小屋を出てからすぐに訪れる難関、迷路のような廊下は、あひるが連れ戻された時にその道を覚えていてくれた。それを逆に進んで行けば、広い廊下に出ることが出来るだろう。その先の道は全く分からないけれど、自分の足で確かめるしかない。出口は近いのか、まだまだ道は続くのか。あの残酷な現実さえ見なければ、これから始まるのは冒険だ。
 作戦決行の時間が近づき、私たちはそれぞれの位置につく。あひるは小屋の奥で、私は扉のすぐ近く。壁に体を当てていると、外から足音が聞こえてくる。いつも男がやってくる時間帯だ。男が来たことを伝えるためにあひるへ視線を送ると、彼は小さく頷いた。まだ傷ついている状態の彼に暴れまわって欲しいと頼むのは難しいことだと分かっている。しかし、約束は約束だ。あひるが外に出た後は、次は私の番なのだから。
 足音が徐々に大きくなっていく。あまり壁に近づきすぎていると怪しまれてしまうので、壁から少し離れてその時を待つ。扉が開いてすぐはまだ男の意識が小屋の奥に向いていないかもしれない。男が確かにあひるに目を向けているのを確認してから、扉から出るのだ。大丈夫、私ならできる。深呼吸をして体を落ち着かせる。
 扉は何のためらいもなく開いた。現れたのがいつもの男だと認識した直後、あひるの悲鳴にも似た鳴き声が小屋に響いた。
「おお、おお、どうした」
 男は落ち着いた声色でそう言って、一番に小屋の奥へと向かって行った。扉が閉められる直前、僅かな隙間を見て小屋から抜け出すと、背後でかちゃりと扉の閉まる音がした。薄暗い廊下に目が慣れず体が固まってしまったが、慣れればゆっくりと廊下の様子が見えてくる。
 等間隔に並んだ明かりだけが頼りの、薄暗い廊下が伸びていた。人だと違和感を覚えない高さの廊下の壁は、あひるだと酷く高く感じる。振り返るが、閉まってしまった扉を開けることは出来ない。前に進むことしかできないのだ。あひるから教わった道順を思い出し、その通りに進んでいく。十字路やT字路が混在する廊下ではあるが、ちゃんと覚えていれば迷うことは無い。一体何のためにこんな複雑な廊下が作られているのか疑問ではあるが、大切なあひるを逃がさないためだと考えれば簡単に納得ができた。複雑であっても、一度攻略してしまえば難しいものではない。
 最後の角を曲がった突き当りに、扉が見えた。あひるが行った時は少し開いていたようだが、今日は完全に閉じ切ってしまっている。ノブのあるタイプの扉だ、私では開けられない。ここで止まるわけにはいかないと思い策は無いかと扉をよく見てみたところ、扉の下部に通気口がつけられていた。これを外すことが出来れば、扉の向こうへ出ることが出来そうだ。くちばしを隙間に差し込み、押したり引いたりして力を加えてみるが、びくともしない。ネジで止められているため、外すのは難しそうだ。くちばしの方が先に駄目になってしまう気がする。
 ここの他に扉は無いだろうか。廊下はまだまだ私の知らない範囲まで続いているはずだ。あひるでさえ見つけられなかった扉を求めて、廊下をさまようことにする。小屋近くにいると、餌をあげて戻ってくる男と鉢合わせをしてしまうかもしれない。見つかれば必ず戻されてしまうため、それだけは避けなければならない。いや、それを利用すればこの廊下から出ることが可能なのではないだろうか。男が扉を開けた瞬間に同じように扉から出られればそれで良いし、それが難しくとも別の出口を見つけられるかもしれない。私は廊下を引き返し、男を待つことにした。
 廊下の角でしばらく待っていると、餌を与え終えた男が小屋から出てきた。男が進む道の後を付けると、男が私が当初目指していた扉とは逆方向へと向かい始めた。やはり他にも扉はあったのだ。つけているのがばれないように慎重に距離を取って、男の後を追った。
 辿り着いたのは、両開きの扉だった。男が周囲に視線を向けてから扉を開けると、その中に入って行ってしまった。周囲を警戒していたため一緒に入ることは出来なかったが、ここにも扉があることを知れたのは大収穫だ。もしかしたらこちらからなら出口まで近いかもしれない。しかしこちらも両開きの扉、あひるでは到底開けられない。そう思いながら扉の近づいたところで、ノブを回さずとも開けられるタイプの扉であるということに気づいた。扉を押すことができれば、隙間から向こうへ行くことが出来る。やるしかないと思い扉に体重を預けると、扉はいとも簡単に動いた。それほど重たくはなかったようだ。しめしめと思いながら、隙間から通り抜ける。
