クレーゼル。
 サラランヌ大陸の東の果てに位置するこの地は、血を血で洗う醜い争いが絶えない地であった。支配者は己が欲を満たすために戦争を引き起こし、民は生きる為に悪事を働く者もいれば、大事な人を護る為に戦う者もいた。
 かつては、大陸中にその汚名が広がり、好んで移住する者は無かったという。それどころか、西の国家から流刑の地に選ばれたほどだ。まさしく闇の地と言っていい辺境であった。
 だが、今のクレーゼルにそんな影はない。なぜなら、この地から大陸全土を照らす輝きがこの地から生まれたのだから。
 それは突如襲ってきた。後に魔王と呼ばれる存在が、大陸を暗黒に塗りつぶしていったのだ。暗雲が世界を覆い尽くす。
 その魔の手が伸びたとき、人々は結束した。人同士で争っていられる状況ではない。クレーゼルには魔王に対して生き残るための戦争だけが残った。そして、人は勇敢に戦ったのである。
 しかし、魔王の勢力は絶大であった。いかに人が心を一つにしようとも、立ち向かうには高すぎる壁であった。人々は徐々に追いやられ、大陸から人の歴史は絶えようとしていた。
 その脅威を打ち払ったのが、他でもないクレーゼルの同胞なのである。
 その希望の名は、勇者アイヴァン。
 大陸中を覆い尽くした魔王の軍勢を相手に、最初はたった一人で強い心を武器に立ち向かった。彼の精神は諦めの境地にいた民を奮い立たせた。魔王は追い詰められ、そして、ついにアイヴァンは信頼すべき仲間と共に魔王を打ち破ったのである。
 その英雄譚は今もなお、語り継がれている。人の心を奮い立たせている。
――忌み嫌われた我々の血から、大陸全土を救う勇者が生まれたのだ。
 その事実はこの地に生きる者にとって希望となった。胸に宿った誇りは、百年経った今も強く輝いている。
 現状、クレーゼルでは四つの勢力がしのぎを削り、人々の間には不穏な空気が立ちこめている。人々の記憶から消え去った、かつての暗黒の足音が近づいてきてはいる。
 しかし、歴史にアイヴァンという輝きが有る限り、本当の意味で彼らが闇に沈むことはないだろう。クレーゼルの民は、心から信じているのだ。勇者生誕の地に住む我々であれば、どんな苦難も乗り越えられると。
「ここ、か。けっこう距離あったな」
 歩みを止め真っ直ぐに前を見つめる少年、アルフレッドも幼い頃、かの勇者に憧れた一人である。
「さて、どうするかな」
 胸に手を置いて、しばらく目を閉じる。大きく息を吐いて、緊張を解こうとしていた。ここまで緊張するのは入学試験以来だろうか。
 きらびやかな服装をした通行人がちらちらとアルフレッドを見ている。彼らに比べて、アルフレッドの装束は非常に簡素なものだ。自分は場違いである、そんなことは自覚していた。
(これならまだ決闘している方が気が楽だ)
 戦いの場で、相手と対峙した緊張感。すっと、全身が冷たくなる。そんな感覚を好んですらいる。それが高揚に切り替わる瞬間は格別だ。
 ただ、ここは違う。迷い込んだ野生動物の気持ちが今なら分かるかもしれない、とアルフレッドは内心で息を吐く。あたふたと、あちらこちらに右往左往する小動物。
(こう、見られてるだけってのが、むずむずするんだよな)
 また一人、通りかかった男が珍獣でも見るかのような視線を向けてきた。挑発に感じて、思わず睨み返してしまう。そんなアルフレッドの目に射すくめられた男は顔を引きつらせた。足早に立ち去っていく。
「ふぅ」
 今度は音を出して嘆息する。
 先程から、こうだ。アルフレッドは目的を達成するために誰かに話しかける必要がある。それなのに、近寄ることもできない。遠巻きに眺められているので間合いを詰めることができないのだ。
「なんだよ、俺は悪人じゃないぞ。そんなに怖がるなってのに」
 発達途上の体躯、幼さの残る顔立ち。アルフレッド自身は己の威圧感に自信は無い。
 しかし、この場所の者達からすれば、明らかな異分子なのだ。興味を持つ者はいても、鍛え上げた腕の筋肉を見たら震え上がる。最初から警戒するのも無理はない。
(文字通り、住む世界が違うっていうことか)
 体に入っていた気合いがしぼんでいくのを感じる。少しだけ、臆する気持ちが顔を出す。このまま敗走したい気分すら生まれる。背中を見せて逃げれるのなら、どんなに楽なことか。
「まてまて」
 しかし、ここで引き返しては何のために鍛錬の時間を削ってまで暇を作ったのかが分からなくなる。ここまで入ることができたのだ。先に進むしかない。
 彼は意を決して、止まっていた歩みを再開させた。
 アルフレッドが足を踏み入れた場所。
 そこは彼が所属するモーングローブ学院、その芸術科の領域であった。
 勇者アイヴァンの仲間が一人、豪商ソフィアが創設した財団が運営するモーングローブ学院は、クレーゼルの中央に位置している私立学校である。この地の英知が結集し、優秀な卒業生が国の発展に寄与することから、四勢力からも中立と見なされていた。
 そんな学院から優秀な戦士を排出することを目的としたのが、アルフレッドの所属する戦士科だ。彼はもちろん学生の一人であり、ここはモーングローブ学院の土地である。当然、アルフレッドもこの場に足を踏み入れる権利はある。ここが芸術家だからと、戦士科の彼が来ることが違反になるわけではない。科を越えての交流はむしろ推奨されていた。
 単純に踏み入れづらいのは精神的な理由からだ。アルフレッドにとっても異世界であれば、芸術科の生徒にとっても彼は異物だ。
 巡回していた近くの警備員に一瞬ジロリと睨まれた。警戒されている。
「どうも」
 しかし、アルフレッドがぎこちなくも会釈すると、彼も頭を下げてくれた。それだけではなく、笑顔で「お気をつけて」なんて言ってくる。
 実際、首にかけた学生証さえあれば、ここは素通りだ。物理的な障害はない。門も開放されている。
 問題になっているのは精神的な壁なのだ。
「……さっきより増えたな」
 中に入れば入るほど、周囲の視線は多く集まってくる。もう少し鈍感であれば楽なのだが、そこは戦士を志すアルフレッド。律儀に全ての視線を受け止めて、その意味を判断している。
 さすがに、ここまで多いと最初は苛立った彼も慣れてきた。
(怪しく見えるよな、やっぱり)
 芸術科に通う生徒達の中にいて、アルフレッドの方が異質なのは間違いない。逆の立場だったら、自分も奇異な視線を送るかもしれない。
 実例が目の前からやってきた。その姿が視界に入ると、アルフレッドは眉根を寄せた。
(あれは、皆気にしないのか)
 上半身に塗料を塗りたくって練り歩く男性をアルフレッドは薄めで見送った。彼の目にはかなり奇異に映るのだが、周囲は無反応である。そして尚、視線はアルフレッドに集まっていた。
(なるほど、あれがここの普通なのか)
 あんなものは珍しくもなんともない。質素すぎる自分の方がこの場にいる人間にとっては珍しいのだ。見られても仕方が無い。
 そう考えると、アルフレッドはずいぶんと気持ちが楽になった。
 同じ学院内にあってアルフレッドの属する戦士科と、ここ芸術科は全くといって良いほど接点がない。学院は学科ごとに運営方針が違い、それぞれが独立しているのだ。敷地ですら接していないのだから、目の前はアルフレッドにとっても未知の空間が広がっている。
 先程の男だけではない。個性的な服装に兜のように盛った髪型。明らかに舞台用と分かる化粧を厚く塗った顔があると思えば、模様なのか汚れなのか分からない服を着た少女もその近くを走っていく。
 壁に描かれた絵は、非常に抽象的でアルフレッドには何が描かれているか分からなかった。重ねに重ねた色使いは見ているだけで楽しいものだが。
 周囲に目を配りながらそのまま歩みを進めていく。
「なんか広い場所に来たな」
 急に視界が広がったと思えば、開けた地形が目の前にあった。その中心には何をモチーフにしたのか分からない、奇っ怪な彫刻が飾られている。ここから道が何本か延びて、建物の入り口に繋がっていた。
 どうやら、敷地の中央に位置する広場らしい。ここで待ち合わせをしていた数人の生徒が、石でできた長椅子に腰をかけて談笑していた。
「なんだ、あれは」
 アルフレッドは広場の一点を注視する。一人の女性が男性達に囲まれていた。女性の方は少々刺激的な服装をしていて、困ったような笑顔を浮かべている。周囲の男性の目は非常に鋭い。血走っていると言ってもいい。
 何事か、とアルフレッドが身構える。むくむくと持ち前の正義感が顔を出そうとする。状況によっては助太刀が必要か。さすがに帯剣はしていないから素手で戦うことになるが。
 そんな風に色々と対処を考えながら、ゆっくりと前進するアルフレッド。しかし、その会話が聞こえる位置まで来てみれば、何てことは無かった。
「あなたの輝きを、僕の絵で永遠にして見せます!」
「いやいや、ここは自分が石の中から指先に至るまで取り出しましょう」
「それだったら、わたくしが・・・・・・」
 それは彼女の容姿に創作意欲を沸き立たせた芸術科の卵達が是非モデルにと頼み込んでいる場面だった。
