お……い。
おい……。
……なあ……、聞こえてるだろ……?
お前が……。
お前さえ……居なければ……。
「っ……!!」
自分に向けられた殺意に、意識が覚醒すると同時に、身を翻して避けた柊夜に
聞きなれた音と硝煙の香りが届いた。
急速に冷めていく頭とは裏腹に、
心臓は破裂しそうな程の速さで脈を打つ。
「……誰だっ!」
即座にショルダーホルスターから支給品であるSAKURAを抜いた先には、背の高い男がいる。
「……」
答えることのない男の目が、ちらりと見えて柊夜は呼吸を忘れた。
その高い背を知っている。
その目の色を、
髪の色を、手に持っている銃を、
柊夜は知っている。
「……おまえ……は……」
続けようとした言葉は、しかし口から溢れた赤色に阻まれて音を無くした。
聞こえた発砲音、ぐらりと揺れる視界。
左手に持っていたはずのSAKURAがガチャりと地面に落ちる音が遠くに聞こえる。
「……ぇ……?」
ガタガタと小刻みに震え出す身体で無意識に胸元へと右手をやると、ベッタリと鮮血が手を濡らした。途端に、遅れて焼きつくような痛みが身体を駆け巡る。柊夜は口からごぽり、と血を吐くとうつ伏せに崩れ落ちた。乾いた地面に、粘度のある赤い液体が吸われていく気配がする。
急速に生命力を奪われ、冷えていく身体。
呼吸をしようとする度に、ヒューヒューと空気が漏れる様な音が聞こえて、
柊夜は肺を撃たれたことを自覚した。
「……おま……え……なんで……おれ……」
指先すら動かすことが出来ずに、言葉を漏らす柊夜の髪を、男は荒っぽく掴むと無理やり顔を上げさせる。
鉄の香りに混ざったふわりと甘い香りに気づいたのか、男は憎々しげに舌打ちをすると、
柊夜の額へと、リボルバーを突きつけた。
「……返せ……、それは……全部俺のだ……。
お前が……お前が居なければ…。俺の……」
まるで処刑の様だと、痛みで安定しない思考の中で
柊夜はぼんやりと考える。
ぼやける視界に写った6桁の数字に違和感を感じながら柊夜は最後の瞬間を脳裏に刻みつけようと男を睨む。
淀んだ大きさの違う緑の瞳の奥に殺意と絶望を感じ取った瞬間に、柊夜の意識は消し飛んだ。
「っ・・・はぁ・・・!」
飛び起きた柊夜の目に映ったのは、人通りの少ないどこかの裏路地の室外機だった。
いつの間にこんな場所に来たのか、全く思い出せない。
「・・・うー、頭痛い・・・」
いつもの様な偏頭痛ではなく、ガンガンと殴られている様な痛みに頭を押さえながら、体を起こす。
立ち上がりふと目に入った右手が赤く染まったように見えて、柊夜は慌てて自身の身体に触れた。
幾度も外傷がないことを確認したにもかかわらず、心拍が下がらない。
撃たれたときの痛みも溢れる血の味も、突きつけられた銃口も、
どれもこれもがあまりに生々しく感覚を残していて、夢と思い込むにはあまりにも現実的過ぎた。
「・・・こっちが夢か、さっきのが夢か・・・」
今考えたところで、どうにもならないと柊夜は首を振り、近くの壁にもたれかかると頭を整理するために独り言を始めた。
「遡れる記憶・・・、殺意で起きて・・・。
その前は・・・?思い出せないな・・・。となると、何かいつものパターン・・・。
・・・ひとまず、生きているからあの出来事は置いておくとして・・・。
場所と・・・。千聡は・・・?」
いつも隣にいる相棒を思い出して、柊夜は慌ててスマホを取り出す。
電波を確認すると、どうやら圏外にはなっていないらしい。
安堵のため息を一つこぼして、柊夜は着信履歴を開く。
何度も連絡をしているおかげで、千聡の番号は一番上だ。
躊躇いなく通話ボタンを押して、スマホを耳に当てる。
いつも通りなら3コールで千聡は電話に出るだろう。
「・・・?」
しかし、柊夜がいくら待っても、スマホの向こうではコールが鳴り続いているだけだ。
1分ほどでコールが切れ、真っ暗な画面を柊夜は見つめる。
「・・・千聡」
同じように何かに巻き込まれたのか・・・?
まさか・・・
そこでふと、柊夜は起きる前の出来事を思い出す。
フードをかぶった男。
あれは、まるで自分そっくりだった。
「俺だとして・・・。でも・・・、何か違和感が・・・」
記憶を辿って最後の瞬間を思い出した柊夜は、
慌てて手当たり次第に入っている連絡先に電話をかけ始める。
自分にそっくりな、あいつが持っていた銃の認識番号が、千聡のものだったと気がついたからだ。
「頼む・・・!誰でもいいから出ろ・・・!」
あのSAKURAを本人以外が持っているなら、誰か一人くらい事情を知っているはずだ。
職場の同僚か、あいつの家族か、レイやカイでもいい。
上から順番にかけた電話は、それでも誰一人として出ることがなかった。
「この電話は、現在使われておりません」
何度も連絡をしていたはずの番号から流れる機会音声に、柊夜はゆっくりと手を下ろす。
「・・・どうなってるんだよ。こんなにかけて、誰も・・・出ないなんて・・・」
使われていない電話がそんなにたくさんあるわけがない。
となると、考えられるのは、こちらの着信を拒否しているパターンだ。
「・・・動かないと」
いつしかの事件を想像して、振り払うように柊夜は首を振る。
あのときだって、魔術的なもので周りが惑わされていただけだった。
今回だってまだわからない。
「・・・連絡が取れないなら、直接探す。それだけだ」
ぐるりと見渡した裏路地には、目につくものはない。
スマホをポケットに突っ込んで柊夜はこの場所を後にした。
「・・・あれ、なんだ・・・日葵駅の前か・・・」
路地から出た柊夜は、目の前の見慣れた景色に瞬きをする。
目の前に広がるのはいつも通勤に使う駅だ。
「この辺の裏路地は、一通り知ってると思ったのにな・・・」
出てきた場所に疑問を抱きながら、千聡と住んでいるいつもの家への道を足早に歩いて行く。
「・・・」
幾ばくかも進まないうちに、柊夜は周りからの悪い感情を感じ取り、辺りを見渡した。
周囲の視線が酷く痛い。
ちらりと視線を向けた先にいた女性は、柊夜と目が合うと視線をそらして急ぎ足でいなくなった。
その反応に、柊夜は眉をひそめる。
そう大きくないこの駅では、柊夜はそこそこ有名だ。
背の高さや特徴的な背格好は覚えられやすい。
その上、仕事でもこの辺りではそこそこ大立ち回りをしてきた。革ジャンと革靴の刑事は、印象に残るだろう。
しかし、今までこれほどに明確なマイナス感情を向けられることは一度もなかった。
まるで悪いものでもあるかの様に、道を譲る人々を横目に柊夜は早足で駅前を通り向けて、家へと向かう。
ほんの10分ほどで、我が家へとたどり着いた柊夜は、いつもの様に鍵を取り出し、家の前で立ち止まってしまった。
「・・・高・・・松・・・・・・?」
結城、と書かれているはずの表札には、別の名前が掲げられている。
千聡がお気に入りといっていた、ブルーの車がいるはずの車庫に止まっているのは7人乗りのバンだ。
「・・・なんで、別のやつが・・・」
何度周りを調べても、この場所で間違いない。
引っ越す話なんてしていない。
「・・・そんなこと、あるか?」
混乱したまま、柊夜はその場をひとまず後にする。最優先は家よりも、とにかく千聡だ。
「千聡を・・・知ってそうな・・・。・・・イッセイのとこ・・・」
家族なら、きっと知っている。
即座にその思考に至った柊夜は、駅の方へと駆け出す。
先ほど電話をかけた中に、もちろんイッセイはいた。
出なかった理由は分からないが緊急事態だ。
頭を下げてでも情報が欲しい。
革靴を鳴らして走る柊夜を、冷たい目線がいつまでも追いかけていた。
「すまないが、君に話すことは何もない、帰ってくれ」
「・・・頼む!まっ・・・」
言葉を言い終わるより早く、バタンと玄関を閉められて柊夜は途方に暮れる。
家族なら、父親なら助けてくれると思った。
何か知っていると、信じてくれると思った。
何かがおかしいこの町で、誰よりも千聡を心配しているはずの家族に真っ正面から敵意を向けられた柊夜は、爪が食い込むほどに手を握りしめる。
「・・・理由は、分からないけど。嫌われたもんだな・・・」
いつの間にか張り詰めていたらしい息を吐きながら、握りしめた手をほどいて、柊夜は来た道を引き返す。手がかりは何もなく、助けてくれる人もいない。
気を抜いたら座り込んでしまいそうな失意の中、ふらふらと目指すのは、幾度となく同じような現象に巻き混まれた友人たちの家だ。
彼らなら、何かに惑わされていても、話くらいは聞いてくれるはず・・・。
希望的な観測と分かっていても、ほかにできることも思いつかず、柊夜はそう遠くないレイの家へと向かった。
通りすがりの人が何か噂をしている気配がするが、その内容に耳を傾ける気力もない。
小石の様にぶつけられる負の感情を受けながら、気がつくとレイの住むマンションにたどり付いていた。
「・・・いたら、いいな」
かすかな希望を抱えて鳴らしたインターホンには、やはり反応がない。
そもそも、家の前にジープが止まっていないから、外出中だろう。
諦めて振り返った柊夜の目に飛び込んで来たのは、郵便受けだ。
「うん・・・?レイって、そんなに手紙、貯めるタイプだったか?
