テケリ…リ…
テケリ…リ…
 真っ暗な部屋の奥で、何かが鳴いている。
聞いたこともない声で。
 テケリ…リ…
テケリ…リ…
 誰かに聞かれるでもなく、ただ鳴いている。
 どこか遠くで、悲鳴が上がった。
 若い男性の悲鳴が。
テケリ…リ…
テケリ…リ…
 悲鳴を気にすることもなく。
何かはただ、鳴いている。

 かちかちと時間を刻む時計をチラリと見て、黎はのんびりと料理を机に並べる。今日は友人の刑事達が早くに仕事に上がれるらしい。明日も休暇なのだと二人言っていた。泊まり込みで黎の家で飲み明かそうと約束をしているのだ。
 バディを組んでいる二人は、一緒に家に来るだろうと踏んで、黎はせっかくだからといくつか手料理を用意している。
 二十分ほど前に千聡から、「これから柊夜と向かいます」という連絡が届いていた。黎の家は、二人の家と職場の間にある。後数分もすれば到着するはずだ。
 机にはウイスキーやジン、シードルにビールと多様なお酒が並べられている。酒もつまみもそこそこ好みが違っていて、分け合いながら新しい物を教え合うというのが、三人の飲み方だ。
 本当はもう一人、近い友人がいるが、残念ながら彼はまだ未成年なため、今回は呼ぶことができなかった。
 そのうちに四人でどこかに出かけてもいいかもしれない。そんなことを考えながら用意をしていると、インターホンがなる。
「お、来た来た」
 黎が機嫌良く玄関へと向かう最中、インターホンを鳴らしたばかりだというのに、ドンドンと強くドアを叩かれる。珍しい事をすると不思議に思う黎の耳に、ドアの向こうから千聡の声が届いた。
「黎さん! 黎さん、開けて!」
 酷く焦った様子の千聡の声に、黎は眉を潜めてドアを開けた。
「千聡くん?どうし…」
「柊夜が刺されたんです、入れて!」
 黎が言葉を紡ぐよりも早く、千聡が泣きそうに訴える。目に入った二人のようすに黎は凍り付いたように動けなくなった。
 自分よりも背の高い相棒をどうにか担いで来たらしい。千聡はスーツと手を赤く染めている。そしてその隣、いつもの黒い革のジャケットを着た柊夜の脇腹には、深々とナイフが突き刺さっていた。
 虚ろな目をして千聡に寄りかかる柊夜を見て、どうにか黎は声を絞り出す。
「き…救急車を。すぐに呼ぶ!千聡くん、中に!」
 慌てて千聡とは反対側に回り込んで、黎も柊夜の身体を支える。
 そのまま玄関に引き入れると、血で汚れることも気にせず、柊夜を廊下へと寝かせた。
 部屋に戻ってスマホを手にした黎は急いで通報をした。
 しかし、
「救急車の到着まで二十分もかかるだって?人が刺されたんだぞ!もっと早く…くそっ」
 電話越しに帰ってきた返事に黎は怒鳴る。ほんの数分前に大規模な事故が発生して、救急車が全て出払ってしまったというのだ。
「そんな、かかりすぎた!」
 千聡が悲鳴に近い声を上げる。動揺しながら止血をし続けている千聡は柊夜の血で真っ赤だ。その間にも、柊夜の呼吸は浅く速くなっていく。意識が保てないのか、目を閉じそうになった柊夜に千聡が必死に声をかけた。
「柊夜?柊夜!しっかり!」
 とにかく出血を止めなければ。黎はバスルームに走ると、何枚かのタオルを掴んで二人の元へ戻る。
「千聡君、落ち着いて。とにかく止血をして、救急車が来るまでなんとしても持ちこたえさせるぞ」
 真っ白なタオルが赤く染まることも気にせず、黎も柊夜の腹に手を添えた。
 柊夜に深々と刺さったままのナイフは柄から二センチほどしか見えていない。ナイフに触れるか悩んだ黎を千聡が震えた声で制止する。
「抜かないで…黎さん…。下手をすると出血多量で危険です…!」
「…そうだな。周りを押さえてどうにかするしかない」
 これ以上、傷口を広げないように慎重に止血をしているさなか、ぐったりとしていた柊夜が唐突に目を見開いて声にならない声を上げた。
「柊夜っ!」
 傷を押さえていた二人の手を振り払うように身を丸くした柊夜は、掻きむしるように傷口を手で押さえ込んだ。いきなりの挙動に黎と千聡は慌てて柊夜の腕を押さえる。