 非常に気合いが入っているのも、そのせいだ。息が上がって、皆が早口になっている。
 勢いが強くなるばかりの男性達を最初は困った様子を見せていた女性も、ふぅと一息つくと妖艶な表情で笑った。
「ごめんなさい」
 そして、片目をパチリとすると、男性達に愛想を振りまき始める。一人ひとりにちゃんと視線を合わせてから、彼女は動き出す。
「私、これからショーの準備があるのよ」
 軽やかな足取りで人の間を抜けていく女性。そのまま、囲みの外へと出てきた。まるで、ダンスのステップだ。そういうのに疎いアルフレッドも優雅だと感じた。
 そして、くるりと振り返ると、彼女の動きについていけていない男達へと最後の挨拶をする。幕が閉じる前に演者が行うそれに似た、深々とした礼儀正しい行動だ。
「私のことが気になったのなら、あなた達もショーにいらしてくださいな。作品を作っているよりも、ずっと有意義な時間にしてあげる。きっと満足させてあげるから、ね」
(大した自信だな)
 女性の物言いに、アルフレッドは感心すら覚える。生徒の中には学院の敷地内にある商業区で働いている生徒もいると聞くが、彼女もその一人のようだ。
「ふん、ふふ~♪」
 リズミカルな足取りで、彼女はアルフレッドに近づいてくる。と、いうよりはこれから校舎の外に出るのだろう。つまりは、アルフレッドがやってきた道を戻るということだ。
 広場に入ってから一直線に集団に向かって歩いていたアルフレッドは、当然、彼女と鉢合わせることになる。
「あら」
 そこで、アルフレッドと彼女の視線が交錯した。彼女はすぐにたたたっと軽い足取りで近づいてくる。
 その動きがあまりにも自然に素早くてアルフレッドは身動きとれずに立ち尽くしている。これが武器を持った相手なら警戒するのだが、反応が少し遅れてしまった。
「お兄さんも、よかったら来てくださいね。商業区の、リアナってお店だから」
 どうやら、先程までのやりとりをアルフレッドが見ていたことを彼女は悟ったようだ。
 彼の顔の近くまで、わざわざ目を近づけてから彼女は大人びた笑みで笑う。ふわりと、彼女がつけている香水の香りが周囲に広がった。
「お、おう」
 アルフレッドの返事は妙に上ずっていた。緊張を悟られぬよう、力が入ってしまっている。
 そんな彼のおかしな挙動も意に関せず、彼女は最後まで優雅に立ち去っていった。
「どうしよう、良い作品になると思ったのに」
「こうなったら、ショーに参戦して目に焼き付けてでも……あ、あいつ、もう先に行ってやがる!」
 残された男達も、早々に去って行った。結局、この場に残っているのはアルフレッドだけだ。
(芸術にしか興味ないのか。凄いな。あの集中力は見習うべきものがある)
 なぜか負けた気になるアルフレッドである。結局、彼は最後まで踊り子の女性らしさに心を乱されてしまっていた。
「剣しかやってこなかった弊害だな」
 アルフレッドは天を見上げ、大きく息を吐いた。どうも、年の近い女性は苦手である。記憶をさかのぼっても、まともに話せた覚えがない。
 幼い頃であれば例を挙げられるが、家族のようなものだったから意識したこともない。
「ま、いいや」
 消えぬ敗北感を抱えたまま、アルフレッドは足を進めた。
 建物のある場所まで来てみた。入り口らしき場所を素通りして、ぐるっと大きく外を回る。いくら何でも、いきなり用もなく中には入りづらい。
「やっぱり」
 それでも、外から見ていても分かることがある。
「生きている世界が違うよな」
 芸術科の生徒からはよく言えば余裕、悪く言えば怠惰な雰囲気をアルフレッドは感じ取った。
 噂で聞くところでは裕福な家の出身が多数を占めているらしい。事実、ぱっと見は華美で無い衣服を見ても、布から違っているかのような品の良さを感じる。支給される制服が一番高価なアルフレッドとは大違いだ。
 何とか、この学院を足がかりにして、よい条件の就職先を探そうと躍起になっている。戦士科では珍しくない、自分のような生徒はいたとしてもかなりの少数派だろうとアルフレッドは思う。
「そうだ、だからこそ」
 俺はこんなところまでやってきたんだ、と芸術科に足を運んだ理由を思い出した。
――『最強』は芸術科の生徒である。
 にわかに信じがたい噂をアルフレッドが聞いたのは、もう一月ほど前になる。
 それは、モーングローブ学院が誇る一年に一度の大イベント、学院祭を運営するグループが話していたことだ。
 学院祭は様々な行事が催されるが、アルフレッドの関心はただ一つである。武闘祭だ。
 学院内には本格的な闘技場が存在している。学院祭では伝統的にそこで生徒同士が己の力と技を競い合う武闘祭が開催されていた。
 試行錯誤の末に競技化された模擬戦ではあるが、生徒達が鍛え上げてきた力を外部にアピールする数少ない機会である。実際に、この武闘祭をきっかけに仕官した者も多い。そしてその後も優秀さが語られるとあっては各国の軍事担当者、護衛に腕自慢を欲する富豪達といった各方面の関心が、このお祭りに集まっていた。
 お祭り、と言っても就職が目的で学院に来ている生徒にとっては数少ないチャンスなのだ。アルフレッドも、この機を逃すつもりはない。もちろん出場はするし、覚えを良くして次に繋げる気は満ちている。
 ただ、気がかりなのが、ここ三年、最優秀戦士として表彰された生徒の存在だ。どうやら同一人物らしく、リルという名前だけは分かった。
 その噂が気になったアルフレッドは生徒や先生に聞き込みを行った。そして、実際にその戦いを見た者は口々にこう言っていた。
――彼こそが『最強』だ。
――彼女は闘技場で一番『最強』だった。
「性別も分かんないって、なんだよな」
 そこを疑問に思ったアルフレッドはさらに聞いて分かった。どうやら、その『最強』は芸術科の生徒で、だから戦士科の人で知っている人が少ないんだと。
 さらに聞けば、戦闘中は常に仮面を被っていて、おそらく名前も芸名だ。衣服も男性的な時もあれば、女性的なときもある。
 戦士科ではありえないことが、その戦士をよりミステリアスに演出しているのだ。それを面白がって、誰も噂の真実を追究しようとしない。存在するのは確実なのに、霞みに覆われた伝説の存在となっている。
 そう、誰も本当のことか確かめようとしない。ここにいるアルフレッド、一人を除いて。
(それだけ噂になる『最強』を超えれば、俺の価値は跳ね上がるはずだ)
 目立つのが苦手なアルフレッドだが、将来を考えて、来賓に覚えてもらうにはそうはいかない。そう思い立ったら、行動せずにはいられなかった。
「まぁ、でも」
 衝動的に始めてしまった行動。しかし、時間が経つにつれ、無駄足になるかもしれないとアルフレッドは思うようになってきた。
 まず第一に、アルフレッド自身に情報を集める力が足りない。戦士科相手ですら苦戦するほどに、そういったコミュニケーションが彼は苦手である。まして、芸術科で会話のかみ合う相手に出会えるとは思えない。
 第二に、その『最強』が芸術科だと判断された経緯だ。非常に戦士らしくない、のである。どうも聞く話に寄れば、無駄な動きが多いらしい。跳ねたり跳んだり、わざと隙だらけの行動をとったり。それで勝つのだから、実際には強いのだろう。しかし、たとえ強くても、そんな真剣味の無い戦士を必要とする者がいるだろうか。
 そして、最後に。
「さすがに本人はもう学院にはいないよな。少なくとも、今年で四年目になるしな」
 噂は三期分存在した。一般論として、セントリア学院を巣立つまでに二、三年程度かかるのが普通だ。アルフレッドは入学選考試験を優秀な成績で突破しているので、特別待遇として学費を免除してもらっているが、その期間も一年毎に更新で最大は三年だ。
 ちなみにアルフレッドには、その三年ですら長く感じている。一年でも早く、モーングローブ学院を踏み台に次の段階に進みたいと思っている。
 余生を研究に費やそうとしている魔術家の老生徒でなければ、もう学院には存在しないだろう。芸術科だって、三年以上教えてもらうことがあるのだろうか。これだけ個性的な人間ばかりで、すでに稼いでいる人もいて、学院にしがみつく必要性を感じられない。
「すまん。時間をとった」
「い、いえ、いいんですよ」
 リルという名前を聞いてみているが、全て空振りだ。ろくな情報が集まらない。
(怖がられただけかもしれないけどな)
 声をかけた相手は足早に去って行った。戦士科の自分を、おびえを含んで見ていた少年の顔を思い出して、アルフレッドは天を仰いだ。
「まぁ、でも、せっかく来たからな」
 このまま収穫何も無しで帰るのも気分が悪い。次に打つ手は決まっている。
「中に入るか」
 なぜか、塗料がべったりと塗られて自己主張の激しい入り口の前で小さく頷くアルフレッド。
 意を決して、一歩を踏み出した。
「あっ」
 刹那、目を丸く見開いた少女の顔が迫ってきた。勢いよく飛び出してきた彼女に向かって、反射的に構えをとるアルフレッド。
 このままだと反撃でねじふせてしまうかもしれない。懸念よりも先に動いた手は止まらない。
(まずい!)
