ある日の、超暮方(ほぼ夜)のことである。
ユビキリヤはとある人物に連れられて、ほぼほぼ地平線の向こう側へ隠れた太陽と、その周囲を縁取る美しい青緑に染まる空の下を歩いていた。
歩幅の違いに悪戦苦闘し、普段の1.25倍程度の速さで足を動かすユビキリヤを振り向きもせず、すたすたと背中を向けて歩くのは、彼女のマスターというべき存在だ。
「それ」のことを何と呼ぶかは人による。誰もが悪戦苦闘している。
老若男女どれとも取れず、外見からはそれのパーソナリティーを推しはかることは出来ない。
内面からは、なおのこと不可能で、何よりユビキリヤにとって、それは此の世のいかなる存在よりも
…それこそ、怪異たる自らよりも…わけのわからない意味不明な、存在だからだ。
だが、あくまでも小説であるこの媒体において、何も名前が無いというのもそれはそれで困るだろう。
そういうわけで、此処では仮に「マスター」で呼称名を統一することをお許しいただきたい。
とにかく、そういうわけで、ユビキリヤはマスターに連れ出され、このほぼほぼ夜というべき、だけれど夜でない、不思議な時間帯を連れまわされることになったのだった。
なぜ、なのかはしらない。理由も教えてもらっていない。
ただ黙って外出を促されたかと思ったら、次の瞬間にはこれである。
かろうじて成功した雀の涙程度のおめかしも、摩訶不思議な緑色の空気の中に隠れて、上手く見えなくなっている。
冬の寒さが、数少ない素肌を突き刺す。
一応必要ないとはいえ、きちんとしてきた防寒はその効果を十全に発揮している。
目の前の人物(多分)はというと、この人もまた寒そうにしている様子は見えない。
どう見ても薄い、それこそ秋にも通用しそうなほどの薄着のそれは、しかし様々な工夫と文明の利器を駆使し、真冬の寒さにも一mmも動かない城壁である。
ユニセックスな、誰が来ても似合うような黒いコートが、ふわりと風をうけてひらめいた。
スタイリッシュというべき印象を受けるはずなのに、もしくはファストファッションの代名詞というべきなのに、目の前の人物が着ると途端にマフィア映画のドンが着るコートに大変身するのだからフシギな話だ。
異様な威圧感は、そのままマスターの存在感に。そして、暗い空のもとでも目立つ明かりとなって、ユビキリヤを適度に導く。
それを頼りに、ユビキリヤはとにかく足をうごかし、マスターの後を追っていた。
どれほど時間がたっただろうか―――否、対して時間はたっていないはずだ。
自分に搭載された[権限]を基に、視界に時計を映し出せば、その時計はいまだ2人が玄関を出てから一区切りもない時間帯を指している。
同時にマップも見てみたが、どうやらここらへんには少し大きめの公園があるだけで、大したものは何もないようだった。
駅前からも少し離れている。
周囲には車たちの本流の音とともに、すぐ近くにあるバスケットボールコートだけの小さな公園が、若者たちの声援を湛えていた。
「あの、すいません、どこに―――」
ようやく絞り出せた言葉は、巨大な鉄の蛇がのたくる音でかき消された。
見ると頭上には、この国の大動脈ともいうべき鉄路が走っている。どうやらちょうどのタイミングで、その車両が通過したようだ。
ユビキリヤは常々思う。
この時程、片方の耳に栓をしておいてよかったと思うときはない、と。
そして、そんなユビキリヤのことを
―――厳密には、上を見あげて呆然としているユビキリヤのことなどほおっておいて、マスターと呼ばれる人物は、すたすたと歩を進めていく。
ユビキリヤも大急ぎで、その後を追った。
がたん、がたん、と巨大な音が橋の下に反響し、車たちがそれを踏み荒らすかのように走り続ける。遠くでなっている若者たちの声援は、やむことはなく。
それはこの世界の日常であり、同時にどうしようもないくらい、ユビキリヤにとってはなじみのない、「現代人間社会」の生活だった。
マスターは、そんなことを知ってか知らずか、歩みを止めない。
やがてその歩調は、橋をくぐってすぐにある横断歩道で止まり、わたってからも止まり、そして―――
「ああ、此処が今日の目的地だよ、ユビキリヤちゃん。」
そうして初めて、物理肉体を使って発した言葉が、それであった。
赤いライトと橙色の差し色が、真逆の色に染まる空を切り裂くようにかがやき、100メートル先からも分かるようにとその名前を明るく掲げている。
きっとそれは、遠くからでも安心を与えるためなのだろうな―――などと、とりとめもなく考える。
自分は体験したことはないが、真っ暗闇の道路の中、巨大な道路沿いに光るこの看板は、それはそれはこころづよく見えたのだろう。
そういう意味では、この看板も、ユビキリヤの助けと言えた。
―――その光り輝く白い文字が、どうあがいてもかなり一般的なファストフード提供店…早い話が、牛丼屋チェーン店の店名であることを除きさえすれば、十全に神聖な場面として働いただろうが。
そうはならなかったので、此処では結論だけを述べよう。
