まさか違う神社だっただろうか、と、疑心暗鬼に陥っていると、ようやく建物らしい物が見えてきた。
深津は心底ほっとした。
目の前に見えてきた社はこぢんまりとしているが、木目も彫刻も美しい拝殿だった。あとひと息、と腹に力を込め、残りの石段を一気に駆け上がったとき、
リーン、
と、音がした。
深津がはっとして顔を上げると、拝殿の端の方に墨染の衣が見える。網代笠に脚絆、よく見ると草鞋を履いている。そういえば、修験道の修行が行われている山だったか……東北の深い山々は修行場としても有名だ。現代には似つかわしくない時代がかった格好も、よく考えれば自然なものだった。むしろ、こちらが異分子なのだ。
深津は僧侶の邪魔をしないよう、出来る限り足音を立てずに拝殿に近付いた。僧侶の方もこちらに気付いて、正面を開けてくれた。
賽銭箱の前に立った深津は、そこで困惑することになった。正直に言えば、深津は無神論者である。ろくに参拝の仕方も知らない。一瞬迷ったが、作法より気持ちが重要、と割り切ることにした。お坊さんは神主じゃないし、と言い訳しながら。
そうして、ひとまず手を合わせて祈った。何を?
なにを?
はっ、と我に返る。
一瞬だったと思うが、妙に時間が経っているようにも思えた。さきほど見た僧侶もいなくなっている。違和感というより、異物感か。いずれにせよ、当初の予定よりずっと時間を食っている。そろそろいつものコースに戻らないと、と深津は足早に階段を下りようとして、その手前に別の石段に続く道があることに気付く。見れば、そちらの方がずっと短いようだった。なるほど、300段はこちらのほうか、とやれやれと深津は別の階段へ足を向けた。
が。
何故だか一向に下界に近付かない。おかしいな、と後ろを振り返ると、既にかなり下って来ており、引き返すのも億劫になった。どうしてくれよう、と思って居ると、また「リーン」という鈴の音がした。
見れば、少し先にさきほどの僧侶が居た。道が広がって、杉の根元に大きな石がある。参拝者が座れるようにとの心遣いだろう。深津はひとまず、そこまで下りて僧侶に声を掛けることにした。
「すみません」
思わず主将の声になっていた。通りがいいので便利なのだが、相手はかなり驚いたようで、ふわっと衣の裾が翻る。
「おや」
と、僧は此方を振り返ると、笠を上げる。見たところ、壮年の……ゴローと同じぐらいだろうか。その人は、酷く美しかった。切れ長の目は真っ黒なのに透明度が高い。イケメンは見慣れている深津でも、思わず息を呑んだ。
そして、その僧侶はしばし深津を眺めていた。
何か、言わなくてはと、ようやく深津も気付く。声を掛けた目的を思い出し、声を、
「道に迷われましたか」
と、善く響く声が。吸い込まれるようなそれに、反射で頷く。頷いてから、さすがに失礼だと深津は慌てて会釈した。
「はい、登ってきた道より近いと思ったのですが、どうも……違うようで。このまま下りても大丈夫でしょうか」
「……成る程」
美麗な僧侶は頷くと、深津の背後を見上げた。そして、もう一度深津を見る。
「どうやら道を迷われましたね。あまり……良くない」
「えっ……?」
「此処は迷いやすい道なのですよ。心の隙に忍び込むものが居ます」
何を、と、問い返そうとしたが出来なかった。喉がカラカラに乾いていた。呆然とする深津に、その人は微笑んだ。
「今度は此方を下りなさい。そして、決して振り返ってはいけません。誰か、親しいひとの声がするかもしれませんが、それは全部まやかしです」
「はっ?」
「絶対に、です。振り返ってはいけない」
真っ直ぐに、その底の見えない黒い瞳が。
「そうですね……もし、迷うようなことが……足を取られるようなことがあれば、そのポケットの中のものを、後ろに向けて投げると良いでしょう」
「……ポケット?」
「ええ。でも、まず、誰に呼ばれても振り返ってはいけません」
そう微笑んだ僧侶が示す先に、また別の石段が現れていた。今度は先が見えない。戸惑いながらその人を見返すと、また柔らかに微笑まれた。ただ、その視線の鋭さに息を呑む。
しかし、他に取る道は見当たらなかった。
深津は腹に力を込め、強く頷く。そして、新しく示された石段の方へ足を進めた。そうして、ポケットの中のものを思い出していた。
「あれ、コレなんでしたっけ? えーと、ナントカタロウ」
「たろう?」
タロウですよ! と沢北は繰り返し、手に持ったキーホルダーを掲げた。ペットボトル飲料のオマケに付いてきたそれは、彼にも見覚えがあるキャラクタだったようだ。
「……なんとかたろうって」
「ウルトラマンタロウ」
「ウラシマタロウ」
「ウシタロウ」
「ウズベキスタン」
「ちょっと、ウから離れて下さい?!」
