家に帰ると、又、あの男がいた。水木は思わず嘆息する。
「水木ぃ~遅いぞぉ・・・・・・」
そして、その銀髪の男は、なぜか水木の家の酒を勝手に飲んでほろ酔いになっていたのである。しかも、ちゃぶ台にはどこから出してきたのかスルメイカ。本気で飲む態勢が万全だ。もちろん、それなりの時間なので鬼太郎はぐっすりと夢の中だ。
「おま! 勝手に人んちの物をッ!」
「水木が帰ってくるのが遅いのがいけないんじゃぁ~」
ドン、と着流しの男がちゃぶ台を叩く。その音で鬼太郎が起きやしないかと水木はヒヤヒヤとしたが、やはりこの少し奇妙な子供は全く起きる気配を見せなかった。
「毎日毎日、こぉんな可愛い鬼太郎を一人にして! 仕事がそんなに大事か⁉ ん⁉」
んん~? と顔を近づけてくる男の吐く息は明らかに酒臭い。水木がその身を後ろに引こうとしたところで、男に両肩をがっしりと捕まれてそれを阻まれた。
「ほれ! 仕事ばっかりしておるからこんなに痩せこけて⁉」
うぅ~! と突然嗚咽を漏らしたかと思うと、男はポロポロと涙を零し始めた。そして、そのまま、みずき~ぃと水木に抱きつく。夜中まで残業して、挨拶回りやら付き合いの会合やらに出なくてはならなかった1日の締めが見も知らぬ酔っ払いの男に抱きつかれて泣かれるとは一体どんな厄災だと水木は思わざるを得なかった。
「そもそもお前は誰なんだ?」
「ゆうたではないか⁉ 鬼太郎の父親のゲゲ朗じゃ! おぬしが名付けた名前、なぜ忘れる?」
またしても着流しの男、改めゲゲ朗がわっと泣き出す。一体、今の会話の中の何が悲しかったのかと水木は首を捻るしかない。考えることとしてはゲゲ朗が泣き上戸らしいということくらいだ。
「厄介なやつだ・・・・・・」
「厄介とか言うなぁ~」
「あー、はいはい。すまん。悪かった」
こういう場合は、ただ下手に出るしかない。長年の営業職としての人付き合いの勘がそう囁いていた。
「何か俺に用事があって俺のこと、待ってたんだろ?」
どうした? ん? と猫なで声で聞いてやれば、ゲゲ朗はパッと表情を明るくする。やっと涙を引っ込めたその顔は、しかし、まだ鼻水が垂れていてみっともない表情であった。
「そうじゃそうじゃ。大事なことがあるんじゃ」
「どうしたどうした?」
「これじゃこれじゃ」
嬉々としてゲゲ朗が取り出したのは、白い組紐のような物。その細いひもを何か大切な物かのように両手で差し出したゲゲ朗はどこか誇らしげに「わしが作った」と水木に見せる。
「綺麗に編めてるな、すごいすごい」
「そうじゃろ? そうじゃろ?」
水木はただひたすらに、半分くらいヤケになりながらゲゲ朗を褒める。その適当さに気付かないゲゲ朗は益々自慢げに胸を張った。
「これを、おぬしにやるのじゃ」
じゃじゃーん、とでも効果音を付けそうな勢いでゲゲ朗が組紐を水木の目の前に掲げる。
「俺に?」
「そうじゃ?」
うんうん、と嬉しそうに頷くゲゲ朗に、しかし、水木は疑問を隠しきれない。
「何で?」
「水木が危ないからじゃ」
「危ない?」
鸚鵡返しに水木が返すと、ゲゲ朗の表情が急にすっと真面目な物に切り替わった。その温度差に水木は一瞬、ハッとする。
「誘拐されるかもしれんのじゃぞ?」
「ゆ、誘拐?」
突然出てきた不穏な単語に水木は目をしばたく。
「人間というやつは強欲じゃからな。それに、根も葉もない噂に踊らされる。おかげで水木が誘拐されるのじゃ」
「ちょっと待ってくれ。もうちょっとわかりやすく話してくれないか?」
「だぁかぁらぁ。人間は強欲で根も葉もない噂に」
明らかに先程の言葉を繰り返そうとするだけの酔っ払いの言葉を水木の手が遮る。そうして、噛んで含めるように「噂ってどんな噂なんだ?」と聞き返した。
「おぬしがMを飲んどるという噂じゃ」
「M?」
その名前には聞き覚えがあった。しかし、ずうんと頭の奥が傷み始める。
「希代の妙薬。今は亡き龍賀一族の作ったおぞましき薬、Mじゃ」
「龍賀・・・・・・龍賀製薬の・・・・・・?」
龍賀製薬。その会社名も忘れるわけがない。担当だったあの会社がもっと伸びると思ったからこそ懸命に営業をかけていた。そこまで思って、また、めまいを伴う頭痛にさいなまれる。
「おぬしは覚えておらんだろうが、おぬし、哭倉村におったんじゃぞ?」
「哭倉村・・・・・・」
その名前を聞くと、いつだって強い頭痛がするのだ。何か思い出してはいけないこと、しかし、忘れてはいけないことを忘れているような。確かに、龍賀製薬の社長、龍賀克典とは何度かあいさつをした。そして、龍賀一族の出身の村、哭倉村に確かに先代時貞の死亡の報告を受けて向かったはずなのだ。しかし、結果としては、謎の大災害によって哭倉村は村一つが丸々廃村になるという結果になった。そこでの唯一の生き残りが水木。詳細は全く覚えていないが、何かを懸命に守りながら何かから逃げていたぼんやりとした記憶だけがある。そして、見つかった当初の水木は今のような黒髪でなく、正に目の前のゲゲ朗のような真っ白な髪になっていたとか。医者は相当なストレスが急激にかかったのだと話していたが、そのストレスの原因を水木はずっと明確に思い出せずにいる。
