鬼太郎は不思議な子供だった。子供というやつは大抵、泣くのが仕事というくらいよく泣きわめくはずなのだ。だが、鬼太郎は違う。よく眠り、よく笑い、よく虚空を見つめる。田舎の実家に帰った水木の母が一度、鬼太郎を見たとき「物静かすぎて気味悪い子」と評したのが今でも水木の意識下になんとなく残っている。
よく眠り、よく笑い、よく虚空を見つめる。それから、時々思い出したかのように水木の指をぎゅっと握り、じっと動かなくなる。そういう時、何か微細な静電気のようなピリピリとした感覚が鬼太郎の小さな手と水木の指の間に生まれる。それは水木にとって不快な感覚ではなく、だからと言って心地よい感覚でもない。ただ、なにか。水木の身体に収まりきらずに水木の臓腑を蝕んでいきそうな何かをスルスルと吸い取ってくれるような。そんな感覚があるのである。
「水木、水木……」
どこかで水木を呼ぶ声がする。しかし、水木はそれを夢の中の出来事かと錯覚していた。なぜならば、その聞き覚えのある声はよく水木が夢の中で聞く声だったからである。
「あー。だっ!」
言葉になりきらない鳴き声のような声がする。それから、ぺちっと頬を叩かれた気がした。ぺち、ぺち。ぺちぺちぺち。それは徐々に強くなり、それから、頬からあの、鬼太郎に触れられた時のような感覚がある。
それに気づいたとき、水木はやっと覚醒したのであった。はっと目を見開くと、ぺちぺちと水木の頬をその小さな手で叩く鬼太郎とその父親、ゲゲ郎が人間の姿で布団に横たわる水木を見下ろしていたのだ。そうしてなぜか、鬼太郎の毛が頭のてっぺんでピンと1本立ち上がり、光っている。
「あっう~……」
ぺちぺちぺちと水木の頬を叩き続ける鬼太郎を水木が抱き上げたのと、水木がゲゲ郎に米俵か何かのように担ぎ上げられたのはほぼ同時だった。
そのままゲゲ郎が大きく飛び退くと、がっしゃぁんという大きな物音とともに今まで水木が寝ていたそばの壁が崩れ、土煙が立っていた。
「は?」
鬼太郎を両手でしっかり掴む水木がゲゲ郎に担ぎ上げられながら見たのは、土煙の向こうの夜空。借家の壁が見るも無残に砕け散り、その土煙の中から、何かギラリと光る目のようなものが水木たちに向けられていた。
「え?」
ひゅ、ひゅ、と軽々と狭い借家の中を飛びながら進むゲゲ郎。彼は水木を担いでいてもその重さを感じないかのようにあっという間に玄関に辿り着き、戸を蹴破ると飛び降りるように階段を駆け下りていく。その、彼らの後を、何か細長い糸のような物が追いかけてくる。
どどどど、という地鳴りのような音と共に借家が崩れていく。ぎゃぁ、わぁ、と上がる声は、他の部屋に住んでいた者達が突然の借家の崩壊に戸惑っている声だろう。そのくらいのことしか、まだ寝起きで頭の働ききっていない水木には、理解が追いつかなかった。
水木は、抱えていた鬼太郎をぎゅっと強く抱きしめる。腕の中の幼子はもう何も言わない。しかし、いつもの空虚な瞳で土煙の中の一点を凝視していた。その、頭のてっぺんの光る毛までもがその毛先で土煙を示しているようにさえ見えた。
「ゲゲ郎、説明しろ‼」
追いかけてくる黒い糸のような物から身をそらしながら水木は叫ぶ。ゲタの音を響かせながら走るゲゲ郎は人気の無い夜の街を一目散にどこかへ逃げているようだった。
「説明も何も・・・・・・」
倒壊した元借家の辺りから上がっていた土煙が少なくなった頃。その煙の中からビュン、と飛び上がる影があった。その影からまたびゅっと糸のような物が飛んでくる。