 しかし、自らの身を守るために相手を征しようとした彼の手は空を切った。
「あ、あれ?」
 周囲をきょろきょろと見渡すも、少女の姿は見えない。白昼夢か、とアルフレッドが訝しんでいると、そこに一人の男性が駆け込んできた。
「き、きみ」
 息が上がっている。ずっと走っていたんだろう。落ち着くのを待って、彼はアルフレッドに話しかける。
「こんな感じで、髪を結わえた女生徒を見なかったか!」
 成人男性が頭の上で二個丸を作っている姿は滑稽だった。しかし、その視線は真剣そのもの。
(結わえた髪)
 一瞬だったが見た少女の姿。それは確かに男性が表現しているものと酷似している。
「あー」
 知っている事実を口に出そうとして、アルフレッドは躊躇する。ここで何を言えば良いのか。素直に見失ったと言って良いのか。しかし、それは少し恥ずかしい。それに、そんな情報を欲しがっている相手ではない。
「そうか、また逃げられたか」
 だが、アルフレッドのその反応は男性にとって予想通りではあったらしい。口ぶりから何度か、同じ目にあっているようだ。
「君も、また見かけたら伝えておいてくれないか。課題を出せないんだったら素直に言いなさいと。他の先生は知らないが、僕はちゃんと中身見てるからね、と」
 そして、先生らしき男性はがっくりと肩を落とし、その場を立ち去っていった。
「リリアンさん、授業も休みがちだし、どうしたらいいんだろう……これ以上、庇いきれないしなぁ」
 彼の呟きに、アルフレッドは真面目な人だなと感心した。そんな不良生徒はほっとけばいいのに、と同情すら覚える。
 主に金銭面の苦労をして、何とか学院に滑り込んだアルフレッド。今だって、学院の全てを吸収してやろうという意気込みで苦手な座学にも取り組んでいる。
 だから、正直逃げ回るのが信じられなかった。
「おい、くせ者」
 アルフレッドの口調に多少の怒りが混じっていたのは、きっとそのせいだ。
「そろそろ降りてきたらどうだ」
 彼は振り返り、顔を上げて睨み付ける。
「あははぁ。先生には見つからなくて良かったぁ」
 そこにいたのは、まさしく『くせ者』。アルフレッドが幼い頃に読んだ本に出てくる、異国の密偵を思わせる姿勢で壁にくっつく少女だった。その二つに結わえた髪が、ぶらりとぶら下がっている。
 アルフレッドが見失ったのも、最初だけは事実であった。彼は常に周囲の様子を確認する癖がある。その時、背後からの異様な気配に気づいていた。
 彼女は、おそらく衝突しそうだったアルフレッドを上に避け、そのまま壁の手がかりをつかんで天井近くに張り付いたのだ。靴を履いている足も器用に壁の出っ張りには引っかかっている。まるで、手が四つでもあるかのようだ。
 あの先生も息が上がっていなければ上を見上げる余裕があったろう。しかし、膝に手をついた姿勢では彼女は見つけられなかった。
「おまえも芸術科だろ。専門は何なんだ。曲芸師でもやってんのか」
 リリアンと呼ばれていた少女への個人的な苛立ちは置いておいて、その身体能力の高さは気になった。鍛えるのが日常である戦士科でも、あまり見ない身のこなしだ。
 外で見た女性も体幹がしっかりしていたが、そういった訓練もするのだろうか。
「え、やだなぁ、リリィの専門は声楽だよ」
 まだ天井付近にいる彼女は顔だけアルフレッドに向けてにっこりと笑った。声に震えもなく、その表情にも余裕がある。
 その様は非常に滑稽であった。吹き出しそうになるのをこらえて、アルフレッドは言葉を返す。
「声楽って、歌か」
「そうそう……、あ、ちょっと待って。そろそろ辛い」
 どうやら、笑顔だけはやせ我慢だったようだ。リリアンはもう一度、周囲を確認して、壁をつかむ手を離して、地面に降り立った。
 その時、音も無く着地した彼女を見て、アルフレッドはやはり『くせ者』ではないのか、と思ったのだった。
 その後、リリアンを置いて立ち去っても良かったのだが、妙に彼女の存在が気になったアルフレッドはまだ周囲を気にしているリリアンに話しかけた。
 内容はもちろん、例の闘技祭『最強』の存在についてである。
 しかし、その単語を聞いた瞬間、リリアンは頬を膨らませる。
「『最強』って響き、かわいくなーい」
 どうも、その話題は彼女のお気に召さなかったようだ。
「かわいい、かわいくないって言ったら、それは可愛くないんだろうけどさ」
 アルフレッドだって、さすがに可愛いものが何なのか分かる。『最強』が、おそらく可愛さとは対極にある言葉だということも。
「そうそう、リリィとお話ししたかったら、そんな話題はえぬじーだよ。もっと、もーっと、盛り上がる話じゃないとね」
 リリアンはにっこりと笑って、右手を差し出してアルフレッドにアピールをする。妙に芝居がかった仕草だ。
 芸術科の女性は皆、こんな感じなのだろうかとアルフレッドに新たな偏見が根付こうとしている。
「別に、おまえと話がしたいわけじゃない。知らないってなら、ここで打ち切ってもいいが」
 アルフレッドはあくまでも聞き込みのつもりだった。彼女との会話の応酬に興味は無い。自分の欲求が満たされないなら、即刻この場を立ち去るつもりだ。
「えっ」
 そんなアルフレッドの反応が心底意外だったのか、リリアンは絶句した。
「ナンパのおにぃさんじゃないの?」
 何という認識だ。心底心外なアルフレッドは眉を中央に寄せて首を横に振る。
「そんな趣味は無い」
「でもでも、呼び止めてきたのはおにいさんの方だし。リリィに興味があったんじゃないのかな?」
「あのな。興味の種類が違うんだよ」
 女性が苦手なアルフレッドではあるが、リリアンとは子どもを相手にするようにすらすらと会話ができる。
 初対面の衝撃が、アルフレッドからリリアンと女性を結びつける感覚を吹き飛ばしたのだ。リリアンが期待しているような展開には絶対にならないだろう。
「なーんだ」
 口を尖らせて、リリアンは組んだ手を上に大きく伸ばす。その様子をじっと見つめるアルフレッド。
(やっぱり、鍛えてる腕だよな)
 リリアンはアルフレッドよりも幼く見える。体の線も細い。衣服から出ている肌は傷一つ無い綺麗なものだ。
 しかし、彼女の腕と足は草食動物の足を思わせるしなやかな強さがあった。
(草食、か)
 やはり逃げるために、この体を活用しているのだろうか。気になったアルフレッドは打ち切るのを止めて、話を続けることにした。
「俺も提出物は人のことを言えないんだがな、課題は出した方が無難だぞ」
「う、その話題もかわいくなーい」
 リリアンは頬を膨らませてアルフレッドを見る。睨んでいるようだが、全くもって迫力が無い。そんな抗議ではアルフレッドに効かないし、そもそも効いたとしても彼にリリアンが期待する可愛さを求めるのは酷である。
「うぅ~、分かってるんだよ。分かってるんだけど、なんか、こう、ぱぁっと明るいのが閃かなくてぇ」
 自分の頭を拳でぐりぐりとしているリリアン。先程から動きが大きい。全身で感情を表現している。
「言い訳か?」
 まるで、『一晩中考えたんだけどできませんでした』と堂々と言って制裁を食らっていた知り合いのようだとアルフレッドは思った。
「ちっがーう」
 ぷくっとさらに頬に空気が入ったリリアン。そこを針でついたら破裂するな、とアルフレッドは変な映像が頭に浮かんでいた。
「リリィはね、とりあえずが嫌なの。作るとしたら、最高で完璧なものじゃないと、リリィのはぁとが納得しないんだから」
 よく分からない言い回しではあるが、彼女なりの誇りのようだ。作品に対して一定の品質を保持したいという思いは納得できる。納得できないからと鍛錬を継続するのに似ているだろうとアルフレッドは思った。
 しかし、それでも気になる点はいくつかあった。
「それでも、出したんだろ。中途半端が嫌なら、何を提出したんだよ」
――僕はちゃんと中身見てるからね。
 あの台詞は、提出されたものがなければ発せられないだろう。
「そ、それはねぇ~」
 そこを指摘されたリリアンは急に態度を小さくして、ごにょごにょと何かを呟いている。かなり言いにくそうだ。
「何だよ、言ってみろって
「あ、はは」
 後ろめたいことがあるのか、どんどん体を縮ませていくリリアン。ただでさえ小さめの体が消えてしまいそうだ。
 しばらく待っていると、声だけはアルフレッドの耳に届くくらいには大きくなった。
「……それは……図書館のを写して」
「盗作じゃねぇか」
「違う、違うの!」
 アルフレッドの容赦ない指摘にリリアンは全力で首を横に振った。
「あのね、授業で教えてもらったことを生かして短編の詩を書く課題だったの。でも、でもね、リリィにはしっくりこない題材で」
 おそらくかわいくなかったんだろうな、と今までの彼女を思い出してアルフレッドは嘆息した。かわいい、かわいくないで仕事ができなかったら将来が大変だろう。
「みんなの前で発表しないから、こう、気分もあがってこなくてね」
「だから、盗作でごまかそうと」
「盗作じゃ無いよ、引用だよ!」
 かなり苦しい言い訳だ。しかも、おそらく手慣れていて、少なくとも初犯では無い。
「素直に言えって、言われてたろ。おまえにどんなこだわりがあろうが、人を困らせる理由にはならんだろ」
 特に、ああいう人の良さそうな人物を出し抜こうとするのは許せない。アルフレッドは持ち前の正義感が顔を出す。
 戦士科に入った理由も、己の腕で皆を護りたい思いが強いからだった。