仕事関係だって多いだろ・・・」
はみ出すほどに詰め込まれた郵便受けに近づいて、そのうちのチラシを抜き取る。
少し風化して色あせてしまっているそれは、随分と古く、1ヶ月以上前の日付が書かれている。
「・・・レイ?・・・あいつ、帰ってないの?」
確かに、彼も電話に出なかった。海外にでも出ているのだろうか?
「・・・当て、外れたな」
探せる場所がなくなって、柊夜は壁にもたれたままズリズリとその場に座り込んで頭を抱える。気力が抜けると頭痛が酷くなって、うまく考えることも難しい。
「・・・薬、持ってないし。・・・一旦、寮に帰るしかない・・・か・・・」
壁を頼りにどうにか立ち上がって、柊夜はもう一度、友人の家をちらりと見ると、ふらついた足並みで帰路についた。
頭痛でぼんやりとした意識のまま電車を乗り継いで、自分の寮へと柊夜はたどり着く。頭痛薬を飲んで、人のいない場所で休憩がしたい。誰とも知れない相手からの視線は、柊夜の精神力を随分とすり減らしている。
寮のエレベーターを降りて、自分の部屋への角を曲がろうとして、その向こうからの大きな音と怒鳴り声に柊夜は身を固くした。
大声で自分の名前や暴言を吐くその声に、柊夜は覚えがない。
この場所は警察の関係者以外は入れないはずだ。
ならば、部屋の前でそのような行為をしている輩も警察の関係者なのだろう。
「・・・知らないやつが、また・・・。千聡の家も、別人が住んでた・・・」
明らかに攻撃性を孕んだ声で、何度も呼ばれる名前に、頭痛がまた酷くなってめまいがする。
「Shoot・・・。どこか、休めるとこ・・・」
あの様子では、見つかったら面倒なことになるのは目に見えている。
視界がゆがむ感覚を覚えながら、柊夜は自分の部屋にも戻ることもできず、再度エレベーターに乗り込んだ。
機械の音がして、扉が閉まる。
他に人がいないこの空間がずっと続けばいいのに。
ろくでもないことを考えながら、柊夜は今までの情報を痛む頭で整理する。
「知らないやつが、住んでる家・・・。帰っていないヤツ・・・、それに町の人の反応・・・。
考えられるのは・・・」
よく似た別の場所。
「あり得ないっていいたいとこだけど・・・、そもそもあの夢の後じゃ・・・。
でも、町まるごと一つ・・・?
・・・どちらかというと、俺の思考がバグってないかの方を疑うべきところだよな・・・」
狂人は自分では自覚はできない。みたいなことはどこかの本にあった気がする。
もしも、自分の方が自覚なしに狂っていつのだとしたら・・・。
一階に到着の音がして、柊夜は意識を現実に連れ戻す。今のところ、それを示す様な情報も無い。
根拠のある情報を手に入れてからでも遅くは無いだろう。
「とはいえ・・・、情報・・・。この町で何が起きていたのか、
今の状況・・・、早いのは職場だけど・・・」
町でのあの視線の種類を考えて、柊夜は身を震わせた。それは例えば、問題を起こした相手や容疑者に向けられるような、不信感と嫌悪感の視線だ。連れて行く犯人に向けられたものは散々見てきたが、自分が対象になると想像以上に消耗する。
そんな視線を向けてくる相手が一人二人ではないということは、相当なことをしたことになっているのだろう。
少なくともニュースレベルの。
「・・・ニュース。
数日前のものをさらうなら、新聞とかある場所なら・・・。
ネットも使える場所で・・・」
平日に人が少なくて、情報が手に入る場所。
「・・・図書館」
確かバイクで15分ほどの場所に、市立図書館があった。
何度か心理学の本を借りたことのある居心地のいい場所だ。
バイクの鍵も、家の鍵と一緒に持っているし、ヘルメットはおそらくバイクに。
自分のキーケースに鍵があることを確認して、柊夜は自分の愛車が止まっているはずの寮の駐輪所へと向かった。
いつもの駐輪所に止まっている愛車の状態を見て、柊夜はその場に立ち尽くしてしまう。
場所も、機体も間違いなく自分のもの。
日本に来て、ようやく自分で買ったお気に入りの。
そして近いうちに妹に譲ることになっていた大型バイクは、誰かが故意に蹴り倒したのだろう様子で、整備もされずに放置されていた。
「・・・」
のろのろと近づいて、ハンドルを握るとテコの原理でバイクを引き起こす。長身の柊夜でも持ち上げるのが大変な愛車は、本来よりもわずかに軽い。
その感覚でガソリンがあまり入っていないとこが分かった。
ハンドルやシートには汚れた雨にさらされたままだった様子の跡も残っている。
「・・・。整備、されてない・・・」
どうにか起こしてスタンドを立てると、倒れていた側面のカウルには大きな傷が走っていた。
割れていないだけ、まだよかったと自分に言い聞かせて、柊夜はそっと傷をなぞる。
「大事に、してもらえなかったんだな・・・。ごめん・・・」
大切なものにつけられた傷に、柊夜の胸がチクリと痛む。
怖々、自分の持っている鍵を差し込むと、案の定、エンジンランプがついて、このバイクが自分が乗っているものと全く同じであると理解してしまった。
よく似たこの世界の俺は、一体何をしているんだろう。
千聡とタンデムで出かけた、バイク。
これにもう一度乗りたくて、恐怖症を克服するのに足掻いたこともあって。
逆に千聡が吹っ切れる理由にもなって・・・。
だからこそ、柊夜にとってこの愛車は宝物だ。
楽しいことも、悔しいことも共にして。
いつでも二人で乗れる様に丁寧に整備をしていた柊夜のバイクはいつも新車の様だった。
それなのに、この世界の愛車は、傷だらけで雨ざらしのまま、放置されている。
ますます、何かがおかしい事に確信をもって、柊夜は捨て置かれた自分のヘルメットを被った。
エンジンをかけると不安定な音を立てながらも、まだ壊れてはいなかったバイクは、開いたスロットルに合わせて低く唸り声をあげる。
スタンドを蹴り上げて、動き出すと柊夜は一気に愛車を加速させ、どんよりと重い雲のかかる町の中を、黒い弾丸の様に走り抜けた。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出す中、
入り口の自動ドアを抜けて柊夜は図書館へと足を踏み入れる。
無音に近い建物の中で、カツンカツンと柊夜の木底の足音がやけに大きく響いた。
「・・・確か、新聞。ここは1ヶ月とか、ストックされてたはずだよな・・・」
平日の昼間で人も少ないこの場所では、おのおのが自分の作業に集中している様子で、
駅前にいたときの様な刺さる視線が少ない。
小さく息をついて、柊夜は今更自分が随分と気を張っていた事に気がついた。
バイクを飛ばしている間に、少しは気が紛れたのか頭痛の方は今までよりは落ち着いたらしい。
一番奥の机を陣取って、ラックから引き抜いてきた1週間分の新聞を調べ始める。
ほとんどの物は、柊夜が今まで見たことがある内容だ。
「・・・、このニュースは、見覚えがある・・・。こっちの事件も。
自治問題も・・・。・・・やっぱり、おかしいのは、俺の方か??」
新聞は普段取っていないが、スマホで見たことがある記事や、自分たちが担当をした事件の詳細ばかりで、この場所が別世界であると思わせる様な内容がほとんど見当たらない。
「・・・、何か・・・無いのか?」
いくつ目かの新聞を広げた柊夜の手が、急にピタリと止まる。
ほんの小さな、行方不明者の呼びかけのなかの、たった一行。
その小さな文字を、柊夜の目は見逃さず、
しかし、それを脳が理解することを拒絶した。
『結城千聡 28歳 男性 令和5年2月16日』
「・・・ちさ・・・?・・・え・・・?」
書いている名前に頭が真っ白になる。
同姓同名が少ない名前だ。その上、年齢や性別まで同じ別人は可能性が限りなく低い。
「行方……不明って…、そんな・・・わけ・・・。そんなわけ・・・あるか・・・!」
思わずこぼれた声が想像以上に館内に響いて、周りの何人かが怪訝そうに柊夜を見る。
その視線すら気づかずに、柊夜はすぐに自分のスマホを取り出して、書かれた日付のニュースを調べ始めた。
「2月16・・・、16・・・。待って・・・。2月16日って・・・」
ドクリ、心臓が1度大きく跳ねる。
やけに聞き覚えのある、その日付。
何があった・・・?
