少しばかりの緊張と、それ以上の懐かしさに視線を泳がせながら歩き続けた私は、ようやく目的地に辿り着いた。
「あの頃のままだわ」
 三十年あまり変わらない光景に、思わずそんな呟きが溢れる。
 感傷に束の間立ち止まっていた私は、今いる場所が出入り口だということに遅れて思い至ると、慌てて「藤代書店」と看板が掲げられた店の中に入った。
 店内の雰囲気も相変わらずのようだ。流石に今の時代だからか、客足は減ってるようだけど。
 ただそれに浸る間もなく、エプロンを身にまとった女性と目が合う。
 私の知るあの子とは全然雰囲気が違うけれど、何故だか私は「この人だ」と確信を抱いた。
「こんにちは。侑ちゃ……侑さんのお母さんですか?」
 若干普段の呼び方が口を衝きながらも声をかけると、眼鏡をかけた黒髪の女性はいくらか表情を固くさせた。
「はい。七海さんのお母さんですよね」
「はい。いつもあの子がお世話になってます」
「そんな、こちらこそ。……初めまして」
「実は昔この辺りに住んでたもので、ここも何回も来たんですよ。もしかしたら見たことあったのかも」
「あら、そうだったんですか」
 澪や燈子の絵本を買ったのもここだった。とはいえ確かこのお店はずっとおじいさんとおばあさんが切り盛りしてた記憶がある。それに私自身はそんなに本を読まないものだから、子供たちが成長すると足が遠ざかってしまった。
 そんなお店に再びこうして足を踏み入れることになったのだから、人生なにが起こるか分からないものだ。
「えーと、ひとまず上がってください」
 実際のところはともかくとして、初対面特有の微妙な気まずい沈黙が一度流れたものの、侑ちゃんのお母さんは私を暖簾の奥へと促した。
「お邪魔します」
 後ろを着いていくと、上がり口と狭い廊下が続いている。彼女は私を客室に案内すると、廊下の先の階段へと声を飛ばした。
「お母さん、店番お願いねー」
 「はぁい」という嗄れた応答が遠く聞こえた。
「ごめんなさいね、慌ただしくて」
「いいえ。家がお店って大変ですね」
「会社だったら色々とやってもらえるんでしょうけど、自分でやらなきゃいけないことが多いですね」
 そうした会話を交わしながらお茶とお茶請けを用意していた彼女は、お互い一服して改めての自己紹介を終えると、頭を下げた。
「……お呼び立てしてすみません。今日はわざわざありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ一度お会いしたいなと思ってて。それにこの辺りに久々に来れたので、ちょうどよかったんです」
 あの子――澪が死んで引っ越してから、ここに立ち寄ることなんてなかったから。
 あの頃、通る度に吐き気に眩んでいた事故現場の、当時のままの姿にも、感情が強く込み上がることはなかった。
 薄情、だろうか。ふとそんな考えが頭をよぎったことを思い出した。
「そうでしたか。それで、先にこちらの話をする前に、一つ聞いてもいいですか?」
 と、彼女――涼子さんが真剣味を一層増して、念を押すように訊ねてくる。
 なんだろうと疑問を浮かべながら、私は頷いた。
「七海さんは、あの子たちの話を聞いて、どうでしたか?」
 ……あぁ、なるほど。
 問いかける口や瞳の震え、揺れ。そして、芯。
 それを見れば、いくらか察するには充分だった。
「そうですね。勿論驚きはしましたけど……でも嬉しかったですよ」
 だから私は素直に答える。
「なんていうかあの子、ずっと一人でがんばってきてたから。そういう人ができたのは、よかったなぁって安心しました」
「……すごいですね」
 あまり要領は得られなかったかもしれないけれど、率直に言葉を連ねていると、涼子さんはほぅと嘆息を零した。
 そうして一度、二度、口を開いては閉じてを繰り返し、唇と強く結んだ彼女は、ゆっくりと吐露し始めた。
「私は最初、抵抗がありました。女同士なんて、と。自分に娘に、あなたの娘さんに、裏切られたような気分でした。それできっと、娘さんにも強く当たってしまったかもしれません」
 その事情は少しだけ知っている。以前、侑ちゃんから聞いたことがあったから。
 母が自分たちのことを認めてくれない、と。なんとか押し切って認めさせはしたものの、そもそものやり口が強引だったから本当は認めてくれてないんだろう、と。
 よっぽど思い悩んでたんだろう。誰かに聞いて欲しかったのに、本来その役割を担えるはずの母親や燈子は当事者だ。相談したくともできなくて、私のところに来たというわけだ。
 私はなにか答えることもできなかった。だけど聞くことだけはできた。それだけだ、私のできることなんて。
 涼子さんもきっと、色々悩んできたのだろう。自身の積み重ねてきた価値観と、良心とに揺れ動いて。
「それでもあなたの娘さんは、私みたいなのにずっと話しかけてくれました。距離感まで気を遣ってもらって……」
 そう言って、涼子さんは視線を動かす。その先には、花瓶に一本のカーネーションが飾られていた。
「そこのカーネーション。あれも娘さんが贈ってくれたんですよ。この間、母の日に」
 それを見つめる瞳には、そう語る声には、芯が通っているのが感じられた。
「ようやく私も決心しました。七海さん」
 その瞳が、声が、私に向けられる。自然、私の背筋が伸びた。
「あなたの娘さんを、燈子さんを、私の娘にもしてくれますか? 私の娘を、侑を、あなたの娘にもしてくれますか?」
 涼子さんはそう口にして、頭を下げる。
 それを口にするのに、どれだけ悩んだことだろう。一度固めた決心もどれだけ揺れ動いたことだろう。
 その上で、涼子さんは頭を下げたのだ。
 私の答えは、決まっていた。
「……勿論。喜んで」
「――ありがとうございます」
 私が肯くと、顔を上げた涼子さんの瞳が、潤んでいた。
 それは私も望んでいたこと。
 勿論、ずっと一緒だとは限らない。もしかしたら、があるかもしれない。
 それでも、あの子たちなら。きっと、私たちの娘でいてくれるだろう。
 そうであるなら、私たちも。
「ねぇ小糸さん。折角のご縁だもの、私たちもお友達になれたらと思うのだけど、どうかしら」
 私がそう声をかけると、涼子さんは驚いたように目を見開くと、柔らかい笑みを浮かべる。
「私でよければ、喜んで」
「今度お茶しましょうよ。この辺りならえーっと……Echoって喫茶店はまだあるのかしら」
「ありますよ。今は若い店長になってますけど」
 あら。どこももう世代交代してるのね。
 だけどまだ、続いてる。
 この街は、まだ悲しい思い出があるけれど。
 これからは少し、変わってくれるかもしれないわね。
「そうなの。楽しみだわ」
「えぇ」
 互いに微笑みながら、すっかりぬるくなったお茶に口を付ける。
 初夏の麗らかな日差しの中、私は侑ちゃんから贈られたカーネーションを思い出し、ふと口元を緩めた。
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