「うん、分かってる。リリィも分かってるんだよ」
 そんな彼の真摯な忠告に、ようやくリリアンも観念したようだ。
「ちょっと提出できるようがんばってきます……」
 とぼとぼと歩いて行く彼女の姿はまるで演劇のように嘘くさい。たぶん、本気でするつもりはないなと、その様子を目で追っていたアルフレッド。
 そこで、リリアンはぴたりと足を止める。
「そうだ」
 くるりと振り返る。リリアンはアルフレッドにニッコリと笑いかけた。先程のしわしわな態度が嘘のように明るい。
「最後にリリィからの、かわいいお願い、聞いてくれる?」
「時間がかからないやつならな」
 別に聞く前に断る理由は無い。アルフレッドはすぐに頷いた。
「やった。このままだと、おにいさんの中でリリィは盗作する悪い子になっちゃうから」
 アルフレッドが口にした盗作、という言葉が引っかかっているようだ。リリィは小さく首を傾げて、甘えるような声で聞いてきた。
「おにぃさんの名前、教えて欲しいな」
 そういえば、お互い名乗っていなかった。一方的に名前を知っている状態だ。それは失礼した、とアルフレッドは背筋を若干伸ばして答える。
「俺はモーングローブ学院戦士科所属、アルフレッド・ストライヴ」
 堅苦しいアルフレッドの言葉をリリアンはふんわりと受け止めた。
「戦士科のアルくん、だね?」
 初対面の人間に愛称など呼ばれたことは無いが、別に不快を感じなかったのでアルフレッドは頷いた。
「今度はね、おっきな舞台でリリィの全力見せてあげる。アルくんのための特等席に、ご招待しちゃうよっ」
 リリアンは両の手を広げて、目を細めて笑った。全力の笑みだった。
「リリィの本気を前にしたら、アルくんだってリリィのファンになっちゃうんだから」
「ほぉ」
 思わず、アルフレッドは声が出る。リリアンの物言いに挑発めいたものを感じとった。それは戦士同士の競り合いにも似ている。アルフレッドは挑戦されたのだ。
――自分の得意分野で負けたくはない。他の人よりも、優れていたい。
 意外と、その辺りの精神は同じなのだろう。アルフレッドはにやりと笑った。
「それはいいな。楽しみにしている」
 挑んでくるんだったら、受けるほかないだろう。
 良い返事を引き出したリリアンは満足気に笑った後、アルフレッドに全力で手を振った。
「いい~? 約束だよ。今度はリリィが戦士科に行くからねっ」
 そして、跳ねるように立ち去るリリアンを見送った後。
「あれ、結局、俺は何のために芸術科に来たんだ?」
 当初の目的を忘れていたことに気づくアルフレッドであった。
 特等席にご招待、とのことであったがアルフレッドにリリアンからの知らせが来ることはなかった。そもそも、初めて会った相手との単なる口約束である。
 アルフレッドの方も、とくに気にすることはなかった。いや、気にする余裕が無くなったと言っていい。忙しさに時間は削られ、他ごとを考えている余裕が無くなってしまった。
 そもそもが、彼の第一目標は良い就職先を見つけることである。そのため、鍛錬はもちろんのこと、学びに関しても学院の授業外に知らなければならないことが多々あった。
 その中の一つが、クレーゼルの情勢である。アルフレッドが戦士として生きるのであれば、力を欲している相手へ売り込むのが一番手っ取り早い。
「やっぱり、衝突は避けられないのか」
 しかし、それを知るということは、周辺の暗い話を聞くことと同意だ。
 アルフレッドは机から目を離して、天井を見上げた。彼が見ていたのはモーングローブ学院で発行された公報だ。クレーゼルのちょうど中央に位置するという情報の集まりやすいこの地の利を生かして、様々なことが書かれている。
 確かに、自分の力の生かす場を探している。戦場で死ぬ、なんてことは実際にそうならないと分からないが覚悟は完了しているつもりだ。
 しかし。当たり前のことではあるが。
「別に、戦争が起きて欲しいわけじゃ無いんだよ」
 その表情は変わらないように見える。しかし、内心は影が差し込んでいた。
 アルフレッドの出身地であるオルヴァンディア共和国と隣国であるシルヴァリア帝国は近年武力衝突を起こしたほどには良好とは言いづらい関係であった。
「俺の知っている状況よりも悪化してるんだよな」
 幸い、国境付近の生まれでは無いアルフレッドは実際に戦争の気配を肌に感じずに生きてきた。戦士を志したのも、自分の能力を最も生かせる道を選んだだけだ。
 仕えた先で戦力として期待されるのであれば、戦う意義がある。しかし、理想を言えば。
(誰かを護る為に、戦いたいよな)
 それが理想にすぎないことをアルフレッドは理解しているものの、いざ現実に戦争が起こったときに自分が剣を振るうことになったら。
「あんま、想像できないな」
 あれだけ明確に想像していた未来の自分が、ちょっとだけ遠ざかったような気がした。
「お、アルフレッド。ここにいたのか」
 しばらく、ぼんやりとしていたアルフレッドに声をかけてきた男が一人。同輩の一人でもある彼は、どうやらアルフレッドを探してここまでやってきたらしい。
「どうした?」
 若干、気の抜けた声を出すアルフレッドに苦笑しながら、彼は続けた。
「対戦表、もうできていたぞ」
「ああ」
 すっかり忘れていた。今日は、武闘祭の詳細が発表される日だ。出場の申請ができたことに安堵して、意識の外に出してしまっていたらしい。
 そんなアルフレッドを見て、眼前の男はニヤニヤと笑みを浮かべている。
「何だ、その顔は」
 彼は普段、あまりそう言った表情をしない。だから、アルフレッドは気になって尋ねた。
「いや、実際に見に行ったら分かるよ」
「はぁ」
 ここで言うと、面白くない。彼の表情はそう言っていた。そんな彼に促され、アルフレッドは実際に確認しに行くことにした。
「どれどれ」
 運営から一枚の用紙を受け取って、ひと目見たアルフレッドの目が一点に集中する。友のにやけた顔の意味が分かった。これは逆の立場なら、アルフレッドも笑えてくる。
「なるほど、な」
 自分の名前の隣、そこには覚えのある名前が併記されていた。
「俺の相手は『最強』、か」
 笑われていた理由は、アルフレッドが武闘祭『最強』ことリルに執着していたのを皆が知っているからだ。口を開けばリルのことしか言わない時期もあった。
 そのリルと対戦することが決定した。周囲の人間にも思うところはあるし、もちろんアルフレッドにも驚きはあった。
 しかし、彼は妙に冷静だった。理由は分からない。いや、分かっているが言葉にするには整理ができていない。
「ま、望むところさ」
 アルフレッドは表情も変えずに、用紙を懐にしまい込んだ。うちに、静かに闘志を燃やしながら。
 それからはあっという間だ。
 何かに取り憑かれたかのように一心不乱に剣を振るう姿で、周囲を心配させていたアルフレッドだったが、武闘祭当日には万全な状態で仕上げてきた。
「よし」
 武闘祭の進行は順調だった。予定よりも早くは無く、遅くも無い。アルフレッドが心の準備をする時間も十分であった。
 そして、出番が回ってきたのだ。指先が熱くなっているのを感じる。闘技場の中へと続く廊下をゆっくりと進んだ。薄暗さの奥に光が見える。そこから歓声を聞こえてくる。
 その、光の中へと足を踏み入れた。
「ん」
 眩しさに目を細める。周囲から声が降り注いだ。アルフレッドが踏み込んだ場所は微かに沈んだ。アルフレッドは一歩一歩踏みしめて中央に進んでいく。
 しっかりと力の入る砂地だ。深すぎて足を取られることはなく、そのうえ強く倒されても衝撃が緩和されそうなくらいに柔らかい。
 剣を抜く。アルフレッドが得意とする片手剣だ。刃引きはされているものの、重量、感触は真剣のそれである。
「あれ?」
 ただ、そこで初めて自身の異常にアルフレッドは気づく。握った感触がおかしい。一気に緊張感が増す。指の先まで、力が入ってしまっている。
 それは盾を持つ左手も同様であった。先程まで感じなかった重量を感じている。
(意外と緊張してたんだな、俺は)
 一回、二回剣を振る。彼の体躯に血が回っていく。強ばった体がほぐれた感触があり、アルフレッドはようやく周囲を見る余裕ができた。
(けっこう、人いるんだな)
 客席は立ち見すら出ているほどに埋まっている。始まったばかりの頃はアルフレッドがふらりと立ち寄っても大丈夫なくらい空席が目立っていたのに。
(まぁ、お目当ては俺というよりこいつだろうがな)
 アルフレッドは焦点の定まった目で前を見据えた。
 そこには黒衣に身を包んだ者が一人、細身の剣を構えてアルフレッドに対峙している。その服は、あまり彼には縁の無いものであるが、ドレス姿の女性をエスコートする社交界の男性を思わせるものだ。
 黒に白いシャツが映える。そして、顔を覆う白い仮面も浮き上がって見えた。小柄な体躯が姿勢のせいであろうか、そこまで小さくは見えなかった。むしろ、気迫だろうか。その全身を覆う圧力が、その体を一回りも二回りも大きく見えた。
(落ち着け。目の前の真実だけに集中しろ)
 ぐるぐると思考が回る。あちらこちらにふらつく意識を、何とか真っ直ぐに保とうとアルフレッドは高鳴る鼓動を制御しようと息を吐いた。体温が高い。昂ぶっているのが自分でも分かる。
(確かに、これだけの人に見られながら戦う経験は無いからな。試験の時とは大違い……ん?)
