お姉ちゃんのことが、好きだった。
 だってお姉ちゃんは優しくて、いつも私と遊んでくれた。勉強も教えてくれたし、うじうじと悩む私を励ましてくれたことだって数え切れないくらい。
 みんなからの人望や人気も厚く文武両道、完璧を絵に描いたような人。
 ……私とは全然違う。
 だけど、そんなお姉ちゃんがいることが、なにもない私にとっては自慢だったんだ。
 でもそれが変わったのはいつからだったろう。
 私は――お姉ちゃんのことが、好きじゃない。
 /
 唐突にがなり立てる音に、私はハッと目を覚ました。
 束の間我を失っていたけれど、目覚まし時計に叩き起こされたのだと気付くのにそう時間はかからなかった。
 ほぅと吐息が零れる。
 変な夢を見ていたせいか、頭がまだぼんやりしてるらしい。
 まだもだもだしたかったけれど、時間を見れば余裕はあまりないようだった。諦めた私はベッドから這いずり出て、身嗜みを整えたあと、制服の黒セーラーに袖を通す。
 通学鞄を手にリビングに入ると、当然ながらお父さんとお母さんがそこにいた。
「おはよう」
「おはよう、燈子」
「おはよ」
 欠伸を噛み締めながら食卓に着く。
 四つある椅子の内、一つは未だ空いていた。
「燈子。高校は決めたか?」
 夢は尾を引いていて、ぼぅっとトーストを齧っていると、不意にお父さんがそう口を開いた。
 途端に、自分でも不思議なほどの苛立ちが湧いてくる。意識がはっきりと覚醒するくらいに。
 なにに対するものなのか、はっきりしないまま。
「……まだ」
「そうか。そろそろ決めた方がいいぞ」
「分かってる」
 気持ちを抑え込めなかった私は、まだ半分以上あったトーストを一口に押し込んで、「いってきます」と逃げ出した。
「あ」
 だけど玄関に辿り着く前に、ばったりと出くわしてしまった。
 向こうは相変わらず優しく、だけど困ったような笑顔を浮かべた。
「えっと……いってらっしゃい」
 苛立ちが最高潮に達した。
 だけど私は、その苛立ちのぶつけ方を知らなかった。
 あるいは――向こうに非がないことを、分かってたからかもしれない。
 なにもない私がなにをどう言ったところで、負け犬の遠吠えのようなものだ。
 だから私は、それに応えることもできずに、その横を通り過ぎた。
 後ろから向けられる視線にちりちりと心を焦がされた私は、駆けるように家から飛び出していった。
 /
 中学も三年生の半ばを過ぎ、盛んに進路や受験が叫ばれるようになった。
 再提出として突き返された白紙の進路調査のプリントに、私はこっそりと溜め息を吐く。
 行きたい高校なんてない。だってやりたいこともないんだし、趣味も特になければ、ノリを楽しめる方でもない。
 入れそうなとこを適当に書けばいいのかもしれないけれど。それだって杳として決まらない。
 だけど、絶対行かないと決めてるとこは、一つだけある。
 でもそもそもそこに入れそうにもないんだから、意味のない決意だけど。
「お、七海、どうした」
 と、唐突に声をかけられ、びくっとする。
 振り返ると、生徒会の顧問だった先生だった。
「あ、いえ、その」
「なんだ、まだ決まらないのか?」
「……はい」
 進路調査を覗き込んだ先生の言葉に、私の体は固くなる。
 だって、次に言われることが分かるから。
「澪と同じ東高に行かないのか?」
 ずぐ、と。慣れてしまった鈍い痛みが、胸の奥に突き刺さる。
「成績が、足りないので」
「そうか。しかし七海はがんばればまだ伸びる余地があると思うがなぁ」
 渋い顔をしながら頭をかく先生に、私はほっそりと臍を噛んだ。
 ……がんばってるよ。
「はい、がんばります。それじゃあ」
 私は逃げるようにして踵を返す。
 どうせこのあと、「あいつはすごかった」だのという自慢のような褒め言葉から、「お前もやればできる」と肩を叩かれるんだろうから。
 もうそういうのはうんざりだった。
「お、そうだ」
 しかし立ち去る前に、先生の言葉が私の足を止めた。
「あいつ、そろそろ就職だっけか? どうなんだ?」
 それは――その言葉は、私に朝の最悪な気分を呼び覚まさせるのに充分過ぎた。
「……決まったみたいです」
 そうとだけ返してから、続く言葉を待つことなく私は再び足を動かした。
 /
 お姉ちゃんのことが好きじゃなくなったのは、いつからだったろう。
 少なくとも小学校の間はそうじゃなかった。友達が少なくて家にすぐ帰ってばかりだった私をずっと構ってくれてたし、宿題も教えてくれた。