 中は廊下以上に暗くなっていた。明かりも見当たらず、目が慣れてもぼんやりとしか部屋の中を見ることが出来ない。そこは廊下ではなく、一つの広い部屋のように思われた。どこかから人の声がするが、一つ壁の向こうか、何かに防がれて小さく聞こえるだけだ。それも一人ではなく、複数の、ざわめきのようなものだった。どこだ、どこから声が聞こえているんだろう。声を求めるように少しずつ歩みを進める。
 数歩進んだところで、聞き慣れない大きな音が辺りに響く。音の出どころは近い、何かが移動するような音。どこかで聞いたことのあるそれを、どこで聞いたのか思い出せない。全身を包む大きな音に体がすくんで、その音が聞こえなくなる時を待った。
 ようやく音が止んだと一安心したのも束の間、暗闇に慣れていた視界が真っ白になる。暗かった部屋に明かりが点され、部屋の広さが伺い知れたのと同時に、その部屋にいた人間全員が私を見ている事に気づいた。一体いつから私のことを見てたのだろう、この部屋に入ってきたときから、ずっと?
「あひるだ」
 一人の人間がそう言った。それを皮切りに、あひるだ、あひるだ、あひるだ、と全員が同じ言葉を口にする。じっと私を見つめたままそう繰り返す人間には、意思がないように感じられた。射止められたかのように体が動かない。早くこの場から逃げなければいけないと心臓は早鐘を打っているが、体が言うことを聞かない。今は何もしてこないけれど、いつ掴みかかって来てもおかしくない。早く逃げないと。はやく、はやくはやくはやくはやく。
 ぐわぁ! と自分の鳴き声で体を起こして、すぐに背後の扉を押した。その途端にこちらを見ていた人間が私に飛び掛かろうと動き出したのが見えたけれど、振り返らずに扉に体重を預けた。早くここから逃げ出さないと。にげた後は、どこへ行く? どこへ行けば、あの場所へ帰ることが出来る?
「おやめなさい」
 押していた扉が急に開かれ、私は勢いよく転がった。扉を開いたと思われる人間の足に転がり、咄嗟にその後ろに姿を隠した。ゆっくりと見上げると、それは先ほどこの部屋に入っていったはずの男だった。
「ご用意した分はこちらになります。どうか、慌てなさらず」
 男は持っていた袋を差し出す。彼らは紙袋を受け取って中身を確認すると、顔を見合わせて何度も頷き、どうも、どうも、と低い声でお礼を言って着席した。紙袋の中身は何だったんだろうと首を伸ばしていると、体をひょいと持ち上げられる。
「最近は脱走するあひるが多いなあ」
 男はそう言って私の体をゆっくりと撫でる。この撫で心地は、いつも餌をくれるあの男と同じだ。欲しい所をちゃんと撫でてくれる。震えていた体も、男に撫でられてゆっくりと落ち着いてきた。男に見つかってしまったので小屋に返されてしまうが、今回はそれでも構わない。とりあえず今日見たことを、あひるに共有したくてたまらない。
「でも今回は脱走したのがお前でちょうど良かったよ」
 わたしも見つかったのがこの男で良かったと思っている。男にとっては何が良かったのかと思い見上げると、男が柔和な笑みを浮かべて私を見ていた。
「お前もそろそろ出荷時だからな」
 そう言うと男は部屋から出て、廊下を歩き始めた。男が私を抱える力が強くなった気がする。自身の体に押さえつけるように抱きかかえられ、圧迫され、体に空気が回らず、男の言葉の意味を理解するのに時間が掛かってしまった。ようやく理解できたときに思い至ったのは、あひるが教えてくれた恐ろしい想像だった。自分よりも大きな包丁で足を切りおとされ、皮を剥がれる。誰も助けに来てくれない中でゆっくりと痛みを全身に受けながら死を待つことしかできない、自身の終わり。それが今、もう間もなく、訪れようとしているのだと、本能で感じた。