 ふと、アルフレッドの頭にあの日の出来事が浮かび上がった。確かに彼女はこう言っていた。
「これがおっきな舞台で、ここが特等席と言うことか」
 その台詞を口に出す。急に地に足がついた。
「特等席と言うには、ちょっと近すぎるな」
 アルフレッドの声を聞いて、仮面から出た耳がぴくりと動く。
「なぁ、リル……いや」
 言いかけて、首を振った。ここまで言ってしまって、相手の流儀に合わせる道理もないだろう。
 アルフレッドは剣を前に突きだして、その名を言い放った。
「リリアン」
 一瞬の静寂。
「あはっ」
 不思議な雰囲気を醸し出していた彼女の周囲がふわりと和らぐ。
「なんだ、もっとびっくりするかと思ったのにぃー」
 リルは仮面を横にずらす。そこには、悪戯っぽい笑みを浮かべるリリアンの顔があった。
「あいさつに行こうかぁ~とも思ったけど。こっちの方がおもしろそうでしょ?」
 あはは、と笑う彼女に先程まで放っていた威圧はない。まさしく、アルフレッドが芸術科で遭遇したリリアンその人だ。
「アルくんがどんな顔するかも楽しみだったんだ。それなのに、そんな涼しい顔しちゃってるんだから」
 つまんないなぁとか言いながら、手にする剣をくるくると回している。細身だが重量のあるそれをリリアンは木製のステッキのように扱っている。
「見世物では無いんだけどな」
 今の立場を考えると見世物以外の何物でもない。そんなことを思い至って意気がくじけたアルフレッドは一つ大きな息を吐いた。
「実際、驚いたさ」
 さきほど名前を呼んだときだって十割の確証は無かった。こうして会話している今だって、信じられない気持ちはある。
 あの、芝居がかった話し方をリリアンがしてくれているから、何とか現実を認識している。
「まぁ、それでも、おまえならもしかしてって思ってたからな」
 組み合わせを見た瞬間、リリアンの顔が浮かんだ。勘に近いものだったが、妙にしっくりときた。
 それは予想外だったのか、驚きで眼を丸くしたリリアンは首を傾げた。
「そのわけ、聞いてもいい?」
「おまえ、『最強』をかわいくないって言ってたろ」
――『最強』って響き、かわいくなーい。
 冷静になって思い返せば、あれは明らかに当事者の感想だった。そこに、あの軽業の印象が加われば疑惑は確信に近づく。
「そっか。しっぱい、しっぱい」
 もう仮面で隠してしまったから分からないが、リリアンはおそらく舌を出している。
「リリィはね、隠してたわけじゃ無いんだけど、演出のひとつとしてありかなと思って黙ってたんだ」
 くるくると剣を回しながら、彼女はステップを踏む。
「アルくんがリリィに興味もってくれてるなら、やっぱり演出は大事にしないと」
 柔らかい砂地のはずだが、まるで固い木の床のように動きは軽やかだ。くるり、くるりと回転した後、ぴたりと足を止める。
「今日の演目は『黒衣の演出家』。リリィが作る、最高の舞台を見せてあげようと思ってね」
 彼女はすっと背筋を伸ばした。リリアンは細身の剣を、アルフレッドに突き出す。
「リリィもね、アルくんの特等席がそこになるのは予想外なんだ」
 剣を引いてリリアンは構えをとる。それは戦士のするものと違う。剣は抜いているものの、握る手は腰にある。武器を持たぬ方の手は前に差し出されていた。その姿は紳士が女性を誘うのに似ている。
「でも、パートナーとして選べるのなら最高だよね。アルくんとなら、いい舞台にできそう」
 今から武闘ではなく、舞踏会が始まるかのようだ。それだけ振る舞いが優雅である。
「じゃあ、約束通り。リリィの全力、見せてあげるね」
 ぞくりとした。アルフレッドの背筋に冷たいものが走る。リリアンが体が、一際大きく見えた。
 それは圧力だ。その様を見れば、『最強』の二つ名も納得できる。それだけ、リリアンのまとう空気はアルフレッドが今まで感じたことが無いものであった。
(飲まれるな)
 アルフレッドも負けじと気を放つ。気迫がぶつかり合って、二人の間で弾けた。
「よし」
 重かった体が、ふっと軽くなった。残ったのは、ちょうど良い緊張感だ。これなら勝負になると、彼は安堵した。
「双方、準備は整いましたか?」
 二人の間に審判が歩み寄ってきた。アルフレッドが頷くと、彼は大きく腕を振り上げた。
「はじめっ!」
 その合図よりもやや早いタイミングで、アルフレッドは動き出した。
 距離が一気に近づく。リリアンに動きはない。それを見て、彼は大きく剣を振り下ろす。
(さぁ、これならどうでる?)
 避けられることが前提だ。わざと大きな挙動で動いているのも策の一つ。あらかじめ生んだ隙の方に動いてもらう。
 アルフレッドには、リリアンとの初対面が大きく刻み込まれている。あの動きが元になっているのであれば、素早さを武器にしているはずだ。まずは、どう動くのかを確認したかった。
 怖いのは予想以上の動きをされること。予想内であれば、どれだけ速くとも対処はできる。
 反撃されぬよう、その後の防御に意識を注いでいる一撃。しかし、鋭さは申し分ない一太刀。
(えっ)
 高い金属音とともに、一瞬、時が止まった。
「なんだ、と」
 なんと、彼女はそのまま剣でアルフレッドの攻撃を弾き飛ばしたのだ。細腕で支えられたそれは、アルフレッドごとはねのける。
 これ以上押すのは得策ではない。アルフレッドはそのまま自ら引いた。
「重い」
 手にしびれが残る。あの細い剣が、まるで、石の柱を叩いたかのような感触を生んだ。アルフレッドの予想に反して、彼の初撃は純粋な力で受け止められた。リリアンの体は、アルフレッドの一撃を剣で受けても微動だにしなかった。
 アルフレッドは動揺を隠して、距離をとる。じりっ、と足に力を込めて相手を注視した。
 彼が気になったのは、リリアンが力で受け止めたことだけではない。
(まさか、歌っている?)
 耳に届いた音色。気のせいか、と集中してみるとはっきりと聞こえてきた。
『消えない願い ここにあれば 譲れない未来 つかめるはずさ』
 今度はリリアンが跳び込んでくる。距離をとっていたのに、その間が刹那で消える。一振り、地面から這い上がってくるような右からの切り上げ。
 剣でははじく。彼女の動きに注目していたアルフレッドは何とか反応できた。しかし、それは本命ではなかった。剣で受けた反動を生かしてくるりと回転したリリアンは逆から横に薙いでくる。
 首のあたりを狙われている。致命傷になり得る攻撃を当てられたと判断されれば、そこで負けが決まってしまう。予測される軌跡の先に盾をあげた。
 間に合った。リリアンの剣がぶつかる。
「おっ、と」
 その重さに、アルフレッドは盾ごと体を弾き飛ばされた。
(なんだ、そのむちゃくちゃな力は)
 まさか、押されるとは思わなかったアルフレッドはそれでも足に力を入れて踏みとどまる。何とか体勢が崩れるのだけは阻止した。
『僕には これしかないのだから 共に作ろう 最高の舞台』
 歌声が近い。それなのに、注視していたはずのリリアンの姿が消えていた。
(上か!)