あの日、俺は、朝から千聡をたたき起こして。
それで、千聡が大泣きして。
「・・・目、治った日・・・」
古いニュースサイトの見出しに、柊夜は絶望の感じながら、目で文字を追った。
『警察官失踪事件。新たに1名の行方不明』
「・・・警官、失踪・・・。あの白い部屋の・・・。
結城・・・千聡・・・巡査部長が・・・失踪・・・」
事件の内容は変わっていないのに、千聡が戻ってきていない・・・。
「あいつらが・・・、失敗した、世界・・・??」
柊夜の知るこの事件の真相は、人間には到底理解できない存在が引き起こした出来事だった。
邪悪な神を名乗る者の気まぐれに巻き込まれて。よく知った友人たちとともに、異空間に閉じ込められて。そうして帰ってきた時には、柊夜の失明していた右目は光を取り戻していたのだ。
だが今、このニュースの前後をいくら調べても、事件が解決したという内容は見つからない。
そして、数日前の新聞の、行方不明者の名前。
「・・・だから、あいつの目は・・・」
内容を理解して柊夜が思い出したのは、夢の中での処刑の事だ。
あの時に自分を殺した犯人は、やはり、今いるこの世界の柊夜自身らしい。
やけに印象に残っていたあの男の目は、左右で瞳孔の大きさが違っていて、網膜剥離で失明していた右目が治っていない事を物語っていた。
「・・・あの事件で、千聡がいなくなって・・・、俺の目は、治らなかった、のか・・・」
最後の瞬間に見た、拳銃の認識番号が千聡のものだったのは、返す前に千聡が居なくなったからに違いない。
目が治っていないなら、この世界の俺はSAKURAを支給されていないのだから。
別れた際にか、預かった際にか、とにかく本来なら国へと返さなければいけない物を隠し、持ち続けているのだろう。
「・・・」
敵の存在が何か、この世界でどんなことが起こったのか分かったことは多い。それでも、この世界の自分が自分を殺そうとする理由は、柊夜には想像がつかなかった。
「でも、2回目・・・なんだな。この世界では」
柊夜自身、その痛みはよく知っている。そう遠くない昔に、よく似たことをしているのだから。
相棒を、神話事象で亡くすという。
「・・・それにしては、おかしくないか・・・?」
ふと、流れの違和感に柊夜は首をかしげる。
何故、千聡がいなくなったのに、必死に探している様子がないのだろう。
自分と同じ存在なら、どんなことよりも先に、千聡を取り戻すことを考えるはずなのに。
今度は誰よりも大切な人が行方不明になっていて。
することが自分の殺害は、どうにも筋が通らない。
「いなくなった千聡を、探しもしないで?」
なにか、もっと大切な部分が、欠けて気がする。
「家に、帰れば・・・。
どうせ、この世界でも俺は日記くらい書いてる」
別世界の自分の行動なら、情報さえそろえば推測ができると踏んで、
柊夜は散らかした新聞をまとめるとラックへと丁寧に戻した。
「・・・、この時間から戻れば、さすがにさっきのヤツもいないだろ。
・・・雨、降ってきちゃったけど」
ふと外を眺めると、外の雨は本格的になっていた。
電車を使いたくなくてバイクで来たのは悪手だったかも知れないと、柊夜は少しだけ後悔する。人目が気になるからバイクで移動したのはいいが、
帰りは濡れていくしかないだろう。
「また、革ジャン、潰すなこれ・・・」
お洒落さよりは、安全性を考えて着込んでいる上着は、雨には滅法弱い。
買い換える前提で使ってはいても、気に入っている物を潰すのは心が痛む。
「・・・仕方ないな。止むまで、待てないし」
雨の降りしきる中、傘も差さずに長い髪をなびかせて、柊夜は再度、傷ついた自分の愛車の元へと帰って行った。
ー
「・・・あーあ・・・、ずぶ濡れ・・・」
どうにかこうにか、土砂降りの中を走り抜けた柊夜は、駐輪所でくしゃみを一つ。
案の定、服は水をしっかりと吸ってしまって、乾かしてももう使い物にならない気配がする。
重くなった革の上着を脱いで腕に抱えると、すっかり日の暮れた駐輪場を抜けて、柊夜は建物の中へと入っていく。
中途半端な時間だからか、人に出会うこともなく自分の部屋にたどり着いた柊夜は、扉を見て眉を潜めた。
「・・・随分と、お行儀の悪いことで・・・。桜が泣くぞ・・・」
柊夜の部屋の扉には、何度も蹴りを力任せに入れたらしいヘコみや
靴の跡が複数ついていた。
「靴の種類は・・・多いな・・・5,6・・・。サイズも違うから、別人・・・」
どうやら、よほどの反感を買っているらしい。
「・・・また事が済んだら、上に報告してやろ・・・」
姿を見られるのは適切ではないと判断して、柊夜は自室の鍵を差し込む。
愛車の時と同じように、小さな音を立てて鍵が開いた部屋に、柊夜は滑り込んで鍵をかけた。
普段は使わない、チェーンロックも追加して、部屋へと向き直る。
「・・・、うへ・・・」
思わず、柊夜は声を上げて、薄暗い部屋の中を睨む。
明かりをつけることなく、この部屋が、こっちの世界では毎日使われている事が雰囲気で分かった。
「そりゃ・・・、そうだよな・・・。千聡の家が無いなら・・・、俺はここで住んでる・・・」
置かれた靴も、適当に引っかけた上着も、つい最近使われた形跡があったし、部屋からは、もう自分は随分前に吸うことを止めた煙草のにおいがする。
少し警戒しながら、自分の家へと足を踏み入れた柊夜は、キッチンの横に置かれた袋を見て呆れてため息をついた。
「・・・、よっぽどだな、これ・・・」
見つけたのは安物の、シードルやビールの瓶だ。
「このタイプのって、思いっきり酔うんだよな・・・。しかもこの量・・・。むしろ潰れるために飲んでるとかだ・・・」
少し特異な体質の柊夜は、ウィスキーやラム酒のような蒸留酒には滅法強い半面、ビールや日本酒、ワインなどの醸造酒では、簡単に酔っ払ってしまう。
だからこそ、普段は「高い酒しか飲まない」などとちょろまかしているのだが、この世界では違うらしい。
自分自身の部屋を他人事の様に分析するという、
不思議な経験をしながら柊夜はさらにキッチンを見渡す。
「・・・料理、ほとんどしてないな。ちゃんと食ってんのか?まあ、んな訳無いか・・・」
申し訳程度に置かれている食器は、置きっぱなしのようで使われている気配が無い。
そうなれば、食べていないか、シリアルバーで済ませているんだろう。
「外食いってるとは、思えないし・・・」
だめだこりゃ・・・、と頭を振って、柊夜は自室にしている奥の部屋へと足を進めた。
そう広くは無いワンルームを見た柊夜が感じたのは、まるで他人の部屋のような感覚だった。
正確には、ある意味その通りなのだが。
自分と同じ存在が暮らしている、自分と同じ部屋なはずなのに、なんとなく、居心地が悪くて、柊夜はその違和感を探そうと部屋を調べ始める。
「・・・気持ち悪い」
視覚的な不協和音のような違和感に、治まっていたはずの頭痛が戻ってくる。
ズキズキと響く頭を押さえながら、棚や机を見渡すと、柊夜はすぐにその違和感の原因に思い当たった。
「・・・ない」
無いのだ、自分なら持っているはずの大切な物が。
「・・・ペンダントも、指輪も・・・、グラスも。
・・・緑のコートも無かった。バクちゃんや、ドリームキャッチャーも・・・」
出かけるときにもお守りとして持ち出している大切な物も、一緒に買いに行った思い出の物も、この部屋には無い。
少し荒れた部屋には、千聡を思い出させるものがあまりにも少ないように、柊夜は感じた。
ぼんやりと近くに椅子に座り込んで、
思い浮かべた大切なものと、それを貰った時の事を一つ一つを思い出す。
3つほど出来事を思い出すと、不意に答えに辿り付いて、柊夜は震える手で顔を覆った。
「・・・あるわけ、ない。あれは・・・、全部あの事件より・・・後の物だ・・・」
柊夜が大切にしている物のほとんどが、
これから起きるはずの出来事で手にするもので。
千聡が居なくなったこの世界では、起こっていないイベントなのだ。
付き合って、5ヶ月と少し。
半年にも満たない間の2人には、まだ大切な宝物はほとんど無い。
起こるはずだった出来事に寂しさを感じながら、
柊夜は普段よりも少し荒れた様子の部屋を横切って、1番奥に置かれたデスクに近づくと、置いてあるものを見渡した。
なにか、気を紛らわせて集中していないと、崩れ落ちてしまいそうだった。だからこそ、自分の部屋を、捜査だと思い込んで身体を動かす。
自分が何をしていたのかを調べるなら、
普段から書き物もゲームも食事も済ませている
この場所が最も証拠が多いはずだ。
大きくは代わり映えがしないデスクには、
沢山の本が棚に入らずに積み上げられていて、
中央には、黄色のメモパッドどペンが投げ出されている。
ごちゃついた机の上に、見慣れた物と見慣れない物の組み合わせが並んでおいてある事に
気がついた柊夜は、ん?と眉を潜めて手を伸ばす。
手に取ったものは、小さな瓶に入った香水だ。
「こっちは・・・、俺のだな。仕事用の。・・・これは?」
相手への印象に影響を出す物の一つである香水を、柊夜は仕事の時と私用で使い分けている。おいてあるのはその内の仕事で使う組み合わせだ。
重ねて使う物の一つをしれっと千聡とダブらせているのだが、一緒に買ったはずの千聡の香水が1つ、違う物になっている。
「これ、別の店の・・・。って事は、重ねて使ってない・・・」
見慣れないその香水は、自分の使っているシリーズとは違い、高級なブランドのロゴが入った物で、手書きのメッセージカードが添えられていた。
そのカードを見ると、見慣れた柊夜の字で千聡への言葉が書かれていて、
バレンタインの贈り物だということが分かった。
ほとんど減っていないが、渡せなかったのだろうか。
「バレンタインに、贈ろうとした物が違う?
