「…うぐるるる…」
「野獣?」
「お前の彼氏さんですね。」
■。
帰り道にかかってきた、着信の向こう。
見知った人の声で紡がれるその言葉たちは、どこか遠くて、あやふやで。
だけど、自分の望まない非日常を、確かに連れてきたのだと。
それだけが、ぼんやりとする頭の中で、確かなことだった。
彼は、変な液体をかけられたのだという。
用途は不明、犯人も不明。
そして何よりも、対象は彼ではなく、通りすがりの人だったと。
年若い女性にかけられるはずだった液体を、彼は余すことなく全身に浴びた。
そして、今。
彼は、彼は―――…
「うぐううううう…」
「じゃあ、おれはこの辺で★」
「まって、まって」
思わず縋りついた。
待ってほしい。本当に待ってほしい。
目の前の彼と、二人きりにしないでほしい。
まだ心の準備ができてない。
「なあに、どうしたの。一応ここに来るまでに説明はしたじゃんけ。」
「してもらったけど、こんなのとは聞いていない。」
説明を聞いた時から、いや、厳密には着信が来た時から、覚悟を決めていた。
その体が病室に横たえられているところまでは想定していたし、
最悪、その顔が白い布で見えなくなっている可能性すら脳裏によぎった。
すぐにそれは勘違いとまではいわなくても、心配する必要はないと明言されたときには、思わず全身の力が抜けたほどだ。
だけれども、そしてだけど、その部屋に行く途中で説明を聞いた時から、これは自分の手にあまる非日常だとひしひしと感じていた。
そして、今に至る。
はっきり言わせてほしいが。
こんな、かっかと真っ赤っかな顔をした俺の恋人と会うなんて聞いていない。
もうすこし厳密にいうんなら、こんな、発情した俺の恋人と会うなんて、聞いていない。
「だから、いったろ、ここに来る途中に。
お前は、これからこいつの看病をするんだ。
そしてついでに言うなら、これはお前にしか頼めないし、お前以外には務まらない。」
「それはわかっている。俺はそれ以外のことを聞いている。
というか、こんな状態の遼平君を他人に見せるなんて、言うまでもなく言語道断だ、死罪に値する。
出来ればあなたのことも。」
「残念、法は俺です。
言っておきますが、その場で回収して速やかに逃げたんですから、いちゃもん付けないでください。
彼のこんな姿を見れたのは、未来永劫あなただけ。
そしてもちろん現時点でも、|これからのことも《・・・・・・・・》、彼のこんな姿はあなただけの物です。文句がおありで?」
あるかないかでいうなら山のようにあるが、しかしそれを語るには少々時間が足りない。
何より背後から聞こえてくる|呼吸音喘鳴が、すでに限界を訴えている。
正直なことを言うと、これからのことに俺は耐性がない。厳密には、耐性が着く前に、彼にめちゃくちゃにされてしまっている。
だからというわけではないが、これからのことは、いつもは3日くらいお互いに覚悟を決めたうえでやるのだが。
しかし。
だからと言って、これで怖気づくようなら恥だ。
しゅるり、と首元のネクタイをほどく。
指先がシャツに触れて、否が応でもわかってしまう。
これから俺は、大変なことになる。
それを思って、胸が恐怖でも緊張でもない鼓動で震える。
べっとりと濡れた汗もものともしない布地を引っ張って、ほどいて、投げ捨て…るのは少々もったいないので、そっと巻いて胸元のポケットにしまい込んだ。
「…わかった。もういいよ。あなたはここから帰ってください。あとは俺で…|俺たちで《・・・・》、何とかします。」
「おいおい冷たいな。説明もまだちゃんと聞いていないくせに、いいの?いろいろ困ること、あるんじゃない?」
「お気遣い、痛み入ります。確かにそれは不安ですし、何よりこの部屋の内装がいかにも「それ以外に使いません」という風貌で、正直二重の意味で頭に血が上りそうではありますが。」
だけど。
だからと言って。
「でも、俺は、俺達は大丈夫です。
ありがとう。あなたがいなかったら、俺は俺の大切な人の心が致命的に傷ついた事すら知らないまま、日常を生きていたかもしれない。それにだけは、死ぬほど感謝しています。
ですが―――…」
はく、と口が開閉する。
目の前の赤い炎は、その先をじっと待っているかのように、微動だにしない。道化じみたほほえみも、先ほどまでのお茶ら気も、どこへやらだ。
だけど、この人は間違えない。放った言葉を笑わない。
だから、大丈夫。信じたい。
「――…俺の死にゆく顔は、彼だけのものですから。
大きくても、|小さくても《・・・・・》。どんなものであろうとも。」
目の前の瞳が緩く細められる。
と、同時に、後ろで鳴り響いていた喘鳴がやんだ。
ああ。恥ずかしいことを言っている、わかっている。
分かっているけど、これだけは、止められないのだ。
「それに、彼がもしも怒り狂ったら、俺のように我慢できるか、到底不明ですよ?