 とっさに振り上げた盾に、リリアンの剣が振り下ろされる。しかし。
(さっきの方が重かったっ)
 アルフレッドは難なく受け止めた。そして、大技のあとに目の前に着地するであろうリリアンに向けて、反撃を試みる。
『その手から零れ落ちた 想い 気持ち 欠片さえも』
 しかし、アルフレッドの予測に反して、彼女は彼を飛び越えた。最初から、振り下ろしに体重をのせていなかったのだ。だから軽かったのか、とアルフレッドは舌打ちしたくなる気持ちをこらえて振り返った。
 思っていたとおり、速度もあった。このまま、連続攻撃がくる。そう思い、アルフレッドは次撃に備えた。
「なんだ?」
 しかし、リリアンはまたもアルフレッドの予想に反する。彼女は追撃することなく距離をとった。そして、まるで先程までの攻防が無かったかのように凜と立っている。
「今度は俺の番、ということか」
 リリアンは待ち構えている。試合開始、直後のように。
「何か、気に入らないけれど」
 馬鹿にされている感じはしない。リリアンのそれは、まさしく強者の振る舞いだ。
「望み通り、見せてやるよ!」
 アルフレッドは再び、リリアンの間合いへと跳び込んだ。
 アルフレッドの剣戟を、リリアンはその細腕でことごとくを受け止めた。どこにそんな力があるのか、体の軸がぶれることもない。
(さっき、俺は崩されたけどな)
 攻撃の守備の合間に息をつくと、アルフレッドに羞恥が襲ってくる。だが、それに囚われている暇は無い。
『全て拾い上げ 掬い上げて 天に僕らの存在を問おう』
 リリアンは相変わらず歌っている。そして、その歌に合わせるかのように上に下に、右に左に躍動していた。まさに、この闘技場は彼女の舞台である。
 一見、無駄な動きに見える。しかし、全ての行動が流れとなって繋がっているのは厄介であった。
 アルフレッドの突きをかわすために沈み込んだかと思えば、そのまま右への回転へと移行して、がら空きの腹を狙ってくるリリアン。
 このままでは間に合わない。前のめりになっていた体を支えていた右足に力を入れて、後ろに倒れ込んだ。
 格好は悪いが、リリアンの剣は空を切った。そのまま後方へ転がるように受け身をとって、アルフレッドは立ち上がる。
 何とか避けることができた。アルフレッドは大きく息を吐く。
(しかし、妙だな)
 二人の攻防に沸く歓声を浴びながら、アルフレッドは眉根を寄せた。
 リリアンの実力に疑いの余地はない。『最強』と言われるだけはある。そして、魅せることに特化した動きは武闘祭の主役に相応しい。戦士科の人間としては納得できない部分もあるが、それこそが彼女の強さなのだ。
 問題は、その相手役。そう、アルフレッド自身のことである。
(あいつはバートナーとして最高だとか言っていたけど)
 アルフレッドは今だからこそ実感する。
(俺は、まだ『足りていない』)
 リリアンの実力を知った今だからこそ思うのだ。悔しいが、アルフレッドはまだ彼女に届いていない。もっと早く決着がついてもいいはずだ。
『哀しみを背負った 君の心に 自身の全てを込めてぶつかるよ』
 リリアンが手を抜いている様子は無い。歌っているし、今もアルフレッドが動くのを待っているが、あの挑発的な行動だって彼女の策の一つだ。実際に手痛い反撃を何度か受けている。
 振り返れば振り返るほど、不可解なことが増えてくる。
(俺は、こんなに動けないはずなんだ。あいつには届かないはずなんだ)
 気が遠くなるくらいの反復練習。全ては自分を高めるため。だからこそ、自分の今の限界も理解している。
 リリアンの攻撃の速さはアルフレッドが対応できるものではない。そして、アルフレッドの剣速はリリアンの間合いにすら入れない。後者はリリアンが受け止める選択をしていると考えられても、前者は不可解であった。
(なぜ、俺はまだ負けていない?)
 考えられるのは一つ。今のアルフレッドは、彼が想定するアルフレッドを超えていること。
「なんだ、そりゃ」
 自分の出した結論に、思わず反論しそうになる。だったら、今の自分は誰なんだとアルフレッドは言いたくなる。
「……それしかないか」
 しかし、それは事実に相違なかった。それ以外、今の状況を説明する言葉はなかった。
 実戦で成長する。そんな感覚になったことはあるが、今はそんな感じがしない。あの時抱いた高揚感が、この手には無い。
「気持ち悪い」
 気づいてしまえば、自分で把握できない状態は気分が悪くて仕方が無い。たとえ、良い方向であっても認識できなければ活用できない。
 リリアンはまだ動かない。だったら。
(ちょっと、試してみるか)
 どきどきと強く動く脈を感じつつ、ゆっくりとアルフレッドは目を閉じた。
 一瞬だけ、周りの情報を遮断する。自分の内面へと意識を張り巡らせる。だが、すぐに弾かれたようにアルフレッドは眼を開けた。驚きと戸惑いの色が彼の表情に浮かぶ。
「なんだ、これ」
 そうして、分かった。自分の体に起こっている変化を。眼前には、変わらぬ態度で待つリリアンの姿があった。
「うわ、これはすごい。どうなってんだ?」
 認識すればするほど違和感が生まれてくる。そんな、アルフレッドに起こっている体の変化。それは。
「おまえ、魔術使ってるよな。俺に」
 体のところどころに感じる、自分以外の力が及ぼしているものであった。
 ふっ、と歌が止む。
「気づいた?」
  その声色は明らかに楽しそうであった。誕生日にサプライズでプレゼントを渡す友人のそれに似ている。
「でも、悪いのじゃないから安心していーよ」
 リリアンは明らかに笑っている。しかし、アルフレッドにとってこれが悪いものなのか、良いものなのかはどうでもいいことであった。
「別に、文句はない」
 そう、魔術自体は禁止されていないから文句は無い。文句は無いのだが、問題がある。
(いつからだ?)