・・・しかも自分の分は買って、わざわざ千聡には別の・・・」
柊夜の記憶の中では、自分の香水と千聡の香水を同じ店で、ダブらせて購入して、バレンタインにセットで渡したのだ。
遠回しに周りの虫よけを期待して。
この世界の柊夜は、それをしないで別の香りを贈ったということだ。
「・・・」
キャップを外して見ると、ふわりと香りが漂った。
「・・・使ってあるじゃんか。・・・なんでうちにあるんだ?」
プレゼントにして、使ってもらった物を、わざわざ千聡が返すとも思えなくて
柊夜は首をかしげる。
バレンタインから数日で、事件に巻き込まれて行方不明になったとして、
持ち歩いていた拳銃ならまだしも、香水を預かる機会など無い様に思える。
「つか、センス無いな・・・」
鼻に届いた香水の香りに、柊夜はぽつりとつぶやいてから、顔を顰めた。
自分で選んだらしい物に文句をつけるのはおかしな話だが、高級なはずの香水の香りは、千聡に似合わないと感じたのだ。
「なんか、お利口さんで・・・、少しきつい・・・。
これが似合うと思ったの??俺が・・・?」
もっと、優しくて甘い香りが似合う。
そんな感想を抱いて、柊夜は香水を物と場所に戻した。
「そういえば、あの時、あいつ顔しかめてたな・・・」
髪を捕まれたときに明確に男が表情を変えたのを柊夜は思い出して、自分で手首の残り香を確認する。
かすかに届いたのは、休みの時に使う香水の香りだ。
ここに無い、千聡の物と自分の物を重ねて使う香りは、仕事用の物よりも少しだけ甘い。だとしたら、あの時にこの香水の匂いにあの男は気がついたのだろう。
同時にその意味も。
「・・・千聡との距離、俺たちより遠いのかな」
同じ事が思いつかなかったのか、思いついてもできなかったのか。
どちらにしても、香水は別の選択をしたという結果だけをそこに示している。
そのことに少しだけさみしさを感じながら、柊夜はほかの手がかりを探し始めた。
「ふーん……本はまだ読むんだな……。」
重ねて置かれている本を眺めてみると、
ほとんどは日本語で書かれた心理学やプロファイリングの本だ。
「……心理学……、こっちは、プロファイル……。読んだことあるのばっか…。ん……?」
積み重なる上の数冊が見覚えがなく、
柊夜は思わず手に取る。2冊の本はどちらもシールタイプのカバーがされていて、自分で買ったものでは無く、借りてきた物らしい。
裏を向けて場所を確認すると、下に貼られたバーコードシールには、先程訪れた市立図書館の文字が書かれている。
「あの図書館のか…。神話生物の辞典と……、『人生の幸福論』?」
自分で選ぶにしては随分と抽象的なタイトルの2冊に、柊夜は首を傾げた。
オカルト本と、自己啓発。
どちらの本も、柊夜としては根拠がない為に、信用をしていない分野の物だ。
心理士としても、刑事としても、
根拠の必要性は重々承知している。
本そのものを否定はしないが、
学術的な根拠の無い噂話のような情報は、自分から選んで読む類からは大きく外れているのだ。
それなのに、いくつかのページにはノートパッドを破いたものが栞の代わりに挟みこまれていた。
使っているメモを破って気になるところに挟み込んでおくのは、柊夜の読書時の癖だ。
軽く読む時でもない限り自分で要点をまとめながら読む事が好きな柊夜は、気になる部分があると栞の代わりにノートパッドを破いて間に挟んでおく。付箋などは本が痛むから好ましくなく、かと言って栞を使うにはページが多すぎる故に、仕方なく取っている方法である。
「……わざわざ、こんな本読むか?
なにかプロファイリングの為にしてるとかならともかく……。図書館で借りて…………?」
柊夜は怪訝そうな顔をして、手に取った『人生の幸福論』という本のメモのページを開いた。
紙を挟んだなら、何かしら意図があるだろう。
メモの挟まったページには、「幸福量保存の法則」というタイトルが書かれている。
法則などと明記されているが、参考文献がある訳でも研究がある訳でもないスピリチュアルな物だ。
さらりと流し読みをしても、柊夜にはこの本の内容に同感ができなかった。
「世界全体で見た、幸福と不幸の量が同じ・・・?
誰かが幸せだと、誰かが不幸になる・・・。
一定の幸福を、人間が奪い合っている???
何言ってんだ?」
書いてある言葉は分かるのに、何一つ理解ができずに柊夜はため息をつく。
こっちの世界の俺は何を考えてこのページにメモを挟んだのだろう。
めくった次のページには、著者の反論らしき物が書かれているが、そもそも信じていない内容には興味を無くして、柊夜はその本を閉じる。
適当なデスクの上に先ほどの本を置くと、もう一冊を眺めた。
「神話生物事典」と書かれたその本は、そもそも大人向けですらない、児童向けの占いや図鑑の様な印象を受ける物だった。
「児童書・・・???」
こちらの本には1カ所だけにメモが挟まれていて、そのページを見てみる。
よく分からない挿絵と共に書かれているのは、児童向けにしては難しい言葉で書かれた、生物の説明だった。
「それは、別次元に住んでいるとてつもなく、巨大な生物で、鏡や水たまりといった反射面を通して目に見えることもある存在である。
・・・狂気を持つ物を標的として、悪夢を送り込んで・・・、・・・完全に狂気に至った者を、・・・刻み食らう」
ぞくり、冷たい何かが背中を伝う。
『狂気を食らう者 ゴグ=フール』
とタイトルのつけられたそのページの内容は、子ども向けにしては奇妙なほどリアルで、柊夜はつい最近、巻き込まれた事件で、目にした古い書物を連想した。
「・・・こんな、子ども向けの本に・・・、なんで、あの本みたいな気味悪さが・・・」
この文章は、あの時に読んだ「ネクロノミコン」と同じだ。
ただのおとぎ話では無く、実在する存在が描かれている。
直感がそれを掴むと同時に、柊夜は閉じた本をベッドへと投げ捨ててしまっていた。
ばんっ、という本が壁にぶつかる音で我に返った柊夜は慌ててベッドへと向かうと、本の状態を確認する。
どうにか折れたりはしなかったようだ。
図書館の本は破損したときの買い換えがそこそこ大変だった事を思い出し、痛めたりしなくてよかったと小さく息を吐く。
デスクへと戻って、二冊の本を元通りに積んでから、柊夜は腕を組んで自分の思考の整理を始めた。
「……俺が読まない類の本が、2冊……。
魔導書と…幸福の話……。
幸運の話にあったのは…、幸福の割合……。
今世で不幸なら、来世でどうとか……
人の幸せは取り合ってるとか……」
魔導書に書かれた化け物は狂気につられるとかかれていた。
「……繋がりが見えないな……」
狂気に寄ってくる化け物と、幸福の話。
どうやら思ったよりも簡単には自分の考えを読むことは出来ないらしい。
「……歴史が違えばそんなものなのか?