ひょっとしたら、比じゃないかもしれません。」
「知ってるよ。
では、|看病・・は君に任せていいんだね?信頼しているよ?」
「はい。」
「念のために行っておくけど、ベッドの傍にはナースコール(仮)がある。
もしも本当に困ったり、とんでもないことが起こった場合は鳴らすように。
そして、何でもないことや誤作動で鳴らさないように。
じゃないと、真っ最中に慌てふためいた成人男性やらが雪崩のようにこの部屋に崩れ込んでくることになります。良いね?」
「はい。」
「よろしい。水は隣の冷蔵庫、着替えは近くのクローゼット、替えの布等は自動的に、洗濯物は向こうへ。困ったらあの箱へ。ほかに聞きたいことは?」
「ないで…ああいえ、一つありました。」
「何?」
「その…そういうこと、につかうものは?」
「ベッドの横、冷蔵庫の上にちょこんと乗っかっているテーブルのひきだしに。カタログ付きだから、欲しいものを選ぶといい。紙に書き込む→引き出しに入れて締める→もういっかい開けるで望んだものが出てくるようになるから、それも参考に。クローゼットも箱も冷蔵庫も、大まかにはそんな感じだから、好きに使って。」
「謎技術ですね。」
「何分こういう性分なもので。では、俺はこれにて失礼。」
「何から何まで、ありがとうございます。」
「いいよ。そっちこそ、無理だけはしないでくれよな。死体二つ回収とか、死ぬほどごめんだから。」
「そんなことにはなりませんが???」
「ごめんて。」
じゃあ、お邪魔しました。
そういって、彼女は扉を閉めた。
それを追いかけるように、かちゃん、と、内側から錠を落とす。
それだけで、この世界はもう完璧に、彼と俺だけのものになった。
振り返る。
もう一度、この部屋に来た時以来の情景を目にする。
真っ白な空間。壁も天井も床も、継ぎ目の融け込むほどなだらかで、だけど真っ白な部屋。
鉄製の、提灯のようなあかりと鉄柵の付いた縦長窓だけが、この部屋の光源。
そして、ベッド。
まっしろなシーツに、ぴしりと整えられた様々な調度品。
デザインは普通の…否、キングサイズのベッドだが、どことなく病室においてあるそれ。
そして、その上に――恋い焦がれた、彼の姿。
「遼平。」
「うぐ、ふう、ふう、うう、うぐ」
それはいつもの風舞高校の服だった。シンプルで質のいい設えの、飾らないシンプルなぴしりとした服装。
だけれど、それは今はぐしゃぐしゃになっていた。
制服、だけではない。文字通り、彼のすべてがいま、ぐしゃぐしゃになっていた。
濡れたシャツは、汗だけでなく、その口元からだらだらと垂れおちる唾液でも。
粘度の高くなった唾液が、つうと口の端から垂れてぼたぼたとシーツにシミを作るたび、どきりとして、目線を離せなくなる自分がいるのがわかる。
だけれど、その顔にいつも浮かべられているほほえみはなく。
その微笑みを形作る大部分を担う、朗らかで強引だけど優しい目は、今、恐怖に酷似した感情で濡れていた。
「なんで、なんで、くるの、しゅうくん」
「なんで、ってなんでだい?」
「だって、だって!あの人に頼れば逃げられたのに、あの人についてこなければよかったのに、だって、だって、俺が逃げられない間に、目の前の扉から出ていけばよかったのに、だから、だったら、だって、」
ぼたぼたと垂れるしみの間を縫って、口から出てくる言葉は、そのほとんどすべてがびっくりするほど不明瞭だ。
だけれど、言いたいことはわかる。
だって、彼は、ここにきてずっと。
‥‥いや。きっと、この症状が現れてからずっと、俺を求めていたのだろうから。
俺のことを求めて、そしてそれ以上に、俺のことを拒んでいる。心配してくれている。