 リリアンがかけた魔術に、アルフレッドが今の今まで気づいていないことだ。
 大なり小なり、人には魔術に対する抵抗がある。全くゼロの者もいるが、少なくともアルフレッドはそうではない。後天的に身につけることもできるから、その中でも彼は鍛えてきた方である。
 それなのに、アルフレッドは無抵抗でリリアンの魔術を受け入れている。これは事件だ。
『二度と消える事ない 魂の記憶を 君に刻もう』
 リリアンが再び歌い始める。
「あっ」
 そこで気がついた。耳から、魔力が流れ込んできているのを。微かではあるが、一度確認した魔力の流れと同じものを感じ取った。
「まさか、歌で魔術行使してるのか」
 そんなことは聞いたことは無い。しかし、現実に目の前で、そして自分の身に起こっている。
 どうりで気がつかないはずだ。しかも、おそらくかけているのは能力向上の魔術。悪意が無いから、アルフレッドの体は素直に受け取ってしまう。
「なるほど。だから、動けたのか」
 アルフレッドは苦笑いを浮かべた。リリアンがなぜ、こんなことをしているのかは分からない。だが。
「予想できるなら、やりようはある」
『燃え尽きることもなく 終わりたくない』
「ああ、そうだよ。俺もこのままでは終われない」
 初めて、アルフレッドはリリアンの歌詞に返答した。そう、終われない。このまま戸惑ったままで終わるなんて許されない。
『ここで僕らの輝きを 見せつけてあげよう』
「ああ、見せてやるさ。俺の、精一杯を」
 アルフレッドは再び駆ける。足も、普段より軽い。能力が向上していることを考慮して剣を振るう。
 一瞬、リリアンの反応が遅れる。彼女は今までのように受け止めるのでなく、体を沈めてかわした。そのまま、地を這う右足が鎌のようにアルフレッドの足を襲う。しかし、前のめりになっていたアルフレッドは難なく後ろに蹴り出すことで、それを回避した。
(まだ、いける)
 初撃がリリアンの予想を超えたことで、彼女の動きが乱れた。ただ、さすがに反撃が早い。アルフレッドの追撃を彼女は許してくれなかった。
『熱く 熱く 羽ばたき合い 強く 強く 奏で合おう』
 リリアンの歌にも熱がこもる。彼女の動きはとにかく大きく、派手だ。砂上に舞う彼女の姿に、周囲の眼は釘付けになる。本来なら歓声で打ち消される彼女の歌声は、闘技場に高らかに響いていた。
 対してアルフレッドの戦い方は地味である。しかし、そんな基本通りの型でリリアンと優れた攻防を繰り広げている姿は、玄人の心を打ち抜いた。
「ちょっと待て。今のを避けるのか」
 実際のアルフレッドに余裕は無かった。リリアンの本領発揮、アルフレッドの意識の外を爆ぜるように跳ねる彼女に彼の剣は届かなくなってきた。
 今も、リリアンの動きの終点、ここまで見てきて分かるようになってきた彼女の円の動きの終着点に剣を振るったというのに、彼女はさらにそれを飛び越えた。
『そう 涙を握りしめて 僕にも君にも似合いはしない』
「泣いてねぇよ」
 リリアンを睨み付ける。まだ気力は保っている。アルフレッドは、妙な高揚感を覚えていた。
 たしかに、リリアンの魔術で上乗せされている。しかし、これは自分の力に相違ない。後々、自分がいたる場所に、今すでに立っている。そして、それでも届かない相手が目の前にいた。
(楽しい)
 ふと、心に浮かんだ言葉にアルフレッドは吹き出してしまう。
「そっか、俺は楽しんでんのか」
『作り上げる 最高の舞台』
 確かに、ここは最高の舞台だ。
『夢を翼に 心を羽根に』
 疲労も軽減されている。体は、未だに思っている以上に動いてくれる。
『共に明日を飛ぼうじゃないか』
「明日か、そうだな」
 このまま続けていても、リリアンには届かない。楽しい、だけでは未来は開かれない。
 だったら、彼女が引き上げてくれた自分が、今の彼女にどこまで届くのか。燃え尽きてみたい。
「いくか」
 腹はくくった。負けを恐れない。後先は考えない。どちらにせよ、これが最後だ。
 アルフレッドは、いつものように待ち構えているリリアンに向けて駆け出す。彼女の仮面の奥で目が光る。歌は続けながらも、彼が剣を振るう瞬間を見定めている。
(えっ)
 その目が大きく開かれる。距離が近すぎる。リリアンが気づいた時には遅かった。この試合、初めてしてしまった彼女の油断。アルフレッドは、その勢いのまま彼女に肩からぶつかっていく。
 もし、リリアンが受けの姿勢ではなく攻めに転じたらなすすべのなかった捨て身の突撃。それは功を奏した。直撃はせずとも、これまでなかった行動にリリアンの反応は遅れ、明らかに姿勢を崩す。
 ここだ、ここしかない。
「はああっっ!」
 アルフレッドは剣を振り下ろす。倒れ駆けた姿勢では横には避けられない。
 だが。
『絆 繋いだ歌と一緒に』
 リリアンの顔の前を剣が通る。アルフレッドの渾身の一振りを、彼女は片足を針のように地面に刺して回った。そして、剣を体勢を崩すアルフレッドの首元へと差し出す。
 そして、二人が作り上げた演目はここで終幕を迎えた。
「惜しかった、ね」
 アルフレッドは寸止めされた細い剣の冷たさを首に感じながら、大きく息を吐いた。
「いや、だいぶん遠かったな」
 アルフレッドは自身とリリアンの差を実感し、悔しさに歯を噛みしめる。しかし、その表情はどこか満ち足りたものであった。
 あの闘技祭から、幾月か経った頃。
「待て、待つんだ。ハートウッドくん!」
「ごめんなさぁーいっ」
 リリアンは今日も追跡から逃げ回っていた。
 今度はあまりにも時間をかけすぎて、ぐちゃぐちゃになってしまったものをそのまま提出してしまった。どうしても、やらされる課題に関しては真剣になれないのは、彼女の悪癖である。
 結果、芸術科随一の熱血講師に説教されることになって逃げ出したのだ。講師陣はすでにリリアンに対しては諦めの境地になってしまっている者も多いが、彼はこの学院に来て日が浅い。故に、しつこいのだ。
 しかし、さすがの身体能力。徐々に差は広がっている。大きく引き離したリリアンの目はキョロキョロと周囲を確認する。
(あそこっ!)
 リリアンは道沿いに植えられた木に向かって飛び移った。するするっと、何の抵抗もなく登っていくと生い茂った葉の中に身を隠す。ここで、やりすごすことにしよう。
「はぁはぁ」
 追ってきた男の息遣いが聞こえる。リリアンは枝にしがみつきながら、じっと息を潜める。
(はやく、どっかいっちゃって)
 しかし、リリアンの希望通りとはいかない。彼はすぐ近くで立ち止まってしまった。さらに、何やら話し声が聞こえる。木の真下で誰かに話しかけているようだ。
「そういう奴だったら、あっちに走っていきましたよ」
「そうか! 恩に着るっ」
 講師が走り去っていく音がする。助かった、とリリアンはふぅと小さく息を吐く。
(でも、さっきの声って)
 そうなると、気になるのは講師と話していた相手だ。どこかで聞いたことのある声。気になったリリアンは葉の隙間から、下の様子を伺おうとする。
「おい、くせ者」
 彼はあの時と同じような仏頂面で。
「そろそろ降りてきたらどうだ」
 若干、親しみを感じる声でリリアンに話しかけてきた。
「アルくん!?」
 慌て気味にリリアンは木を降りてくる。その様子が虫みたいで、アルフレッドは吹き出しそうになるのをこらえながら、彼女が体についた葉をパタパタと落とす様子を眺めていた。
「相変わらず、だな。それじゃあ、来年も学院に残ることになるぞ。先輩」
「うっ、アルくんに言われる『先輩』はかわいくない」
 事実だろ、とアルフレッドは続ける。実際、一年目のアルフレッドからすれば確実にリリアンは年上で間違いないのだ。
「だったら、おねぇさんに対して、もっとけいいをもって敬ってほしいな」
「敬意を持ってほしかったら、もう少し真面目にしたほうがいい」
 礼儀は叩き込まれているアルフレッドだが、初対面が初対面だったのでリリアンを敬うことは難しかった。
 まだ納得がいかず、うんうん唸っているリリアンであったが、このままでは話が進まないので顔をあげた。
「でも、ほんとにひさしぶりだねー。どうしたの? リリィに会いたくなっちゃったのかな?」
「あー」
 天を仰いだ後にアルフレッドは頬をかく。恥ずかしそうに、ぽつぽつと話だす。
「あぁ、なんだ。一応、お礼でも、言っとかないとって思ってな」
「お礼?」
 場所を移動し、人通りの少ない場所で腰を下ろす。ここなら、しばらくはリリアンを追ってきた講師も来ないだろう。
「あの闘技祭の試合、見てくれてた人がいてな。俺は、今季が終わってからそこに雇われることになった」
「え」
 雇われる、ということは就職先が決まったということか。
「おめでとーっ」
 パチパチパチと、すごい速さで拍手をするリリアン。素直すぎる祝福に顔を赤らめながら、アルフレッドは言葉を続ける。
「かなり良いところの貴族の家で、まぁ、待遇も悪くなかったからな。そこに決めた」
 他にもいくつか話はあった。それも、リリアンとの一戦が無ければ生まれなかった縁だ。だからこそ、お礼が言いたかったし、だからこそ、不安もある。
「なんか、騙しているみたいで気が引けるけどな」
 あの時の動きはリリアンの助力もあって、できたものだ。本当の自分ではない、という思いがどうしても後ろ髪を引っ張ってくる。
 そんな彼に対してリリアンは心底分からないといった態度で首を傾げる。
「そんなことないよ。リリィは扉を開けてるだけなんだから。あれは、アルくんの力に間違いないんだよ」
「扉?」
「うん」
 リリアンが言うには、力を発揮するために色々と邪魔している要素を排除する魔術があの歌なんだそうだ。力を加えているのではなく、自分では扱えていない元々存在する力を解放している。
「ああ」
 その事実を知ったアルフレッドには、一つ思い当たったことがあった。
(確かに、自分の力だったのかもな)
