結婚するまでは田舎暮らしだったと言っていた気がするので電車は慣れないのだろう。そういえば水木とゲゲ郎の最初の出会いは電車の中だったことを、その時、ゲゲ郎が緊張して電車に乗っていたかも知れないことを思うと、水木は少しだけ頬が緩むのを感じていた。
「堅苦しい洋装を着て、緊張する電車に乗り、暑い中来たんじゃ。ケチャップパスタなるものが美味であることを期待するぞ?」
「美味いらしいぞ?」
「楽しみじゃ」
「そうですね」
子供の鬼太郎の方がよっぽどゲゲ郎よりも落ち着いている。身丈もあって、しかも、今日のようにかっちりとした洋装でも着こなせばどこかの俳優かなにかのようであるゲゲ郎であるが、中身がこれなのである。近くの席に座った若い女性陣も水木達の会話を聞いて思わずクスリと笑っているようであった。
「おまたせいたしました」
ウェイターが大きな皿を3枚抱えてやってくる。その皿の上にこんもりと盛られたケチャップ色のパスタ。ピーマンやタマネギ、ソーセージの輪切り、角切りトマト。ふんわりと香る甘酸っぱいような香り。
真っ白のお皿にオレンジ色の山。それが目の前に置かれたとき、確かにキラキラとゲゲ郎と鬼太郎の目の中に星が輝いた気がした。
「良い香りですね‼」
「うまそうじゃ!」
「来て良かっただろう?」
「はい。ありがとうございます」
瞳にキラキラと星を輝かせたまま鬼太郎が、ゲゲ郎がフォークとスプーンを掴み、水木をみつめる。
「パスタだから、こうやってくるくるして食べると汁が飛ばなくて良いらしいぞ」
その期待の眼差しに応えるように、水木がフォークにパスタを巻き付けて見せる。スプーンの上でくるくると回りパスタを絡めていくその様子を、魔法か手品を見ているかのように幽霊親子が「ほほう」と眺める。いただきます、と手を合わせた鬼太郎は、水木を真似てスプーンとフォークでパスタを巻き取る。程良い大きさになったそれを大きな口を開けてパクリと食べた。
ゲゲ郎も同じようにフォークにパスタを巻き付けていたが、こちらは量を巻きすぎたのか一口では食べきれない量になっている。
もぐもぐと咀嚼する鬼太郎がまた瞳をきらきらとさせる。丁度良い量のパスタをフォークに巻き直したゲゲ郎も、それを一口食べて「んん!」と歓喜の声を上げていた。
ごっくん、と嚥下した鬼太郎はまたぱちぱちっと瞬きをしたのち、水木を見上げる。
「美味しいです」
「美味いな」
「美味いぞ、水木‼」
パクパクと次々とパスタを食べるゲゲ郎とは対照的に、鬼太郎は丁寧にパスタを巻き付けては一口食べ、具を丁寧に掬い、何か大切な食べ物でも食べるかのようにゆっくりと食べる。その様子見つめる水木の瞳は実に穏やかなものであった。一張羅にケチャップが飛ぶのも構わずに食べるゲゲ郎の様子も、一口ずつ大切そうに噛みしめる鬼太郎の様子も、どちらも愛おしい。そんな水木の眼差しであった。
「お義父さん。ありがとうございます」
はにかむように微笑む鬼太郎の笑顔こそ、ただの食事も魔法のかかった特別なものにする。星が輝くように笑う鬼太郎が、ゲゲ郎が、彼らの様子が。また、水木にとっての大切な記憶の一つになったのであった。