「柊夜くん!ダメだ!」
「柊夜!しゅうやっ!!」
 暴れる柊夜を押さえていた二人は、目の前で奇妙な物を目撃した。誰も触っていない腹部の傷から、ずるり、ナイフがひとりでに抜けていくのだ。      
  深々と刺さっていたにもかかわらず、押し出されるように柊夜の身体の外へとナイフが押し出される。目を疑って動きを止める黎と千聡の目の前で、抜けきったそれがからんと音を立てて床に落ちた。
「え…?」
「そんな、馬鹿な…」
二人が見ている目の前で、逆再生をしたかのように柊夜の傷口がするすると塞がっていく。ほんの数秒後には、もうそこには傷跡は少しも残っていなかった。まるで、初めから何もなかったように柊夜の肌は綺麗だ。
 残された真っ赤な血と破れた服だけが、先ほどまでの惨劇を物語っていた。
 力が抜けたように、ふっ…と柊夜は気を失う。
「一体…なにが…」
 どちらともなく呟いた言葉は、聞こえてきたサイレンの音に紛れて消えていった。

「だから、本当だって言ってるだろう!柊夜くんは腹部を刺されたんだ!こんなに大量の血が流れて、高熱も出ているのに信じないのか?」
「しかし、そうはいっても傷もないので…、熱の方も搬送するほどではありませんし…」
「どうして信じてくれないんだ、本当に柊夜は…!」
 ようやく到着した救急隊は、怪訝そうな顔をして二人と話をする。服を赤く染めた二人と、眠ったままの柊夜に、ふざけているのか?という迷惑そうな表情をみせた。
「何度も言いますが、怪我が無い以上は搬送はできません」
「だったらもういい、さっさと帰ってくれ」
 きっぱりと言われた言葉に黎はいらだったように、言い返して扉を閉める。
 騒がしかった部屋に静寂が戻ると、黎は居ても立ってもいられなくなって千聡に声を課かけた。
「千聡くん、柊夜くんを着替えさせて、休ませてあげよう。俺のベット、使って構わないからさ。
随分疲労しているみたいだから。千聡くんも、服変えてさ。適当に貸すから。」
「…はい。タオル、お借りしてもいいですか?柊夜の髪…血がついてしまって。
洗えないならせめて拭いてあげたくて…」
「もちろん」
 ナイフが抜けた時が苦しかったのか、それとも治って安心したのか、柊夜はぐったりと意識を落としている。のろのろと柊夜を起こす千聡に手を貸して、黎は柊夜をリビングへと連れて行く。千聡が服を脱がせている間にラフな部屋着を引っ張り出した。
 リビングに戻ると、用意をしたままの机の側で、千聡が柊夜の髪をなでていた。机に並べられた料理や酒に、本来なら今頃は…、とネガティブな気持ちがじわりと広がる。
 それを振り払うように、黎は首を振って二人に服を差し出した。
「千聡くんには、少し大きいかも知れないけど」
「…ありがとうございます」
「タオル、持ってくるね」
「すみません…」
 黎の知っている結城千聡と今の状態があまりにも違っていて、やはり彼も人間なのだと、黎は改めて思った。
 人間であるよりも先に刑事であるような二人が、目の前で消耗しているのはいたたまれない。まして、刺された友人は千聡の恋人で、黎にとっては一回り以上も年下の弟のような存在だ。気にならないわけが無い。
 もやもやとする気持ちの八つ当たりをするように、黎はタオルを温水で濡らしてしっかりと絞る。
鏡に映った自分の顔は、厳しい顔をしていた。
「駄目だな、年長がこうじゃ。千聡くんや柊夜くんの方が大変なのに」
 独り言を呟いて、ふぅ。とひとつ息を抜く。
大丈夫だ。何が起きているのかは分からないが、少なくとも一人では無い。頼りになる仲間がいる。
 そこでふと、黎は柊夜に刺さっていたナイフのことを思い出す。危ないからと床からは上げたナイフはカウンターの上に血濡れのまま置いてある。
「…あの柊夜くんを刺そうとするものか?」
 例え刑事であると知らなくても、
革の上着をきた長髪の180cmを越える男性だ。
 普通にしていても威圧的に見られると本人がボヤくような''強い"格好をしている相手を狙うには、
なにか理由があると考えるのが普通ではないか?