それとも……別の理由か……。
自分で想像が出来ないことしてる?自分が?」
今までに心理の知識を持つ立場としてアメリカでも、日本でもプロファイリングや相手の行動の
分析をしてきたが、ここまで理解ができないパターンは初めてだ。
しかも、その対象が自分自身だというに。
「普通なら、もう少しは論理的なはず・・・。支離滅裂過ぎて・・・」
まだ、見落としている事があるのだろうか?
「・・・。気味が悪いな・・・。これが俺なら、可能性として持ってるって事だろ・・・」
確かに、目の前に自分とそっくりそのままの人物が現れたら、許せないと思う気持ちは理解ができる。柊夜にとっては自分と同じ成り代われる可能性のある存在というのは、許しがたい者だ。言葉で言い表せるほど、その感情を理解がきている訳では無いが。
「っていっても・・・、出会った瞬間話も聞かないで殺しにかかるか?」
あの時の“俺”は明確に殺意を持って、初めから殺すつもりだった。
そうで無ければ、躊躇いなく相手の急所を狙わない。
射撃に自信がある自分でも、相手を殺す行為には酷くためらいがある。
自分は警官だ。
アメリカの銃社会で育って、仕事として、相手を射殺した仲間を見てきた。
それでも、自分の手ではまだ相手を殺したことは無い。
狙えばできるからこそ。持っている力を、生きて償わせる事に使いたい。
大勢の人を助けるために泥を被る事くらいはためらわないが、私欲の為にその力を使わないと誓っている。
「日本警察の、桜の誇り。・・・こっちの俺は無くしたのかな・・・」
千聡とバディを組んで、初めて思いっきり本気で怒られた時に、教えてもらったその考えかたは、柊夜の価値観の根底まで食い込んでいる。
その部分を無くした“俺”は果たして同じ存在なのだろうか?
「何があったのか、気になるな・・・。日記、見てみるか・・・」
少なくとも、考えに至った内容は書かれているだろう。
デスクの引き出しの2段目。いつも柊夜が日記を仕舞っておく場所を開けると、
案の定、一冊のノートが入っていた。だが、このノートのデザインは別の物だったはずだ。
「・・・日記が、違う」
香水と同じように、物が変わっているのを確認して、
それでは自分の持っている日記はいつ手にしたのかを思い出す。
「・・・前の日記は、確か事件で濡らしてダメにした。
今の日記は・・・、公安の仕事の合間に、千聡が届けてくれたヤツで・・・。
・・・そうだ。目の治ったお祝い・・・、だから、持ってない・・・」
中に入っているノートも使われているペンも、こだわって選んだ様子が見られない。
「・・・この、ノート・・・」
自分の世界で何に使用していたのかを思い出して、柊夜は日記に触ることをためらう。
そのノートは向こうでも使っていたものだ。
・・・千聡の治療の観察日記として。
過去に柊夜に起こった事件の影響で
解剖室でのPTSDを引き起こした千聡の、心理士としての観察を書いたノートを、
この世界では自分の日記にしたらしい。
解剖室での出来事は、警察官の失踪事件の後で。
つまり、この時間軸では発生していない出来事の1つだ。
「・・・だからって、このノート・・・。
・・・よっぽど、そういう雰囲気なんだな、こいつ」
どちらの世界でも、うれしい内容を書いてもらえないノートに少しだけ同情する。
書いてある内容は、恐らく去年の12月頃からの2ヶ月分程度。
もっとも苦しかった頃の日記だ。
日記を手に取る柊夜は、自分の手が僅かに震えている事に気づく。意識しないと呼吸まで止めてしまう程に緊張して、ぺらりとページを捲った。
「……書き出したのは、事件から……1週間……。公安の件で、こっちに戻ってきてからか……。」
読み始めて直ぐに、柊夜は日記を見たことを後悔した。
書いてある内容があまりに違っていて、
その上、どれもこれも、考え方があまりに酷かったのだ。
一つ一つは、些細なはずなのに、
その違いは蓄積されて、後戻りができないほどの
大きなズレとなっていく。
たった一つの返事の違い、
たった一つのタイミングの違いで
すれ違っていく自分と千聡、そして周り。
日記に書かれているだけでそうなのだから、
きっとそれより前からすれ違いはずっと起こっていたのだろうと容易に想像ができた。
「……この段階でも、まだ加害者を殴ってる……?千聡の話……聞いてなかったのか?」
日記に書かれている行動は、
まるでアメリカにいた頃と変わっていない。
軽率に相手に手を挙げ、仲間を頼ることも無く1人で突っ走る。
「……千聡、怒ってただろうな。
……それより、すり減って……。
…すり減って?」
ふと、嫌な予感が過ぎる。
この行動の多くを、柊夜は過去に千聡に諌められている。「いくら、大切な君でも。いや、君だからこそ、我慢して、我慢して……いつか、すり減ってダメになる。だから、やめて」と。
桜の誇りも、千聡の言葉も聞き入れずに、
独りよがりで進み続けて。
誰にも助けを求めなかった''俺''を、
あいつらが、信用などしただろうか…。
ぞわぞわとザワつく心のまま、ページを進めていくと、遂にあの出来事の前日に至る。
周りがやけに静かで、自分の高鳴る心臓の音だけがうるさく身体の中から聞こえる。
「…」
繰り返し深呼吸をして、ページを捲った。
この先に、真実がある。
「…。……。」
次のページには、数日飛ばして、
行方不明事件から3日後の日付と、
酷く乱れた文字がならんでいる。
震えた手で書いたらしいそのページは、
罫線からもはみ出してガタガタに歪んでいる上に、なにか水滴が落ちたように、所々が滲んでいた。
「っ……はっ…はっ……」
読んでいるはずの文字を、再び頭が拒否をした。
新聞記事を見た時など、比べ物にならないほどの絶望が、そこには短い言葉で綴られていたのだ。
『……ちさとが、しんだ……
ばらばらに……されて…
おれは……おれはいきていたのに……
ちさとは……しんだ……
…カイも…レイも…みんな…みんなみんな…』
『……ちさと……みんな…うめた……
いしょにい…た……あのやまに……
……みつめの……さくらのした……
ちさと……もういない……』
「……ぁ……っ…、そ……んな……」
喉が締まって息ができない。
日記を取り落として、乱れる呼吸でその場へと蹲った。
そんなことが。
そんな事があってたまるか……。
千聡が、黎や甲斐が惨殺されて……、
それを自分の手で……埋めたなんて。
自分の記憶では無いはずなのに、本当に見たかのように頭の中でその瞬間がフラッシュバックを
引き起こす。
暗い山道、重いカバン……。
何度も1人で地面を掘って……。
開けたカバンの中から覗く、光を無くした
虚ろな千聡のティーラテの瞳。
血の気の引いた、真っ白な千聡の手足……。
ばらばらにされた身体を、ひとつずつ丁寧に並べて、土をかけて行く。
隣に作られた、小さい山と大きな山…。
「……ぁーーー!!!」
思わず頭を押さえて、上げたはずの悲鳴は……
微かな吐息にしかならない。
ブツン、頭のどこかで奇妙な音がした。
|
「……はぁ、……はぁっ……」
どのくらい、そこで蹲っていただろうか。
いつの間にかあかりも付けていない部屋は、真っ暗になっている。
「……っく、くくくっ……。
そっか……。みんな……死んじゃったんだな……」
ようやく、この世界の自分の思考を理解出来て、柊夜は喉を鳴らす。
分かるわけが無かった。
来た時に、想像していた通りこの世界の自分は、
壊れてしまっているのだから。
みんなが電話に出るわけがない。
黎の家は、ずっと放置されていたのだろう。
甲斐の電話は、もう解約されたのかもしれない。
この世界の俺は、たった一晩で大切な人を3人も亡くした。
「……選択を謝って、死なせて……。
その時に、『幸福は取り合ってる』なんてもの見たら……、欲しく……なるよな」
そこでふと、柊夜は我に返る。
では、どこで自分を見つけた?