だってそれは、|相手を傷つけることに他ならないから。
この欲望に正直になった結果、俺がどれだけのことになったのか後日かいがいしく世話を焼いてくれた彼が知らないはずはない。
だけど。
否、だからこそ。
彼のもとに、一歩歩み寄った。
びくりと、彼が体をはねさせる。薬の影響もあって、もう自由に動かない
体をよじって、それでも俺から離れようとする。
だってそれは、俺を傷つけないために。
「しゅう、くん、やめて、まって、」
「なぜ?」
「だから、それは―――」
言葉の続きは、ベッドに腰かけることでさえぎった。
虐待を受けたスプリングが、すさまじい音を立てる。
目の前の体が、反動だけではない衝撃でびくりと震えた。
「俺はね、遼平君」
俺は、彼の頬に手を伸ばした。
抵抗はさせない。抵抗なんて、させない。
拒絶なんて許さない。だって。
「遼平君の顔が、その声が、症状が、誰か一人―――たとえ|あの助けてくれた相手だったとしても、見られてしまって、悔しいって思ったよ。」
分かっている。助けてくれた人に感謝こそすれ、こんなことを言うなんて正しくない。実際感謝の念に尽きない。
が、それとこれとはいったん別にして。
「悔しかった。哀しかった。辛かった。君が助けを呼んだのに、君に駆けつけられない自分が厭だった。」
「しゅ、く、」
「君が助けを求めているって、他でもないその事実を、他人の、しかも電話の向こうから聞いた時の俺が、どんな顔をしていたか知っているかい、遼平君。千と万にはからかわれたし、本村先輩には微笑まれた。佐瀬先輩に至っては真っ赤になるような言葉をいただいたし、椛島先輩に至っては再起不能だ。|正常いつも通りだったのは湯島先輩くらいのもので、だけど珍しく道路の小石に躓いていた。」
本当に恥ずかしいことだが、その時の俺はどうかしていたらしい。
いつも「わかりづらい」とさんざん言われる俺が、はたから見てわかるほどだというのなら、それはもう相当なのだろう。
その件については考えると脳が燃えるほどだが、それはそれで後で謝罪めぐりをするとして。
「だけど、遼平君。」
「、」
「俺はここに来たよ。」
ちゃんと聞いて、ちゃんと判断して。
ちゃんと、君のためにここに来た。
たしかに正気の沙汰ではないのかもしれない。
たしかに今のおれは冷静じゃない。
だけど、だけどそれでも。
それでも、いい。
「ちゃんと、俺が選んだことだ。
選択肢なんていくらでもあった。後押ししてくれる人もいた。
なのに、ちゃんとここに来たんだ。どうしてかは、もう知っているね?」
「…俺、に、だけ、」
「そう。」
そう。そうだよ。
これは、お前が望んだことでしょう。
遼平。
お前が望んで、俺が許可した。
文句は、言わせない。
するり、とネクタイを抜いた跡地のボタンに手をかける。
と、同時に、彼の口を覆っていた金網のようなものを外す。
噛みつかないように、犬の口を覆うそれは、彼にはふさわしくない。
だって、ほら。今でも望んでる。
震える手で、がちがちとなる口で、見開いた目で。
それでも、彼は、俺に触れていない。
そう、一mmも。
それは、うれしい。うん。正直とてもうれしいし、つまりそれは薬の効能に、俺のために抗っているということで、それはもう、本当に。
嬉しい、のだけども。
それはそれとして。
「それに。」
「それ、に、なに?」
「気にくわないんだよ。君が、俺に連絡なんて取る気じゃなかったってコト。」
「げ、あの人そこまで言ったの??」
言った。
脳裏で過去がリフレインする。
『呼ぶなとは言われてるんだけどさあ、扉一枚隔ててもきゅーんきゅーんみたいな感じで『愁君』『愁君』っていうのが|聞こえ《・・・》てたら否が応でも気にするじゃん?