まん丸の満月。薄暗い街灯。それらの明かりの下、現れたのは、何かをにらんでいるような大きな顔。それがゴム鞠かなにかのように変形し、弾みながら水木達を追ってきているのである。
「おどろおどろ・・・・・・」
夕方に目玉の姿のゲゲ郎が言っていたその妖怪の名前を思い出す。血液製剤M。それを服用した男達が夜中の2時になると変容してしまうという妖怪。人の生き血を啜り、あの、住吉会のアジトの一つを壊滅状態に陥れたはずの妖怪。
「なんであいつ、俺らを追ってくるんだ?」
「知らん。わしが聞きたいわ」
ぼよん、ぼよん、と飛び跳ね、明らかに水木達を目指して跳ねてくるその巨大な頭。それは時々手を伸ばすかのようにその頭の毛を伸ばし、しかし、追いつかず、もしくは、ゲゲ郎のゲタに打ちのめされ、一瞬は引き下がるも、また懲りずに水木達を追いかけてくる。
その執拗さは、ゲゲ郎が路地裏に逃げ込もうと、高い建物の壁を駆け上がろうと、民家の屋根から屋根に飛び移ろうと、変わらない。周囲の建物を粉砕しながら、もしくは、高く飛び上がりながら、電柱をなぎ払いながら、水木達に執着し、追いかけてくる。
しかも始末の悪いことに、それは2体、3体・・・・・・と少しずつ増えてくるのだ。なにかに呼び寄せられているかのように、顔だけの化け物がどこからか水木達を目指して集まってくる。ついには、化け物達同士で互いにぶつかり合い、牙を見せて威嚇し合い、長く伸びた髪で牽制し合うほどになったのである。それでも、彼らは競うように水木達を追いかけ、牽制し合いながらもゲゲ郎の隙を狙っているかのようであった。ぐおぉ、ぎぎゃぁ、と醜い声が深夜にこだまする。
ずっと追いかけてくるおどろおどろを見つめているばかりだった鬼太郎が、水木を見上げる。それに気付いた水木が鬼太郎のそのまん丸な片目を覗き込むと、その瞳がチカチカと街灯の光に輝いているように見えた。
『・・・・・・して、く・・・・・・』
どこかで聞いたことのあるような声がした気がした。水木は、きょろりと辺りを見回す。だが、高速で過ぎ去っていく周囲の風景に人らしき影は見当たらない。
くいくいと鬼太郎が水木の浴衣の合わせを引っ張る。もう一度、水木がその赤子の瞳を覗き込むと、また、誰かの声が聞えるような気がした。
『ころ、して・・・・・・れ・・・・・・』
『ころして、くれ』
『殺してくれ‼』
ハッキリと響いたその声に、水木はハッと顔を上げた。長い髪を振り乱し、顔の形を変形させながら弾み、そして追ってくる大きな顔の化け物。もつれ合いながら牽制し合い、それでも追ってくるおどろおどろ達。その全ての大きな瞳が、月夜に、街灯の弱い明かりに照らされる度、ギラギラと、なにかを訴えるようにまっすぐに水木を、水木を抱えて走り去るゲゲ郎の後ろ姿を見ているように思えてならなかった。
「ゲゲ郎。ゲゲ郎、止まれ」
水木がばたばたと足をばたつかせると、ゲゲ郎は一瞬、体勢を崩して走る速度を緩める。その隙を狙って、ひゅっとおどろおどろの髪の毛が伸びてきたが、それをゲゲ郎の髪が針のように飛んでいき、撃墜していた。
「止まったら捕まるじゃろうが」
大人しくしてくれ、と体勢を直したゲゲ郎にいなされる。しかし、水木も引き下がるわけにいかなかった。
「あいつら、お前に殺されたがってる」
「はぁ? なぜ解る?」
「わかねんねぇが、鬼太郎の目ェ見てたら、こう・・・・・・」
「鬼太郎の?」
民家の合間を走り続けていたゲゲ郎が、開けた公園のような場所に突っ込んでいく。大きな木々に囲まれたそこは、少しだけ後から追ってくるおどろおどろ達の視界から彼らを隠してくれそうであった。木々の間を走りながら、しかし、今までの速さよりもいくらかゆっくりになったその速度の中で、水木は身体を捻り、ゲゲ郎の顔を見ようとした。