「……まだ、先を読まないと……」
今読んだ所までに、自分に繋がる内容が出てきていない。殺そうと決意したきっかけを探すためには、ここで辞める訳にはいかないのだ。
「……さすがに、暗い…。電気……」
ふらりと立ち上がって、デスクに据え置かれたライトに触れる。センサー式のデスクライトは直ぐに眩しい光を放った。
「……え?」
しかし、その視界の狭さに柊夜は違和感を覚えて、慌てて右目に触れる。
「……見え…ない…。右目……、なんで……」
指先の感覚は、しっかりと目を開いているのが分かるのに、いくら手を振ってもそれが見えない。
慌てて左目だけを閉じて確認すると、右目は開いているはずなのに視界が真っ暗になった。
「……っ、Calm down, calm down, Xuya.」
繰り返し自分に落ち着くように呟きながら、
混乱した頭で何が起きたのかを考える。
「……怪我じゃない…、何もしてない……。
剥離も…再発のリスクは無いって……。
だから……、物理的な理由じゃない……。
それなら……それなら…」
心因性失明……。
頭をよぎったその言葉に、不意にパニックが波のように引いていく。
ブツン、という音は、恐らく幻聴だ。
心理的なストレスがかかりすぎると、擬似的に失明状態になる。そんな内容を、事例検討の中で見た。
事件の際に、それによって失明状態になっていて、
その場にいても事件を見ていなかった事例が、
あったのだ。
「…もともと、右目の方だけ…だったから…
片目だけ出た…ってことか…」
両目が見えなくならなくて良かったと、僅かに安堵しながら、柊夜は目を閉じて呼吸を整える。
このような場面で、1番危険なのは、恐怖やストレスに飲み込まれてハイになる事だ。
警察に入ってから、繰り返し習った方法で、
ゆっくりと呼吸を繰り返して、気持ちを落ちてかせる。口ずさむのは、いつもお守りの様に歌う
『amazing grace』。
小さく、囁くように枯れた声で歌いながら、心拍を落としていく。
どうにかやかましい鼓動が落ち着いて、
次に目を開けた時も、相変わらず視界は半分だ。
それでも、以前出来ていたことなら、今でも出来ると自分に言い聞かせられる程度には、思考が回復した。
「…1年振り…か。…まぁ、心因性なら、
そのうち治るし…。別に、これくらいなら…」
最後にゆっくりと息を吐いて、柊夜は目の前の日記を睨む。
こんな出来事を踏んだ''俺''には同情はするが、
殺されたことを許すつもりはさらさらない。
なにを見て、ターゲットを決めたのか、見つけてやる。
今度は、覚悟を持って、先程の続きのページを柊夜は読み始めた。
狂気に飲まれているのだと、理解した上でなら、自分と切り分けて淡々と内容を読むことが出来る。
いつもの仕事のペースを取り戻して、終夜は静かにページを進めていく。
「…なるほど…。
鏡越しに……俺を見て…、
俺が不幸になって、死ねば自分の幸せが返ってくるって…思ったのか……」
自分が手にできなかった幸せを、鏡越しに見たら、
それが欲しくなる気持ちは、痛いほどわかった。
実際に、柊夜自身が、日本に来た理由だって近いものがある。居なくなった相棒を探すための力を得るために、全てを利用するつもりだった。
結果的に、千聡と共に。その出来事は解決して、ちゃんと死んでしまった相棒と、お別れをした。全てを抱いて、生き続けると約束をして。
もしかしたら。この世界の''俺''は、その出来事すら上手くいかなかったのかもしれない。
全てを無くして、その向こうに全てを持っている自分を見て。相手を殺してでも欲しいと願うことは、不思議では無い。
「…それでも」
例えそうだとしても、警察の誇りを、
千聡との約束を無にするような存在を。
向き合うことを恐れて、誤った道を進んで、
それすら受け入れることをしない、
自分自身の可能性を、柊夜は許さない。
「…ケリ、つけに行くか…」
日記には、どのように世界を繋いだのかまで詳しく書かれている。
この日記に書かれたことだけが、この世界の柊夜の正気を保つ唯一の希望だったのだろう。
書かれていた、自分の世界との扉は
目を覚ましたあの場所だ。
繋ぐための武器も、ホルスターの中に。
「…自分の始末は、自分でやらないとな」
読み切った日記を、机の真ん中にそっと置いて、
柊夜は祈るように表紙をそっと撫でる。
思いついたように、最新のページを開いて
サラサラと何かを書き込むと、そのページを開いたままペンを置く。
「…さようなら。」
何に対しての別れの言葉なのかも分からないまま、
終夜は振り返らずに部屋を出ていく。
雨に濡れて重い革の上着を着込んで。
振り返ることもなく、パタリと扉が閉まった。
開いた日記のページには
『Fly Bad, Fly Bad, Fly Bad to the Stars.
(悪いの飛んでけ、星まで届け)』
の文字が、少しだけ斜めの癖字で残されていた。
雨が降りやんだ、夜の路地裏は、通りから離れたせいか、街灯すらなく薄暗い。
夜目の効く柊夜には問題なく動ける範囲だが、一般的にはあかりが欲しいだろう。
「…始まりと終わりはいつも同じ。ってか」
起きた時には何も無いと思っていた裏路地だが、日記に書かれてた内容を元に調べると、
寄りかかっていた壁一面に、何かで引っ掻いた様な傷が残されているのを柊夜は簡単に見つけることが出来た。
『門の起動には、銃での衝撃を与えればいい』
周りを調べると、日本では見かけることがまず無い、見慣れた金属が地面に落ちている。屈んで拾ったそれは、10.2mmの薬莢だ。
その形を見て、柊夜は息を飲む。
「…SAKURAだけじゃなくて…あいつ、
GLOCKまで…持ってるのか…」
柊夜の持つSAKURAは、特殊弾を使うリボルバーだ。しかし、落ちていたのは、SAKURAで使用されるものよりも僅かに大きく、アメリカで柊夜が支給されていたオートマチックの銃で使われるものだった。
柊夜が持ち合わせているのは、支給品の5発のみ。
しかし、この世界の自分は、更に最低でも18発、
多ければその倍以上の弾薬を持っていることになる。
「…冗談きついよな。
……撃たせる前に終わらないと、そこそこやばい」
その上、門を開くために1発。
出る時のことを考えると更に1発は予備で残しておきたい。
戦う羽目になったら、使えるのはせいぜい3発となる。
視界が半分見えない中での、たった、3発。
これが柊夜に与えられた、正義を成すための猶予だ。
「…3発あれば、終わらせられる。
やってやるよ…」
立ち上がった柊夜は少しの間、目を閉じて気持ちを落ち着かせると、
長い自分の髪を慣れた手つきでおさげに纏める。
普段は休みの日に甘えて千聡にしてもらう髪型は、これからの戦いに向けての
戦化粧の様なものだ。しっかりと髪を邪魔にならないように結って、
柊夜は改めて目の前の壁を見つめた。
右のショルダーホルスターから自分のSAKURAを抜き、左手で狙いを定める。
右手を添えて、真正面に。
相棒の綺麗な射撃フォームをなぞるように、
教科書通りの正しい姿勢でリボルバーを構えて、
ハンマーを下ろす。
反動が少ないシングルアクションが、柊夜のスタイルだ。
狙いを定めて引かれたトリガー。
壁に突き刺さる弾丸。
それに反応したらしい、何かによって、
壁に黒い影のような入口が現れた。
渦巻くようなそれの奥は真っ暗で、先を見通すことも出来ない。
「…。」
柊夜は、小さく笑って、
高らかに踵を鳴らしながら穴をくぐり抜ける。
怖くは無い。
向こうにいるはずの自分は、
きっと、不幸な奴だ。
負けないし、死なないし、殺さない。
今まで通ってきた、沢山の出来事や会話が、
自分を守ってくれる。
「…約束、してるから。
俺は置いてなんかいかないし、
ずっと一緒にいる。見せてやるよ…、
何を選んだか…」
生ぬるい空気にも、真っ暗な闇にも怖気づくことなく、柊夜は影のなかへと進んで行った。
平らで固い地面がいつの間にか土の感触に変わって、柊夜は拳銃を握りしめる。
ふと、辺りがまぶしく光って、一瞬の間、目を閉じた柊夜が再度目を開けると、
そこはあの時の殺風景な空間だった。
「・・・、荒れてる」
ぐるりと見渡すと、枯れた草ばかりが目に入ってくる。
向こうには池のような物がある様子だが、
行き場を失ったままの水は淀みきっていて、美しさのかけらも無い様な場所だった。
ほんの少し足を進めた柊夜は、その一カ所に赤黒い跡を見つける。
「・・・、これ・・・」
膝をついて色のついた地面に触れると、その部分だけが固まっていて、
柊夜は舌打ちをした。
「・・・あれは、夢じゃ無かったってことか」
刑事の柊夜にはなじみのあるそれは、おそらく自分自身の血だ。
次にこの場所で死んだら、もう一度あの時のように夢として目を覚ませるのだろうか。
それとも・・・。
「死なないのを第一にする方がいいな。さすがにギャンブルが過ぎる・・・」
繰り返し巻き込まれてきた出来事のせいで、思わず希望的な考えに縋りたくなるが、
毎度異なった原因なのだから、根拠の無い希望は危険だと、柊夜は自分に言い聞かせる。
膝をついたまま、再度周りをぐるりと確認した柊夜は、
先ほどは気づかなかった物を見つけて立ち上がる。
丁度、柊夜が現れた場所の真後ろに当たる場所に、場違いに置かれているのは巨大な鏡だった。
映画なんかで登場するような、周囲に細やかな装飾を施した鏡は、背の高い柊夜でも、簡単に全身を移すことができる。
「鏡・・・?」
調べるために鏡へと向かった柊夜は、数歩でおかしな事に気がつく。
鏡ならば、写っている物は本物と同じ動きをするはずだ。
しかし、その中に写っている柊夜は、映り込んで左右がひっくり返った世界で、
血の跡の側で座り込んだままなのだ。
思わず鏡に拳銃を向けた柊夜に、鏡の中で蹲っていた男はゆらりと幽霊の様に身を揺らして
立ち上がった。
あの時とは違って、鏡の男は今の柊夜とそっくりそのままの姿で、
鏡の中でこちらへと歩いてくる。
「・・・」
まるでただの枠のように、”柊夜”は鏡を通り抜けて柊夜の前に現れた。
同じ服、同じ顔立ちで、前回あったときよりも自分に似ているはずなのに、
柊夜は目の前の男が自分と同じ存在なのかを疑いたくなる。
それほどに、”柊夜”は酷い目をしていた。
くくく・・・、とさして面白くもなさそうに、”柊夜”は喉を鳴らして口を開いた。
「本当に・・・、お前はどこまでも邪魔なヤツだよな・・・。
何もかも見てきたクセに。まだそんな目をして俺を見る・・・」
続ける声は、ざらついてかすれた声だ。
鬱陶しがるように、"柊夜"は纏められた三つ編みをほどく。
「・・・Hey, you know I don't have to tell you anymore.