お前が時間よろしければ…具体的には明日か明後日の夜20時くらいか?まで都合がつけば、連れていきたいんだけど、いいかな。』
「二つ返事だったよ、舐めないでくれ。」
「げえ…っていうか、愁君、あさっての会合?は?」
「キャンセルした。」
「ええ…」
「言っておくけど、俺にとって、遼平君より大事な物なんてないから。二回目になるけど、舐めないでくれ。それくらいどうとだってして見せる。」
「…ふふ、かっこいいな。俺の彼氏は…」
そういって彼は、ぽかんとした後、ふにゃりと笑う。
それは、俺が世界で一番好きな顔で。
そして、普段は俺にしか見せない表情で。
そして、今日一日、初めて見た、|日常のいつもの笑顔だった。
「そうだよ。だから、ね?」
「ん、むうっ?!」
そして、その日常を奪うようで悪いけれど。
俺は、フリーになったその唇にちゅうっと口づける。
未だ甘い口内、薬の影響の抜けきらないそこは、口づけるだけで甘く、まるで果実のように俺の頭を蕩かせる。
舌を絡めないのは、絡めたら最後、俺も彼もあとは|貪る《・・》だけだと、まだ理解しているからだ。
そしてその理解を、今から俺は放り投げることになる。
そして、これからは、目の前の彼も。
ちゅ、ちゅ、と吸い付いて、三度ついては離れてを繰り返して。
離した時にはもうすでに、熱い息がふれ合っていた。
その目が、ぎらぎらぬらぬらとしていて、俺はそれを知っている。
だけど、まだ。もう少しだけ、足りない。
なので、もう一押し。
獣のような狩人に、しかしぴったりの言葉をかけた。
「|俺を、殺してくれるんでしょう《・・ ・・・・・・・・・・・》?
これから、小さく、何度も。」
びしりと固まる彼を見て、思わず微笑みが止まらない。くすくすと笑いながら、彼の腕の中に飛び込む。
とさり、と音がして、案外力なくその体は崩れ、俺たちはシーツに転がった。
きっとすぐに覆されるマウントを、そっと位置を調整しながらとって、笑う。
ね、お前にとって、俺は獲物なのでしょう?
いいよ。今日は、甘んじてあげる。
だって、俺だって甘やかされたいから。
でもそれは、たぶんあさっての夜になるので。
「おいで。|遼平・・
お前の全部、受け止めて。なんてことなかったって。笑ってあげるから。」
ぐるりと視界が回る。
おっと、と天井を見上げる。
からかいすぎたかな。
そこそこの速度だったのに、衝撃は感じない。その理由は知っている。
頭の後ろには、彼の大きな手が添えられている。
むろん、腰にも。
ああ、知っている。この体温。大好きで、嫌いで、だけどやっぱり、いとおしいもの。
守るための物で、逃がさないための拘束。
それを、そっと添えながら。
俺の狩人がささやく。
「…ありがと、|。」
いつもは、二人きりの中でも唯一の場所と時間でしか言わない呼称を交わしながら。
振ってくる、濡れた唇を。
そっと舌でなぞって、迎え入れた。
真っ赤になった顔と、ドロリと融けた澄んだ瞳が、本当に。
笑えるくらい、いとおしかった。
『ねえー、あの部屋何時まで使うんだっけ?あさっての21時だったよねー?』
『ああ、その件なんだけど。正直に言って、一日延びたわ。』
『え、なんで?』
『しらなぁい。|本人たちの要望・・・・・・・なんだから、本人たちに聞けばぁ?』
そういって、ささやかな復讐を終わらせた彼女は、にやりと笑った。
後日、その事実を聞いて、追撃と言わんばかりに無垢な質問をされて、真っ赤になった青春真っ盛り青少年たちがいたことは、もちろん、語るまでもない。
『|猶予時間モラトリアムで安らかに』
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【完】遼愁
初公開日: 2023年09月04日
最終更新日: 2023年09月04日
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コメント
お前を■■してる。
どこにでもある、二次創作。
ロマネスカ
エッチじゃない話
本当なんです信じてください。
ロマネスカ
「「ユビキリヤ。」」
出演COEIROINK/ユビキリヤ CoeFontSTUDIO/ユビキリヤ
ロマネスカ
『ファーストステップ』執筆RTA②
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きさ
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