ユビキリヤは、マスターに牛丼屋に連れてこられたのである。
この、クソ寒い真冬の、何のイベントごともないほぼ夜に、いきなり。突然。何の説明もなく。
■
ユビキリヤはかつてから常々、割といろいろなお店に連れまわされている。
是非はともかくとして、迎えられた期間に比例して味わってきた味の数ならば、それこそ全ユビキリヤの中でも群を抜いているだろうという自負がある。
だが、たかだか一食の快楽のために遠くにまで足を運ぶマスターとは、意外にもこういった、近場のチェーン店に行くことはめったになかった。
今回はその珍しい、の最上位と言えるだろう。
カウンターの椅子…座りづらくいづらい、椅子にあるべき効能を全てうちやった、ただ座らせるだけの木偶…を、何とかしてお椅子として機能させようと四苦八苦しているユビキリヤをよそに、マスターはすでにすっかり腰を落ち着かせていた。
「…あの、」
呼びかけるつもりが無かったわけではない。
がメニュー表から上げられた瞳…厳密には、その赤い光を見た瞬間、脳が「アッすいません、ナンデモナイデス」と勝手に口を動かした。
最もユビキリヤには脳という臓器はないが。
しいて言うなら本能、もしくは自己の根幹にある誰かの思想なのかもしれないが、それはそれとして。
「何食べる?」
「え、えっと、じゃあ、お勧めで…」
「私の?」
「は。はい。」
「ぁあ、そう…わかった、じゃあ適当に選んでおくね。」
ぴぴぴ、とこなれた様子でタブレットをたたく横顔を見る。
相変わらず目だけが、死んでいるのに煌々と輝いている。
どう見ても若々しい肉の器なのに、老成した大樹を思わせる。
どうしてここに来たのだろう。聞きたくても選択肢一つミスったら即お陀仏系乙女ゲ―選択肢のような雰囲気が出ていて、とてもではないが聞けそうにない。
なお、マスターがこのような雰囲気をまとっているのはいつものことだ。
さらにいうなら、おそらくユビキリヤが勝手に感じているだけで、本人はそんなつもり一mmもないのだろうけど。
「お待たせしましたー!」
ようやく口を開こうというときには、すでに品が出てきていた。
深夜の牛丼屋というアパシーな場所には一切似つかわしくない、太陽のような笑顔に、ユビキリヤは哀れ焼かれそうになった。
深海勤めには刺激が強い。
マスターは一切動じずに受け取っていた。
果たして、そのメニューはと言えば。
「…」
チーズ牛丼であった。
どこからどう見ても。
「チー牛…」
「え?」
「イエナンデモナイデス」
陰キャ特有の悪癖が出たところで、マスターはぱちんと割り箸を割った。
改めて見てみればおいしそうである。
簡潔で簡素で、それゆえに間違いなく安価。だが、だからこそ。
三種類のチーズに、艶やかでたれと絡んだ玉ねぎ。
脂身は味と熱がしっかりとはいりきり、見るからにおいしそうだ。
因みに卵は乗っていない。ここいらは好みに寄るだろう。
ここまで来たら温泉卵も乗っけたかったな、と小さく思いながら、ユビキリヤはちらっと横を見た。
マスターは、ゆったりとした眠たげな猫背のまま、ぱちんと手を合わせ、「いただきます」。と一言口にした。
ユビキリヤもそれにのっとって、同じように呪文を口にし、一礼する。
マスターがこの挨拶をするのは実は珍しい。
いつもならば料理が並んだ瞬間、猛然と口に料理を運び込むというのに。
割り箸と、特有の細いスプーンをとも会いにして、ゆったりと口に料理を運ぶマスターの姿は、なんともまぁいつもの姿とはかけ離れていた。
余りにじっと見られていても居心地が悪かろう。
ユビキリヤもそれに習って、牛丼を口に運んだ。
「…おいしい!」
思ったより大きな声が出た。
だが、周囲の人間は自分の世界に浸るのに忙しいのかこちらに目を向けることはない。
謎に肩が狭くなって、ユビキリヤはしおしおと縮こまった。
マスターは「何やってんだこいつ」という顔をしつつも食べる手は一mmたりとも緩まない。
気を取り直して、ユビキリヤは牛丼を口に運んだ。
「…おいしい…」
今度小さな声でつぶやいた。
カロリー+肉+脂質。
これは黄金の計算式だ。
あらゆる人間が(個体差はあるが)美味しいと感じる大前提。
やりすぎれば毒だがそれは万物そうなのでおいておく。
すき焼きを思い浮かばせる甘くもしょっぱいタレは、それだけでお米が進む超万能調味料である。
世間にはつゆだくという魔の追加トッピング(?)があるらしいが、万が一適用したらいったいどれほどのコメが消えていくのかわかったものではない。
そしてその絶妙な味わいのタレによく絡みつつ、己のうまさを見失わない牛肉はこれまたしっとりとしていて、噛むと味がじゅわりと出てくる。
端に着いた脂がまたいい仕事をしていて、これがタレと絡むとまさに無限のうまさ。
白米はもう言うことなく。どことなく粘り気の強いそのコメはすべてを優しく受け止め、だが自分の味ももちろん主張する。
そして何よりも、チーズである。
三種類のチーズ、ユビキリヤはあまり詳しくないが、このコク深さはわかる。