Gimme your place, Xuya・・・」
(・・・なぁ、今更言わなくても分かるだろ。寄越せよ、全部・・・)
嫉妬を孕んだ緑の目で告げられた言葉で、柊夜はこの男の目的を察した。
「・・・なるほど。ようやく、理解した。
わざわざ俺を狙う理由・・・。落ちぶれたもんだな。
くだらない俗説に惑わされて、俺を殺して成り代わろうなんて」
柊夜は同じ顔をした男を、軽蔑したようにあくまで日本語で答える。
相手が自分だからこそ、その行動の全てが柊夜には気に入らない。
自分で、後悔しないように生きて来たことが、
足掻いて、悩んで選んできた全てが、今の柊夜だ。
だからこそ、後悔しかしていないで、周りを犠牲にする事を選んだ
目の前の男は、自分では無いと断言する。
桜の誇りを持たなかった”柊夜”とは、違う存在だ。
「自分の判断を認められなくて、自分自身に嫉妬して。
あげく選んだ手段が殺人。警官の風上にもおけないくそ野郎が」
柊夜にしては珍しい、相手を貶す言葉を受けて”柊夜”は顔を歪ませた。
「・・・I'm you, Xuya. That's my place as much as yours.
There's no reason I can't be there.
I'm not asking you to understand.
Just shove off, will you?」
(俺は、お前だ・・・。お前の場所を奪って何が悪い。
その場所は俺が居たっていいだろう?
理解なんて求めていない。
いいから、退けよ・・・)
敵意しか無い言葉で、いらだったように告げる”柊夜”にもひるむこと無く、
柊夜は静かに言葉を紡いだ。
「Sorry to disappoint you,
but I've got nothing to spare for the likes of you.
You know I'm already taken
--my heart, my body, my life, my soul, you name it.
Plus, if you're thinking Chis is gonna see you as me,
then you've got another thing comin'.」
(悪いけど、お前なんかにくれてやるものなんてなにひとつない。
知ってるだろ、全部捧げた。
――心も、身体も、命も、魂も、なにもかも。
千聡が、俺とお前を見間違えると思うなよ)
同じ色をした目線が、すれ違う。
”柊夜”の右目はやはり左目と瞳の大きさが違っていた。
ぽちゃん
向こうの池で、何かが跳ねた。
同時に、”柊夜”はベルトに挟んでいたオートマチック拳銃を抜く。
”柊夜”が狙いを定めるより早く、柊夜は身をかがめて一気に肉薄した。
遮蔽物の無い広いだけの場所では、弾数の差は大きなハンデになる。
増して、随分振りの片目ではなおさらだ。
それならば、危険を承知で武装解除を狙う方がまだマシと考えたのだ。
走った勢いに乗せて、手首を狙った柊夜の蹴りは、
しかし、思考を読まれていた様子で軽々と躱されてしまう。
わずかに身を反らしただけで攻撃をよけた”柊夜”は、
にやりと笑った。
「・・・近距離なら、チャンスがある。そう思ったんだろ?」
言葉と共に躊躇いなく引かれた引き金は二回。
勘に任せて身を捻った右腕にその内の1発が掠める。
「っ・・・!」
じわりと痛みが広がって、自分の扱う武器がどれほど危険な物かを柊夜は思い知った。
一般人でも、容易に命を奪えるようにと設計された兵器だ。
目の前の男の練度は、今の自分よりも遙かに高い。
全力でやり合っても、勝てる保証は無い。
たった1発の弾丸で、柊夜はそれを理解した。
「・・・さぁ、どうだかなっ!」
苦し紛れに言い返して、柊夜もSAKURAをホルスターから抜く。
やらなければ、殺させる。
頭でいくら分かっていても、本気で相手を殺す覚悟など、そう簡単にはできないものだ。
揺らいだ覚悟を表す様に、柊夜が放った弾丸は至近距離だというのに
”柊夜”には掠る事も無く彼方へと逸れていった。
「殺す覚悟も無いのに、そんな物を持つから・・・こうなる」
馬鹿にしたような声と、押しつけられた金属の感覚。
柊夜が瞬きをするよりも早く、すさまじい衝撃と熱が、右腹を突き抜けた。
「っー・・・!」
気を失いそうになる激痛の中、払うように勢いをつけて左腕を振ると、''柊夜''は喉を鳴らして笑いながら距離をとる。
「……辞めろよ、痛いふりなんて。
…俺らは。この程度平気だろ。
…バラバラにされたって、生きていたんだからな」
その言葉に、目の前が真っ赤に染る様な幻覚を、
柊夜は見た。
去年の秋の、酷い出来事。
千聡がPTSDを引き起こして。
自分も赤い色が怖くて仕方が無くなった事件。
あの時、不死の薬の実験台にされた
柊夜はその効果を調べるためだけに、
狂った医者に身体を何度も切り刻まれたのだ。
世界の動きが酷くゆっくりになって、
うるさい心臓とは裏腹に、頭の中が冴え渡る。
身体はどこにも傷が残っていないのに、柊夜の身体には痛みを受けすぎて
痛覚の麻痺の後遺症が残った。
ずきずきと心拍に合わせて響く激しい痛みが、すでに後遺症が克服された事を柊夜に示す。
あの日に言われた言葉を、流された涙を思い出して、
柊夜はぽつりと目の前の男に言葉を漏らした。
「……やっぱり、お前、俺にはなれないよ」
きっと、目の前の”柊夜”は、あの不死の状態を、喜んだに違いない。
不死の身体なら、人を助けられると。
痛みが無ければ、もっと誰かを救えると。
「人間は、痛みがあるから、変わっていけるんだ。
痛い思いをしてほしくないって、祈れるんだ・・・。
身体の痛みからも、心の痛みからも逃げて、
自分の思い込みだけに縋って・・・、周りのことを何一つ考えなかったから、そうなった・・・」
身体を赤く染めながらも、淡々と語りかける柊夜に、”柊夜”は視線をブレさせた。
「黙れっ!全部持ってるお前に・・・!何が分かるっ!!
ずっと、ずっと望んできた力だっ、お前だって分かるクセに・・・!