と、手を振って情報を遮断し(そもそも最後はタロウではない)、もうちょっとで思い出せそう、と悶える沢北の手を覗き込んだイチノが、ああと簡単に頷く。
「桃太郎じゃん」
「それだ!!」
「桃太郎忘れるとか、お前、本当に日本人か」
松本が真顔で突っ込んでいるが、この後輩のもの知らずっぷりを甘く見てはいけない。深津としては、むしろ桃太郎を知っていただけ上出来だと思った。ひょいと覗き込めば、確かに桃印の鉢巻きを締めた少年がモティーフになっている。
「あれですよね、鬼退治するひと」
「……人かな?」
「桃から生まれてるしなあ、どうだろう」
イチノと野辺の談に、言われてみると明らかに人外な気はする。思わず考え込む深津だったが、沢北はストラップが入っていた袋を見ながら首を捻っている。
「たしか、お供に鳥もいましたよね」
「雉な!!」
またも丁寧に松本が突っ込むが、類が合っているだけ(以下略)。しかし、改めてストラップを見てみると、
「これ、沢北に似てるピョン」
「えっ?」
「桃太郎が、か?」
ふはっ、と河田が吹き出すと、続けてイチノがあははと哄笑した。
「……ああ、確かに!」
多角的検討を終えた松本が、妙に真剣に言うのが更におかしくて、野辺とマネージャなどは呼吸困難に陥っている。ええっ、なんでそんなに笑うんですか!と不平を言う沢北を他所に、何故か桃太郎チームを編成するレギュラ陣。
「じゃあ沢北が桃太郎として、犬は松本かな、雉はイチノだよな」
「異論は無いピョン」
「猿は……深津、やる?」
「こんな計画性のない桃太郎、絶対イヤピョン、河田に任せるピョン」
「断らないで!? てか、かーたさんなら臼がいいですよ!」
……
「いや、桃太郎に臼は出てこないな」
「さるかに合戦だね」
「つか、臼とはなんだ、臼とは」
「ええっ、だって圧が河田さんっぽい!」
「圧って」
「オメーはよっぽどシメられてえみてえだな」
と、それはもうお約束通り、技を掛けられた沢北が泣き出すまでがセットである。
あとでさるかに合戦の絵本でも探そう、と深津は真剣に頷いたものだった。
果たして、そのときのストラップがいま、深津のジャージのポケットにある。
そのまま沢北に返し忘れていたのだ。しかし、日本昔話のストラップがいったい何の……という疑問は浮かんだが、もうだいぶ時間が過ぎている。まずはこの石段を下りきるのが、と階段に足を落として瞬間、
ぞわり、
と、当に総毛立つような。厭な予感がした。後ろだ。反射的に振り返ろうとして、さっき、僧侶に言われた言葉を思い出す。決して振り返るなと、誰が呼んでも振り返るなと。
ダッ、深津は一目散に階段を駆け下りる。一分一秒でも速く。これでも日本一走れるバスケ部の主将だ、足には自信がある。この、厭な感触を振り切る程の速さで。
石段は程々の高さがあったが、ほぼ二段飛ばしで駆け抜ける。しかし、後ろにある”何か”の気配はどんどん近くなっていく。ただ階段の降り口も見えてきた。これなら大丈夫、と深津がほんの少しだけ思った瞬間、声が聞こえた。
「おい、深津、大丈夫か?」
河田の声だった。はっ、と思わず振り返りそうになって、堪える。こんなところで、彼の声が聞こえるわけはないのだ。
「そのスピードじゃ、石段は危ねえぞ」
「もうあと少しだ、歩いても大丈夫だって」
「ここで転んで怪我でもしたら大事だろ」
「落ち着けって」
「そんなんじゃ膝を痛めるかも」
野辺、イチノ、松本など、皆の声が聞こえる。心配、叱咤、忠告、聞き慣れた声で、柔らかい言葉が忍び込んでくるが、その度に「誰が何を言ってもまやかしだ」という、僧の言葉が。
「ふかつさん!!」
はっ、と。
沢北の声だ。いつもの明朗な声ではない、切羽詰まった、縋るような声だった。いや、しかし、これは、
「すみません、俺、さっきの衝突で足を、」
足を?
「おまえ、怪我を」
しまった、と思ったがもう遅い。
深津は半身を返して、いま降りて来たはずの石段が半分、視界に入る。その、奥から……なにか、とてつもなくわるいものが、
来る。
ばっ、と再び身を反し、深津は更にスピードを上げた。しかし、背後から迫る気配はもっとずっと速く近付いて来る。まずい。
三段飛ばしで、ほとんど転がるように階段を下りる深津は、そこで改めて思い出す。ポケットの中のモノを、後ろに、と。
いつも投げているボールとは比べ物にならない小ささと軽さで、おまけに投げる先も確認のしようがないが、それでも深津は桃太郎のストラップを真後ろに投げた。
瞬間、
ぎゃっ、という濁った悲鳴と、「深津さん、痛い」という彼の声が聞こえた気がしたが、同じ過ちは二度とできない。深津は振り返らずに目の前の階段を無心で下りきった。