「調べる必要があるな…」
 濡れタオルを手に、リビングへ戻った。

「千聡くん、はい…使って」
「…すいません」
「柊夜くん、起きない?」
「……はい。少し熱が上がってて」 
「氷枕とか必要なら言ってね」
 タオルを濡らしている間に、どうにか着替えをさせた用だ。柊夜はスウェットの姿で寝息を立てている。顔色は青白いのに、頬だけは熱で赤みが差している。千聡の方もスーツを脱いで黎の貸した服を来ていた。
「スーツと柊夜くんの服は…ダメそう?」
「……そうですね。それは気にしないでください。服を血で潰すのは、よくあるので」
「刑事ってそんなによくあることなの?」
「まあ、柊夜はよくやりますね」
「やりそう」
「…柊夜、あの格好でスライディングしたりして、被疑者の確保とかするんですよ」
「アグレッシブなことを…」
 黎と千聡は小さく笑い合う。
 ようやく少しだけ緊張が抜けてきた様子だ。受け取ったタオルを使って、千聡が柊夜の髪を拭き始める。優しい手つきは、千聡が柊夜の髪をとても大切にしている事が伝わる。
 黎はそんな姿を目を細めて眺めると、気を引き締めてカウンターを見る。
「千聡くん。俺はあのナイフを調べたい。触ってもいいかい?」
「はい。ただ、直接は触らないで布か何かでお願いします。犯人の指紋が……、期待は出来ないですがあるかもしれないので」
「了解した」
 念の為刑事に確認をして、黎は適当な紙ナプキンを引っ張り出して柊夜の血に濡れたナイフを調べる。シンプルなデザインのナイフは、見たところ12cm程の鋭利なものだ。これのほとんどが柊夜の身体に入り込んでいたと思うとゾッとする。
 場所次第では内臓をやっていたかもしれない。
「…刃渡り、12cm。ものは、そんなにレアな物じゃないな。どこでも手に入る…」
 黎は自分もサバイバルナイフを使った事があり、ある程度の知識を持っている。このタイプは、大きめのホームセンターやキャンプ用品店で簡単に手に入るだろう。
 細心の注意を払って血を拭った黎は、ん?
と眉をひそめた。
「…どうかしました?」
 どうやら黎は思わず声に出していたらしい。千聡がソファから名前を呼ぶ。
「いや、ちょっと刃の部分に違和感があってね。
見てくれ」
黎は拭ったナイフを千聡に見えるように持ち上げる。市販品であるはずのナイフは、刃の部分が黒く変色していた。
「…オーダーメイドのナイフならまだしも、市販品でこんな加工をしてあるものはない。なにか細工がされている可能性が高い」
「…わざわざ、加工をして、柊夜を刺した…?
そんな……」
「柊夜くん、なにか恨まれることは?」
「…わかり、ません。僕たちの仕事は、恨まれる立場になりやすい。犯人の家族からの復讐だって、有り得なくは…ないです」
歯をかみ締めて、千聡は答える。黎は先程の疑問を千聡にも話す。
「…わざわざナイフを加工して、明らかに強そうな柊夜くんを狙う。理由がありそうだと思わないかい?」
「そうですね…。すこし、調べたいことが…」
髪の血を拭き終わった千聡は、目を覚まさない柊夜をそっとソファに寝かしつけて、普段から持ち歩いている仕事用をリュックから引っ張り出してくる。
「仕事用?」
「はい…。本庁のデータベースで、最新の不審者情報を見てみます。
…もしかしたら、柊夜を刺した犯人らしき人が、目撃されているかも…」
すさまじい早さでキーを叩く千聡を、黎は眉をひそめて見守る。
この状態で、普段と変わりなく動いてしまう千聡が、心配なのだ。
「…」
ほんの数分で、千聡はPCを閉じて机へと置いてしまった。
「…だめかい?」
「…はい。今夜に関しては、一つも目撃情報は……出ていない……」
疲れたように目元を隠す千聡にの背を黎はそっとなでる。
「起きたばかりだから、まだ無いだけかも知れない。
明日、改めて調べ直そう。千聡くんも少し、休んだ方がいい。
柊夜くんの様子は、俺が見ているからさ。ね」
努めて穏やかな声で伝える黎に、千聡は小さく首を振った。
「…ありがとうございます。けど…その、眠れなくて…」
「…それは、そうだ」
「…すいません。取り乱してしまって。僕がしっかりしなきゃいけなかったのに…」
ぽつりぽつりと言葉を漏らす千聡は、黎のよく知る刑事の姿とはかけ離れていて痛々しい。
「その場にいたのに…、何もできなくて…」
「ここまで、連れてきてくれただろ。何もしてないなんてない」
「でも…」
「突然の出来事だったし、しょうが無いよ…。
傷も塞がったみたいだから、ね。明日には、きっと良くなってるよ」
「…だと、いいんですけど…」
二人が黙り込んだ部屋では、時計の音がやけにうるさく時を刻む。
「…黎さん、先に少し休んでください。
明日、動けないのは…困るから」
「千聡くんは?」
「眠気が来るまで、柊夜を。途中で起こします」
「分かった。なら三時になったら、起こして。俺、ショートスリーパーなんだ。
そこまで眠ったら十分動ける。そこからは俺が柊夜くんを見よう」
有無を言わせない言葉で黎が提案をすると、千聡は少しだけ安心した様子で、お願いします。と礼を言った。
「柊夜くんを、ベッドに連れて行こう。千聡くんもそのまま、隣で」
「分かりました」
二人がかりで、背の高い柊夜を抱えて黎は自分の部屋へと連れて行く。
気配に敏感で、人が居ると眠れない。といっていた柊夜が、ピクリとも動かずされるがままになっている。ベッドに下ろしても、起きる気配の無い柊夜は、まるで蝋人形のようだ。
「…千聡くん、無理は、せずにね」
「…はい」
一声だけを欠けて、部屋を出て行く黎に耳に、小さな声の「Amazia grace」がかすかに聞こえた。

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