 そう簡単にやられてたまるかと男から離れようと暴れるが、人間の力では到底かなわなかった。よしよしとなだめられておしまい。あひるの力では、どれだけ足掻いても人間には勝てないのだ。
 見覚えのある扉を開け、明るい廊下に出てきた。左側に個室に繋がると思わしき扉が並び、一番奥にも扉が見えた。おそらくあそこが、私の最期の場所になるのだろう。どんどんと近づく扉に、体の拒絶反応も大きくなっていく。しかし、男が入ったのはその手前の扉だった。もしかして私の思い違いだったのだろうか、と少し期待をしながら部屋の中を見てみると、そこはいわゆる水浴び場だった。体を綺麗にさせてたまるか、と体に水を掛ける男に水を吹きかけたが、「元気なあひるだなあ」と笑うだけだった。私の期待した気持ちを返せと羽を大きく広げるが、男は慣れた手つきで羽を畳んで背中を掴み、丁寧に体を洗っていく。
 タオルに包まれて水浴び場を出た私は、ようやく一番奥の部屋に連れて行かれた。男の力には到底かなわないことに気づき、隙を見つけて逃げ出す作戦に変更する。やたらむやみに暴れても、体力を消耗するだけだ。あひるが教えてくれた通り、一番奥の部屋の様子は酷いものだった。彼の言葉に嘘偽りはなく、とても現実とは思えない光景をありのままに教えてくれていたことを知った。天井から下げられた皮の剥がれたあひるが何匹も並び、部屋の隅には動かなくなった汚れたあひるが転がってる。とてもこれから出荷するものとは思えないあひるの姿に、ここの人間がどれほどあひるを雑に扱っているのかが伺い知れるようで胸糞が悪い。部屋の中央で作業をしている人の姿があり、背中を向けているその人間に男が声を掛ける。
「今日はどれくらい持っていけそう?」
 しばらく作業に夢中になって返事をしなかったが、勢い良く振り返ると捌いていたあひるの首を掴んで差し出し、「これ含めて十二匹」とだけ言った。私は、差し出されたあひるを見たことがあった。小屋にいるはずなのに、なぜここにいるんだろう。私が小屋を出て、男の後を追っていて、あのあひるが小屋から出る時間なんてなかったはずなのに。水浴びをしている時、それとも、別の人間が小屋を訪れたのだろうか。
 顔はあのあひるだった。しかし、視線を下ろせば、私が知っているあひるの体ではなかった。赤い、皮を剥がれたあひるは赤かった。
「それも出荷? 捌くから置いといて」
「これも出荷だけど、ちょっと別。ペトラとレオの子供だから、羽が綺麗だろう。だから、繁殖小屋に連れて行こうと思うんだ」
「ふぅん、じゃあ死ぬまで産み続けるんだ」
「頑張ってもらわないとね」
 片手にあひるをもったその人はじっと私を覗き込んできた。髪を乱雑に一つに纏めた女性だった。その女性から目が離せなくなりじっと見ていた時、これまでずっと思い出せなかったことが滲むように浮かび上がってきて、一つの記憶になった。
 目の前にいるのは、私だ。人間だったころの私だ。若干茶色の混じった瞳も、二重も、父親譲りの眉も、唇の下に二つ並んだほくろも、全て思い出した。目の前に私がいる。私が、私を見ている。
「そういえば今度新しい子が来るっていう話は聞いた?」
「聞いた、それこそ繁殖小屋からくるんでしょ」
「そう、繁殖小屋に七年もいたんだって。ようやく解放されるみたいで良かったよ。ガワは男しか無かったみたいだから、性別は変わってしまうけれど、人間になれるだけありがたいよね。じゃあ僕はこの子を連れて行くから。また取りに来るよ」
 人間の私は軽く返事をすると、あひるに刃を突き立てる。もうあの女の目に私は写っていない、けれど私は、あの人から目が離せなかった。
「これからうんと頑張ろうね、ライラ」
 私はそれから、考えることをやめた。
おしまい! わあ
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ななし@eb8720
一箇所だけ神袋になっちゃってます…!
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向き
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