懇意にしていた龍賀製薬の社長、克典は村の途中の道で樹に衝突した車と共に見つかった。どうやら、即死のようだったと聞いている。
「うぅ・・・・・・」
水木が強い頭痛で頭をかかえていると、それに気付いたゲゲ朗がまためそめそと泣き始めた。
「すまん、すまんの。思い出さんでいい。すまんの、水木・・・・・・」
「いいから。で、Mを飲んでると何で誘拐されるんだ?」
「話しておっても平気か?」
「いつもの頭痛だ。それより、なんで誘拐されんだ?」
ふぅっとひときわ長い溜息をつきながら、水木は頭痛に耐える。何か思い出したいことと思い出したくないこと、思い出せないことが脳みその奥でこんがらがって暴れているようだった。
「今やMを作れる者はこの世に存在しない。だから、残されたMは高額で取引され、Mを飲んだ者達も同様に高額で売り買いされておるんじゃと」
「人身売買って事か?」
「そうじゃ。人間は恐ろしいのぉ」
言いながら、ゲゲ朗が水木の右手に組紐を巻き付ける。しっかりと固結びをされたそれを見ていると、なぜか頭痛が少し和らぐような気がした。ぼうっと組紐から温かな光が放たれているような気さえするのだから不思議な物だった。
「たしか、Mってやつは人間の身体を強くして戦争やら仕事やらをいくらやらせても平気にさせるという薬だったように思ったが・・・・・・それを、俺は飲んでいるのか?」
正直なところ、哭倉村で起こったことのほとんどを覚えてはいない。だから、水木自身、自分がMを飲んだのかどうかは覚えていないのだ。しかし、何を知っているのか、ゲゲ朗はハッキリと「いや」と否定する。
「水木は絶対にMは飲んでおらん。あんな忌々しい物・・・・・・」
ぐっと天井をにらむゲゲ朗の瞳は、今まで水木が見たことのない様な強い怒りを含んでいるように見えた。そして、そのゲゲ朗の言い草から、ゲゲ朗は水木に起こった哭倉村での出来事を知っているのだと水木に悟らせた。
「もしかして、お前・・・・・・」
あの村で俺に会っていたからこうやって会いに来るのか?
そこまで考えたところで、また、強い頭痛が水木を襲った。そして、今回の頭痛は、心配してオロオロと謝るゲゲ朗の声もない。一度閉じてしまった目を開き、水木は周りを確認する。先程までゲゲ朗がいた場所には誰もおらず、彼はまた、煙のように消えてしまっていた。頭の痛みに水木がうずくまると、わずかに、すやすやと眠る鬼太郎の小さな手が小さな布団からはみ出しているのだけが僅かに見えていた。
身代わりにされるのには慣れている。だから、平気だ。
南方に戦争で飛ばされたとき、水木には戦友がいた。と言っても、その多くは戦闘で命を落としていたが、その中でも唯一、最後まで生き残っていたのが斉藤という戦友だった。
戦争という物は人を狂わす。しかし、斉藤は最後まで狂っていないように見えた。だから、水木は彼を唯一の戦場での友だと思っていた。
「明日の突撃は玉砕覚悟だ」
そう宣言されたとき、さすがに、斉藤もこたえたのだろう。実際、多くの者達が狂っていった。やけ酒を飲むものもいれば、逃げだそうとして上官に捕まる者も居た。
そんな混乱の中、斉藤は水木に、一言。ぽつりと言った。
「水木。死ぬ前に俺の願い、叶えてくれないか?」
「どうした?」
「冴子に、会いたい・・・・・・」
冴子というのは、斉藤が内地に残してきた最愛の妻の名前である。大事そうに彼が持ち歩いていた写真を見るに、そんなに美人ではなかったが、斉藤と仲睦まじい夫婦であっただろう事がうかがえていた。
「冴子さんって、お前の奥さんだろ? さすがに今、日本に帰るのは無理だ」
斉藤を諭そうとする水木に、彼は至極冷静そうな声で「いや」と言い放った。
「違うんだ。水木、冴子の、代わりになってくれないか?」
「は?」
水木が思わず聞き返したのも仕方のないことだろう。隣に静かに座る男が、今正に正気でないだろう事がその時やっと、水木にも理解できていた。
「水木のその左の横顔。どことなく目から鼻にかけての感じが冴子に似てるんだ」
「おいおい」
だから、冴子の代わりに、俺に抱かれてくれないか?
斉藤はそう言ってむせび泣いた。
で、何でそんなことを今思い出したのだろうか?
水木は手足を麻縄で縛られた状態で考える。きつく縛られた両腕が痛い。窮屈に丸まった背中が悲鳴を上げている。何より、しっかりと結ばれた目隠しの布のせいで今自分が一体どこにどうやって寝っころがされているのかさえもわからない。ただ、床の冷たさが、右頬に当たる埃臭い床が、もしかしたらあの戦地での最後の夜を思い出させたのかもしれなかった。