中村は悪い奴ではない。ただ、少々けち臭いところが無くはなかった。
「なぁ、もう、何日になる?」
中村の家に上がり込んで1か月。おどろおどろ事件のおかげで潰れてしまった元借家。子供連れでも入れる安値の借家を探して約1か月。しかし、なかなかちょうどいい物件が見当たらずに水木は悩んでいた。
しかも、吸血事件は続いている。きっと、Mがこの世にあり続ける限り新しいおどろおどろが次々と生まれ、そのおどろおどろ立ちに吸血されて命を落としてしまう者が少なからずいるのだろう。
だが、いまだに彼らを人間に戻す術は分からない。顔が広いらしいゲゲ郎があちこちに解決策を訊いて回ってもそれらしい術は誰も知らなかった。そうして最終的に妖怪たちは言うらしい。
「人間のことなんて放っておけばいいのに」
「人間の自業自得だ」
確かにそう言われてしまえば立つ瀬がない。勝手にMを作って、勝手に服用して勝手に妖怪になり、人を殺めている。善良な妖怪(というのが多いらしい)から見たら人間の欲に溺れたただの自業自得だ。
水木はただ忘れられずに後悔している。あばた顔の男達を救えなかったこと。牢獄から逃げ出した彼らはいまだに指名手配犯として捜索されている。だが、もう既に彼らはこの世にはいないのだ。ゲゲ郎が、おどろおどろになった彼らを退治してしまったから。それを誰も水木以外には知らない。
一応、おどろおどろの存在について記事を書いた記者には事の顛末を話したが、徹頭徹尾おとぎ話のようなこの事件だ。どこまで水木の証言を真摯に受け取っているか解らない。現に何か水木の周りで異変が起こることも吸血事件に関する新たな記事が出ることも特になかった。
「長く滞在するなら、それなりに対価を払ってくれよ」
うんざりした様子で中村が呟く。もともとすごく仲の良い同僚というわけでも無いのだ。ただ家が近い、互いの家の場所を知っているという事だけで中村の家に上がり込んでしまった。しかも、鬼太郎付きで。
崩れた借家に関しては『局地的な地盤沈下により家屋が倒壊』という事で処理されている。哺乳瓶やら貴重品、その他衣服なども多少の傷程度で瓦礫の中から発掘されたので回収した。なので、あのおどろおどろから逃げた夜のような一文無しでは無いには無いが、先立つものが多いわけでは無い。中村に『家賃を折半しろ』ともし言われても、『給料日まで待ってくれ』としか水木には返せる言葉が無かった。
だが、ありがたいことに、中村の要求はどうやら金銭では無かったようなのである。
「水木やらその赤ん坊、鬼太郎だっけ? がいるせいで碌に自慰だって出来ねぇ」
ハッキリ言い切られたあけすけな言葉に水木は小さく「確かにそうだな」と返す。まだ人の言葉を解っているのかも解らない鬼太郎は相変わらずくうくうと寝息を立てて大人しくしていた。ただ、水木だけが知っている。その鬼太郎の布団の中に、目玉の姿のゲゲ郎も隠れていることを。中村に話せば絶対に面倒だと思ったので中村には告げていなかったが、鬼太郎の父であるゲゲ郎も水木の家が無くなったのと同時に住み家を失っていたのである。
雲行きの怪しくなってきた会話を、なんとなくゲゲ郎に聞かれるのは嫌な気がしていた。
しかし、ゲゲ郎の存在を全く知らない中村の言葉は止まらない。
「水木、お前、巧いってもっぱらの評判だぞ?」
まことしやかに、過去水木が行っていた特殊な接待についての話に尾ひれはひれが付いて社内に蔓延しているらしいことは気付いていたが、水木は知らない風を装っていた。中村もつい最近までは興味を示していなかったはずである。中村に男色の気は無い。それに、商売女に金を払うのを渋るタイプでも無かった。が、最近は水木と鬼太郎のせいでそう言った遊びも控えているようだった。そのせいだろうか? 水木との共同生活に嫌気がさしたのかも知れない。
だが、まだ追い出されては困るのだ。
「……そういうことが対価になるなら、せめて鬼太郎を乳母に預けさせてくれ」
「乳母なんかいるならずっとそうしてりゃぁいいのに」
そうすれば俺たちが早く帰ってこなければならない理由もなくなる。
言われてしまえばそうだが、その乳母というやつが妖怪だからとは水木は口が裂けても言えなさそうである。サッサと中村の自慰でも何でも手伝ってやってもう少しこの家にとどまる権利を得た方が良さそうであった。
「まぁ、いい。とにかく早速、明日にでも預ける手はずを整えてくれ。どうやって連絡を取るんだ?」
「書き置きをしておけば大丈夫だろう。早速書くよ」
適当な紙に水木はゲゲ郎に対して書き置きをすることにした。日中鬼太郎の世話をしてくれているらしい砂かけババァに夜も少し預かってくれないかと書く。人間界とは異なるお化け界という世界がこの世には在るらしいので一晩だけそちらで鬼太郎の面倒を見て貰うことは出来ないか? という趣旨のものだ。さらさらと書いたものをわざと鬼太郎の枕元に置いておく。そうすれば夜のうちにこっそり這い出たゲゲ郎が月明かりか何かを利用して読んでくれるだろう。
砂かけババァが何というか、ゲゲ郎がどう思うかは深くは考えないことにした。一応、水木と鬼太郎の今後の仮の住み家がどうなるかに関わることなのだ、協力くらいしてくれるだろう。なぜ夜に家を空けたいのかに関してはあまり詳細に書かず、『間借りしている家主の機嫌を取るため』とだけ書いた。話を聞いているゲゲ郎は事の重大さに気付いて夜のうちに砂かけババァに連絡をしてくれるかも知れない。
そう判断した水木の予測は大方は外れてはいなかったようであった。
次の日の朝、水木の枕元には早速、砂かけババァからの了解の手紙が置かれていた。
鬼太郎を抱いてスーツのまま出勤するのは奇妙な感覚だった。電車に乗る前に、駅の入り口横の薄暗い場所に背の小さい人影らしきものが在るのを見つけて、水木は歩み寄っていく。
「砂かけババァさんだろうか?」
「あぁ」
しわがれた声が呼応する。しかし、その顔は目深に被られたほっかむりで大きな口元くらいしか見えなかった。
ぱっと見は真っ白い着物を着た少し小柄な老婆である。しかし、纏う空気が明らかに朝の駅には似つかわしくない薄暗いものだったのでやはり彼女(ババァというのだから女性なのだろう)は人ならざる者なのだろう。
「今日一日、鬼太郎を頼みます」
「無理はするなよ?」
「ありがとうございます」
どこまで事の次第を知っているのか解らない彼女になんと返すべきか解らず、水木は気まずげに軽く頭を下げる。鬼太郎を砂かけババァに引き渡すとき、少しだけ鬼太郎がぐずったが、水木は「珍しい」と思うだけにとどまった。腕時計がチラリと見える。次の電車に乗らなければ遅刻する可能性がありそうであった。
だから、水木は全く気付いていなかったのである。いつもならばずっと鬼太郎の髪の毛の中に隠れている目玉姿のゲゲ郎が、こっそりと水木の鞄の中に潜り込んでいたことに。
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