弱さは罪だ・・・、何も話してもらえずに、置いて行かれないようにするには、
何だってできる力がいるっ・・・!」
”柊夜”が睨んで叫んだその言葉は、どれも聞き覚えがある。
当たり前だ。ほんの1年程前まで、柊夜が思っていた事そのものなのだから。
自分に向けられた銃口が、トリガーを引くわずかな動きが、柊夜にはゆっくりに見える。
ほんの僅かに左肩を後ろに引いただけで、”柊夜”の弾丸は心臓をえぐる事無く通りすぎて
地面へと突き刺さった。
返すように左手をあげて、即座に撃った柊夜のSAKURAは、
ほとんど動作を入れなかったにもかかわらず、狙い通りに、”柊夜”の右肩に赤い花を咲かせた。
「っ・・・!!」
痛みが鈍いとはいえ、肩を撃ち抜かれて一瞬、 ''柊夜''は動きを鈍らせる。
ふとその様子を見て、そういえばあの事件で撃たれたこともあったな、と柊夜は思い出す。
あの場面すら、彼は違ったのだろうか。
それでも柊夜よりも遥かに早く
''柊夜''は体勢を立て直した。
燃える様な殺意を持って柊夜へと再度発砲をする。
本気で怒り狂っているはずなのに、
''柊夜'' の狙いや姿勢は完璧だ。
どれほどの訓練を積んだのか、ぞっとする。
あと2発も撃たせたら、そこからは1発も外さないだろう。
「・・・しつこいヤツはっ!嫌われんぞっ!」
思わず悪態をつきながら、あえて”柊夜”の方へと走った柊夜は、その右側をスライディングですり抜けた。
死角の右側を一気に身を落として通り過ぎれば、一瞬の間、目標を見失うことは自分だから知っている。
激しい行動にズキリと撃たれた傷が痛んだが、無視してそのまま左へと転がると、伏せた状態で見上げるように銃を向ける。
振り返った”柊夜”が、地面に寝転ぶ柊夜の頭に照準をつける。
「ごめん・・・」
荒れた大地に、もう一度射撃音が響き渡った。
ガシャン。
「な・・・んで・・・」
驚いたように呟いた”柊夜”の左腕がぶらりと力なく揺れる。
指先を伝って赤い水滴が落ちる左腕には先ほどまで”柊夜”が持っていたGROCKは無い。
「俺は、警視庁第一課の・・・刑事だ。相手を殺さずに確保するのは・・・、
当たり前だろ・・・」
頬に新しく傷を作った柊夜は、傷を庇いながらゆっくりと立ち上がると、近くに落ちた拳銃を拾う。
自分が両方の手で同じだけ射撃ができるから、
両方の腕を使えなくするしかなかった。
「…殺せばいいだろ」
全てがどうでもいい、というような声で呟くように言った"柊夜"の言葉に、
柊夜は眉を顰める。
「俺は、お前を一度殺した。同じようにすればいい」
「イヤだね。俺はお前じゃない。そんなくだらない理由で、人を殺さない。
殺すよりも難しいやり方を選ぶ」
両腕を赤く濡らして座り込んだ男の前に、柊夜は膝を着いて同じ色の目をじっと見つめた。何度も綺麗だと言われた自分と同じ緑の目には、何も写っていない。
「…見たよ。千聡のこと…。みんなのこと…。あのモノクロの部屋で…、
全部亡くしたんだな」
柊夜の言葉で、"柊夜"は微かに身を震わせる。
「大切な人、みんな亡くして…、自分の選んだ道を全部後悔して…、狂気に走って見たのが…、俺だった。そうだろ?」
あくまで冷静に話をする柊夜の言葉を、怯えた様に聞く"柊夜"の目には涙はない。
「…涙も、枯れ果て…か。…辛かったな」
そっと傷んだ髪を撫でながら、柊夜は頭をフル回転させる。
今の自分の場所を"柊夜"にあげることはできない。
しかし、同時にこのままでは彼はいずれ死ぬ気だということも、柊夜には分かりきっている。自分の世界に戻ったところで、生きる希望も待つ人も…。
「…なあ。お前さ、アメリカに帰れよ」
ふと、一つ、微かな希望を見出して柊夜は必死に言葉を紡ぐ。
生きていくことを諦めた自分に、理由を与えるために。
「誰もいない、なんて…いうなよ。まだ、いるから。
待っててくれる人…心配してる人。
…お前が大切に思ってる人。いるよ」
結んだ髪は外したのに、"柊夜"は濡れた革ジャンは律儀に着続けていた。
「その服を着てるのは、父さんが言ったからだ…」
警察学校の教官の父が、身を守るために勝手がいいと言ったから、
柊夜はこの服を何度も買い直してまで着続けている。
いつだって素直に話せないけど、教えを守り続けるくらいには、大事なのだ。
「アメリカ、戻ってさ…紅葉と、バイクでも乗ればいい。あいつらの事、苦しく無くなるまで…、生きろよ…。お前は、1人だけ生き残った。だから、生きないといけない…。あいつらの、思いも誇りも、全部、もうお前しか持っていられないんだから」
あの部屋での出来事を思い出して、慎重に柊夜は言葉を選ぶ。人間には理解できない様な、邪悪な意図で閉じ込められた部屋。どちらかしか出られない仕掛けと、偽物の千聡。同じ出来事を体験した柊夜ですら、一歩間違えたらと思うとぞっとするような、そんな出来事だった。
それでも、あいつらが最後まで足掻いたのは、柊夜を救おうとしてなのだ。
「…運が悪かったとは、言わない。
少しずつ、何かの選択を間違えて…、こうなった。それを選んだのは…お前だ。俺は、別の選択をして、その結果を受け止める覚悟を決めてる…」
きっと、ほんの小さな間違いの積み重ねで、こんなにも別の人生を歩むことになった。
だからこそ、柊夜は譲れない。
「まだ、終わりじゃない……。妹が、紅葉が待ってる。……大事なんだろ。喉怪我して、死にかけてでも守りたかった妹で。…お前のことを追いかけて、警察になってさ。……なのに、お前が自死なんて選んだら、今のお前と同じ立場にさせるぞ」
「……それは、いやだな……」
今まで黙り込んでいた"柊夜"が、その言葉を聞いてようやく掠れた声で反応を返した。
「みんなが、守ってくれた命を…、捨てるな。…生きろよ、時が来るまで。
…胸張ってまたみんなに、千聡に会えるように」
じっと見つめていた"柊夜"の目に、微かに光が灯る。弱々しいそれは、確かに狂気から覚めた証だ。
「…赦す、のか…? 俺を…?」
「…お前は、まだ誰も殺しちゃいない…。裁かれる理由もない……だろ?」
頭を撃ち抜かれようと、腹を赤く染めていようと、柊夜は力強く言い切る。
「…強いな……お前……」
「…あうー」
いつもふざけてあげる鳴き声で、柊夜が返事をすると、"柊夜"はくくく…と、喉を鳴らして笑った。
正気を取り戻したのを確認すると、柊夜は自分の拳銃をホルスターに収めた。
怪我を庇いながら立ち上がると、途端に身体のあちこちが悲鳴をあげる。
ぐらりと揺れた視界に、随分と血を失っていることに今更気がついた。
「…ここから出たら、怪我……治るんだろ…?
…帰ろう。在るべき場所に…」
「…。……そう、だな」
何か含みがあるように、"柊夜"は少しだけ黙り込んで、両腕を力なくぶら下げたまま、立ち上がる。
これで、ようやく終わる。
柊夜が、安堵のため息をついて通ってきた鏡を見た。
鏡の向こうの、何かと。
目が合った。
巨大な青い瞳が、鏡から二人をじっと、見つめている。
人間はおろか、生き物でもない不気味な目が。
「っ…!!」
咄嗟の判断で柊夜はトリガーを引く。
撃ち出された弾丸は大きな音を立てて、鏡にひび割れを作る。
大きな青い瞳は、割れた鏡の1つ1つに、数を増やしていく。
「な…」
「おいっ!周り見ろっ!」
”柊夜”に怒鳴られて、鏡から目を離した柊夜は、言葉を失う。
「なん…だよ……。これ…」
目だった。
空にも、鏡にも、向こうの水面にも。
見渡す限りにあの瞳が現れて、不気味な色をたたえてこちらを見ている。
ゆらり、水面が揺れると、空にあった瞳が一斉に目を閉じる様に消え去った。
地響きがして、水の中から触手がゆっくりと現れる。
ぶよぶよとした何かに、ただデタラメに青い瞳がいくつもついた化け物が、二人の前に現れた。
柊夜の頭の中で、警告が鳴り響く。
細胞の1つ1つが恐怖に犯される様な感覚。
人間ごときが到底太刀打ちできないのだと、知らしめるような存在感。
呼吸さえ忘れるような緊張。
そんな中、柊夜の頭によぎったのは、部屋で見つけた児童書だ。
「…こいつが、ゴグ=フール…」
名前と同時に、書かれていた一文を思い出す。
『狂気を食らう者』
その言葉に理解が追いついた瞬間、柊夜は直感する。
この化け物の狙いは”柊夜”だ。
はじかれたように世界が加速する。
先ほどまでとは比べものにならない早さで、無数の触手が”柊夜”に襲いかかった。
「…っ!させるかっ!」
”柊夜”との間に割り込むように、柊夜は前へと立ち塞がる。
躊躇いなく引いた弾丸は、触手についた目を潰し、緑の体液をまき散らす。
「お前…、馬鹿っ…逃げろっ!」
血を失いすぎて青白い顔のまま、立つこともできない”柊夜”は怒鳴る。
「狙いは俺だ……!さっさと自分の世界に帰れっ!!」
「知るかっ!!」
柊夜は見向きもせずに怒鳴り返す。
「こんなところで死なせてもらえると思うな…!
何が何でも、お前を帰すんだよ…!!」
そう言いながらも、応戦する柊夜は射撃のたびに、
ぐらりとその身を揺らしている。
腹部の怪我のせいで、反動をうまく殺しきれないのだ。
それでも、柊夜に恐怖はなかった。
必ず、二人で生きて帰る。
その覚悟が柊夜に力を与え続ける。
反動のごとに突き抜ける腹部の痛みも、触手の棘に抉られた腕も、
柊夜の研ぎ澄まされた集中力を切らせる事はできない。
1発トリガーを引くごとに、化け物の僅かに異なる反応から、柊夜は弱点を見つけていく。