 そう、だから、中学に入ってからだ。
 中学に入って、不安と期待で綯い交ぜになっていた私を最初に出迎えたのは、先生たちだった。
 みんな、口を揃えて言うのだ。「あの澪の妹か」って。
「あいつはいつも成績優秀だった」
「運動神経抜群で、運動会でもクラス対抗リレーでアンカーやってた」
「人気者で、生徒会長選挙の時は圧勝だった」
 最初はよかった。だってそれは私の自慢のお姉ちゃんの姿そのものだったから。
 だけどそれはすぐに形を変えていく。
「でも、澪とは違うなぁ」
 落胆にも似た、憫笑。
 なにかする度、お姉ちゃんと比較させられる。
 何度も。何度も。
 上手くできたと思ったことも、お姉ちゃんはもっと上手くやってる。そう考えると、なにもする気が起きなかった。
 だって、なにやってもお姉ちゃんの方ができるんだから。
 私ががんばって生徒会に入って書記になっても、お姉ちゃんは平然と生徒会長になる。どれだけ勉強しても、努力しても、その差は埋まらず、比較される。
 ……いやになった。
 でもそれは私が悪い。
 なにも持ってなくて、出来損ないだから。
 だから我慢した。幸い、比較するのはお姉ちゃんを知ってる先生だけで、他の先生や生徒はそういう目で私を見ることはなかった。私はただの「出来の悪い子」に変わりないけれど。
 だけど。私がお姉ちゃんを好きじゃなくなったのは、そんなことじゃない。それはいやになったことだから。
 理由はきっと、他の人からすれば些細なこと。
「就職決まったよー」
 そう笑ったお姉ちゃんの就職先が、別にすごくもない、普通のとこだったこと。
 ううん、ひょっとしたらそれよりもっと前からかもしれない。
 大学の成績が特別優れたわけじゃないことは薄々察せられてたから。
 そんなことで、ってきっとみんな言うだろう。
 そんなことじゃないのに。
 だって、お姉ちゃんだよ。
 文武両道、人当たりがよく、誰からの信頼も厚い。
 私の、自慢のお姉ちゃん。
 そのお姉ちゃんは、全然特別じゃなかった。
 宿題は人にやらせるし、人を振り回してばかり。勢いで動いて何故か上手くいってるだけ。
 それが本当のお姉ちゃん。
 ……じゃあ。なんだったの?
 私の自慢は? 他の人と比べられても、お姉ちゃんだから我慢できてたのに?
 特別じゃないお姉ちゃんと比べられた私は――なんだったの?
 分からないよ。もう。
 お姉ちゃんをどう思ってるのか。
 私は――なんなのか。
 私は、どうすればいいんだろ。
 /
 夕暮れに染まるグラウンドを、ぼんやり眺めていた。
 秋風がさやとうなじを擽る。慣れない寒々しさに、思わず後ろ髪に手をやった。
 ずっと伸ばしていたものだから、長い髪の感触がないのが少し寂しい気もする。
 ……私、どうしたらいいんだろ。
 ずっと途方に暮れている。
 思い悩む私をよそに、運動部は元気よく声を出している。
 羨ましい。やりたいことがある人は。
 私にはなにもない。どん詰まり。
 なんとなくの閉塞感。ぼんやりとした鬱屈。
 それさえも、きっと特別な物じゃない。ありふれた悩み。
 そう分かってるからこそ、余計になんら特別でもない自分に嫌気が差す。
「さこーい!」
 だから、その声に目が向いたのは、たまたまだった。
 羨ましさに目を向けたそこではソフト部が練習している。
 その子は他の子よりも小柄だった。明るい色をした髪を、後ろに二つ結っていた。
 夕陽に顔が塗り潰されてよく見えない彼女が腰を落とすと、きん、と打球が放たれる。
 あ、と思わず声が零れる。小さな彼女には届かない距離。
 それでも彼女は足を動かし、懸命に飛び付く。
 ――ボールはグラブの先を掠めて、てんてんと無情に転がっていった。
 あぁ、やっぱり――
「もいっちょー!」
 だけどそれでも彼女は、跳ね起きて声を張り上げた。
 失敗しても足を止めずに、小さな体でグラウンドをめいいっぱいに駆け回る。
 ……どうしてか分からない。だけど。
 その小さな姿に私は、目を離せないでいた。
 彼女がすごい? 羨ましい?
 そうなのかもしれない。違うのかもしれない。
 けどきっと、彼女なら分かるのかもしれない。
「――こんにちは」
 そんな衝動にも似た得も知れぬ期待に突き動かされ、私は彼女へと声をかけた。
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