「あいつら、言ってたんだ。朝に。もう人の生き血を啜りたくないって」
「あいつら、とは昨夜捕まっていた人間達か?」
「そうだよ。ヤクザどもがいくら拳銃で撃ったって死ねずに生き血を吸いまくってアジトから今朝脱出してきたはずのあいつらだよ」
「やはり、人間の作った牢など簡単に破って出てきたか」
バキバキバキッと木の折れるような音が後方から響く。ずうん、どかん、と地響きのような物を立てながら、明らかになにかが追ってくる気配があった。
「ゲゲ郎、お前ならあいつら、退治できるんだろ?」
「荒事は嫌いじゃ」
「んなこと言ってる場合か‼ 鬼太郎の血、吸われちまうぞ?」
「それはならん」
ずざっと土煙を上げながら、ゲゲ郎が止まる。そうして水木を担いだまま振り向くと、その視線の先には、暗闇の中で薙ぎ倒される木々と、迫り来るなにかの集団がゲゲ郎の片目に反射していた。
「数が多い。足りるかのぉ?」
呟かれた言葉の意味を水木が問う前に、水木はゲゲ郎の肩から下ろされる。鬼太郎を抱きしめたままの水木の目の前に立ちはだかり、ゲゲ郎は何かをじっと待っていた。
ひゅ、っと、高い木々の上から数体のおどろおどろが飛びかかってくる。それに向かって、ゲゲ郎は指で鉄砲のような形を作った、と水木が認識できたのは本当に一瞬のことだった。すぐにその指先に光のような物が集まり、大きな光の球となり、おどろおどろ達めがけて矢のように飛んでいく。
「ぎゃぁ!」
「ひぎぃ!」
様々な悲鳴を上げて大きな顔の化け物が消し飛んでいく。それでも次々と現れる次のおどろおどろに、ゲゲ郎はやはり同じように指先から放たれる光の球を次々にお見舞いしていた。そのたびに、おどろおどろ達は様々な叫び声を上げ、そうして、跡形も無く消えてしまう。
その圧倒的な力の差に、思わず水木は後退っていた。顔色も変えずに光の球を飛ばし続けるゲゲ郎の後ろ姿は、確かに人ならざる者の冷酷さを滲ませているように見えてならなかった。
「やはり、足りん」
キロリと目を光らせながら振り向いたゲゲ郎が、水木のその胸ぐらを掴む。そうして、昨夜と同様に水木のその唇に口付け、長い舌を潜り込ませ、喉元まですくい上げ、水木の中の何かを食い散らかすように舐め取り、離れていく。
そんなことをしている間に飛びかかってきていた残りのおどろおどろ達にもう一度サッと振り返り、針のように飛んでいく白い髪の毛で彼らを退けた後、もう一度、指を構え直す。鉄砲のように構えられたその指先に一層白い光が集まり、一層大きな球になったかと思うと、それは、どん、と地響きのような音を立てて飛び出し、飛びかかってくるおどろおどろ達全てを飲み込み、むしろ、近くの木々まで飲み込み、空中に穴を開けたかのようにそこにあった全てを消し去ってしまった。
「ひとまずこれで全部かの?」
ひゅうっと冷たい風が公園の中を通っていく。鬱蒼と生えていたはずの木々がすっかり無くなってしまった辺りからは、もう何も出てくる気配は無かった。
そんな壮絶な父の様子を見ても、鬼太郎はきゃっきゃと手を叩いて笑うばかりだったのを水木はぼんやりとする頭でただ見るしか無かった。
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ゲ謎10
初公開日: 2024年01月03日
最終更新日: 2024年01月03日
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おどろおどろ話を終わらせたい