 たくさんのいい話がきた。しかし、『あれは自分の本来の力ではない』、そんな思いからすぐに返事ができなかった。その後、鮮明に残っている闘技祭の自分を思い出しながら鍛錬すると驚くべき効果が生まれた。今まで、どうしてもできなかった型がすんなりと身についたのだ。
 自分自身が見本となって、自分を引き上げたのだ。自信の持てたアルフレッドは、まだもやもやを残しながらも、保留していた返事を相手に返したのだ。
「どちらにせよ、おまえのおかげってことか」
 アルフレッドはあらためて、リリアンに頭を下げる。
「ありがとう」
「いえいえー、リリィも楽しかったから」
 そこで、アルフレッドはふと思った。自分がこれだけ話が来ているのなら、リリアンはどうなのだろうか。仕官の話だけではない。対戦相手の自分だけではなく、あれだけ観客を巻き込める能力があれば芸術科本来の仕事も多いはずだ。
 後者に関してはアルフレッドは門外漢だから実際のところは分からない。それでも、あの闘技祭の中心にいた人間が無名のままなのはおかしい。
 そんな疑問をぶつけたが、リリアンは小さく首を横に振った。
「ぜぇ~んぶ、リリィのやりたいことじゃない」
「やりたいこと?」
 そのやりたいことが気になった。
「うん、リリィは『砂上の女王』になりたいんだ」
 彼女の言葉にアルフレッドは心当たりがない。そんな彼の様子を見て、ニコニコしながらリリアンは話を続ける。
「リリィがちっちゃい時ね、帝都にある闘技場に行ったんだ」
 今もちっちゃいがな、という言葉をアルフレッドは飲み込んだ。
 帝都、と言えばシルヴァリア帝国の首都のことだろう。帝都にある闘技場とやらも、アルフレッドは覚えがある。
 確か、昔は帝国の威信を示すために剣奴を戦わせていた。しかし、魔王討伐後、庶民の娯楽として生まれ変わったという。戦争無き世に、英雄とすら讃えられる者も多くいた。
「その時に見たのが『砂上の女王』エリーン。すっごく、かっこよかったんだ」
 リリアンの目がキラキラと輝いている。演技の一切無い、純粋な憧れを感じた。
「エリーンはね、まるで演劇の一幕のように戦いを演出するの。砂上をこう、ステップ踏んでね」
 リリアンは立ち上がって、エリーンの真似をしている。軽やかに舞うその姿に、アルフレッドは闘技祭の彼女の動きを思い出す。その素地にあったのは、幼い頃の憧憬だったのだ。
「リリィは歌も好きだったし、子どもの頃からおかぁさんに褒められたんだ。リリィの歌はみんなを元気にするって。魔力がのってたのは……最近気づいたけど」
 彼女は小さく声を出した。空へと吸い込まれるような、透明感のある歌声は隣にいるアルフレッドの耳から体へと染み渡っていく。
「だったら、リリィは歌劇だって思って。学院で歌を伸ばして、それで、いつかはリリィも女王になるんだって。そう思って、ここに来たんだけど」
 そこで、急に声が小さくなったリリアンはちょこんとアルフレッドの隣に座り直した。あまり見せたこのない、悲しそうな顔であった。
「闘技場、壊されちゃったみたい」
「はっ?」
 それは知らなかった。
「もともとふるくなってたんだけどねぇ。ほら、共和国と帝国との衝突があったでしょ?」
 それなら、よく分かる。頷くアルフレッドにリリアンはにこりと笑った。しかし、どことなく力が無い。
「だから、戦いを娯楽にするのはふきんしんだーとかで。闘技者も全員、引退したんだって。噂では、軍隊の仕事をしてるとか。ほんと、そんなのかわいくない……」
 ここに来て、ようやくアルフレッドは理解した。彼女は夢を持って、この場所にやってきたのに、夢を持ち帰る場所をなくしてしまったのだと。
「だから、ずっと学院に残ってるってことか」
「う~ん、単位が取れてないのも事実なんだけど」
「なんだそりゃ」
 気を遣って損をした。結局、逃げ回っているのは彼女の悪癖のようだ。
 ただ、それでも同情の余地があるとしたら、本気になって終わらせても「それがどうなる?」が分かりづらいのだろうなとはアルフレッドも思う。目標のない練習ほど、辛いものは無い。
「学費とか、いいかげんマズイだろ」
「あ、それはだいじょーぶ。リリィ、働いてるから。これでも歌姫としてひょーばんなんだよ」
「……そうなのか?」
 今度、招待してあげるねとリリアンは片目をパチリと閉じる。彼女の調子は、また楽観的なものに戻っていた。悲観はここまでということだろう。
「でも、ずっと続けることはしないかな。うん、そろそろどうするか決めなきゃなんだけど」
 リリアンは新しい夢を探している。そんな彼女を見て、やりたいこととやれることが一致している自分は幸福なんだとアルフレッドは思う。
 何か、声をかけてあげたいが何も思いつかない。
「非合法の闘技場はいくつか残ってるだろ。そこはどうなんだ?」
「え、そんなのかわいくない」
 予想通りの答えだ。リリアンの理想とはかけ離れていることくらいは、アルフレッドにも理解できる。
「それに、こんなにかわいいリリィが、そんな場所に放り込まれたらどうなっちゃうか考えてよ」
 不満げに頬を膨らませるリリアン。たぶん、屈強な男どもを全て返り討ちにするんだろうなと想像しながら、アルフレッドは真顔で答える。
「まぁ、可愛いのは確かだもんな」
 そんな場所は似合わないだろう。アルフレッドはそのまま表情を変えずに次の提案を思案している。
「ふぇ」
 直球の褒め言葉に赤面しているリリィを一人置き去りにして。
 そうして、何も答えは出ないまま二人は別れた。ただ、アルフレッドは心から祈る。
 願わくば、あんなに輝いていたリリアンが輝ける世になってくれることを。
 早いもので、アルフレッドが学院を去ってから一年が経つ。
(さて、どうしたものか)
 貴族の領地を護る民兵の指導を託されていた彼は、そのまま何人か引き連れて領地の境界線近くまで来ていた。
 どうやら、隣国で怪しい動きがあるとのこと。念のため、兵力を増やしたいとの命で来たアルフレッドだったが、その疑念が現実になりそうだということを現地に来て知った。
「脅しだけなら、いいんだけど」
 偵察から帰ってきた者が血相変えていたことをアルフレッドは思い出す。何も起きなかったらそれでいい。昨日までの日常に戻るだけだ。
 しかし、何かあったら?
「……やるしかないか」
 そんな殺伐とした空気を感じるのか、陣営全体が暗く淀んでいるように感じる。嫌な感じだ、とアルフレッドは見回りを続けていた。
 すると。
「さぁ、みんな。準備はいいかなーっ?」
 この空気を吹き飛ばすような、底抜けに明るい声が響いてきた。
「なっ」
 アルフレッドは声のした方に駆けだした。どこか心がざわつく。そこにはかなりの人数が集まっていて、アルフレッドが先に進めないほどに人の輪ができていた。
『朝のあいさつ ニッコリ笑って 自分にかけよう 笑顔の魔法を』
 歌声は集まってきた人の中心から聞こえてきていた。この人の輪が即席の会場だ。皆、困惑している者もいるが、どこか表情が暖かい。青くなっていた者も、顔に血が通い出している。
 ここ最近、見ることのなかった温和な顔である。
(まさか、な)
 アルフレッドの頭に一人浮かぶ。ありえないことだと否定したくなるも、ただ、こんな歌声は一人しか知らないし、他に例もいないだろう。
 アルフレッドは、彼女の舞台となった陣の一角を遠めで眺めながら口角を上げた。
 一曲歌い終えた機会に、アルフレッドは人の輪の中心に入っていった。そこには予想通りの人物が、見たことのない女の子らしい服装で愛想を振りまいている。歌姫、というより本当の姫様みたいな様相だ。
「おい、そこのくせ者。勝手に何してんだ」
 アルフレッドの声に反応して振り返った彼女は目を丸くする。
「ずいぶんかわいい服を着てるんだな、先輩」
「うっ、先輩はかわいくないってばー」
 リリアンはかつてのように頬を膨らませていた。
「だから、事実だろ」
 一年ぶりの再開だというのに、お互いあの頃と変わらない。いや、逆にこの相手だからこそ変わらない様子で話せるといったところか。
 ただ彼女が何の用もなく、こんなところまで着ているわけがない。それは問い質さなければいけない。
「いったい、どうした。こんなところで」
「今日はね、ともだちのお手伝い」
「友達?」
 リリアンの視線を追うと、赤毛の少年と目が合った。彼はぺこりと会釈する。
 その後、アルフレッドは彼から色々と話を聞き出した。その内容はアルフレッドを迷わせるのには十分であった。この少年も悪い人間ではないし、リリアンにも義理はある。
 力を貸してあげたいが、さて、どうするか。
「先輩からの助言なんだけどな」
 少年と手合わせしたアルフレッドは思った。彼がしたいことには、彼自身の力が追いついていない。
 素材はいいのだが、どこかチグハグにアルフレッドは感じた。
「両手剣、向いていないと思うぞ。短剣か、そもそも武器を持たない方が強いかな」
 少年は背中に背負うような剣を装備していた。その剣が彼の動きを阻害しているのが、アルフレッドにはもったいなく思える。
「それは、よく言われる」
 少年は自分の手に握った剣を見つめている。その目は、思いのほか熱く輝いていてあるふれっd
カット
Latest / 1,199:53
カットモードOFF
391:35
想兼 ヒロ@幻想旅記
ただいま休憩中
404:39
想兼 ヒロ@幻想旅記
再開します。
498:31
想兼 ヒロ@幻想旅記
ただいま休憩中。
509:43
想兼 ヒロ@幻想旅記
再開します。
623:43
想兼 ヒロ@幻想旅記
ただいま休憩中。
637:24
想兼 ヒロ@幻想旅記
再開します。
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
魔王無き世の英雄譚~砂上に舞う『歌姫』は、高らかに『最強』を唄います~
初公開日: 2023年06月17日
最終更新日: 2023年08月29日
ブックマーク
スキ!
コメント
かつて魔王と呼ばれる者が支配していた地で、若者達は未来を夢見て今を生きる。
できれば本にして文学フリマに持って行きたい。