刺すような冷たさは、目を開き続けるのも苦労を要する。それも向かい風が吹き付けてくる中、走ってるのだからなおのことだ。
 リズミカルな呼吸に合わせて、断続的に薄い雲が立ち込める。それは私だけじゃなくて、伴走してる犬のそれも混じっていた。
 スポーツには冬になるとシーズンに入るものと、オフに入るものがある。
 私たちソフト部は後者だった。この時期は体力作りに主眼が置かれる。
 もちろんボールを使った練習がないわけじゃない。なんなら侑とキャッチボールなりで自主練することだってできる。
 だけど生憎今日は侑の都合が付かなかった。しょうがなく私は一人で自主練するはめになった。
 なんにせよ、来年になると三年生、最後の中体連だ。悔いのないよう、体を動かすのは面倒じゃない。
 ただ、走り続けるのは退屈ではあった。ウチの犬っころが付き合ってくれてるとはいえ。
 だからだろうか。その人に目が留まったのは。
 少し伸ばした黒髪に整った顔立ち。年が近いようにも見えるけど、私服も含めてどこか大人びた雰囲気があるものだから、実際のところは分からない。
 きょろきょろと周囲に目を走らせる様は、どうにも迷っているように見えたものだから、私はついその人に声をかけた。
「あの、どうかしました?」
 流石に急なことだったのか、彼女は「えっ」と少しびくっと体を震わせて驚いた。どうやらストレートが過ぎたようだ。
「えっと……?」
「急にすいません。その、なんか迷ってる感じだったんで」
「あぁ……まぁ、そうなんです」
 すぐに状況を理解したらしく、彼女は一度口籠りわずかに考えるような素振りをしたあと、私の言葉を認めて苦笑を浮かべる。
「前にこの辺りに住んでて。それで今度こっちに受験するつもりだから下見ついでに住んでたところを見に行こうと思ってたんだけど、覚えてた景色と全然違ったから」
 へぇ、と興味を示す相槌が零れる。住んでたことあるんだ、というある種の同族意識とでも言おうか。
 実際この辺りは道なりは変わらずとも街並みは滅茶苦茶変わったからなぁ。久し振りに来たのだったら迷うのも無理はない。
 てか受験ってことは一つ上か。危なかった。セーフ。
「この辺りに住んでたんすか?」
「住所的にはそうだね」
「二、三年くらい前に開発があったんで、ここいらは変わってるんすよ」
「そうなんだ」
 私の説明に彼女は苦笑の色を濃くする。
 それがどことなく寂しそうに見えた。
「あの、よければ少し案内しましょうか?」
 だからなのだろうか。よく分からないけど、とにかく私はそんなことを口走っていた。
「え、いいの?」
「散歩のついでなんで」
 そう言いながらリードを振ってアピールすると、彼女は目線を下にやってから小さく笑った。
「じゃあお言葉に甘えて」
 それじゃあ、と私たちは並んで歩き出す。
 どうやら犬っころは待ちくたびれてたようで、我先にと走っていこうとする。その勢いをリードに制されては、急かすように私たちを振り返るものだから、二人して噴き出してしまった。
「確かここ空き地だったっけ」
 彼女が住んでたという家に向かう道中、度々彼女はそんな風に口を開いた。
「そっすね。私もよく遊んでました」
「私はあんまり遊んでなかったけど、見てたな。学校の通り道だったし」
 まぁ言われれば私もこんな人を見た記憶がない。一つ上とはいえこんなに目立つようなら覚えてそうなもんだけど。
「この辺り、全部家になっちゃったんだね」
 確かにこの辺りは駅や商店街が近いのもあってか、昔はもっと個人商店が多かった。
 今では周囲に比べての土地の安さと駅近の利便性から、ベッドタウンとして人気が出ているらしい。この一帯の開発もそれに関連してるのだとか。私にはよく分からない話だけど。
「あれ、ここ、駄菓子屋」
 線路沿いに駄菓子屋の看板を掲げたそこは、しかしシャッターが下りている。表に佇んでいる自販機とベンチも合わさって、どことなく物憂げだった。
「あー。ここ、もうずっとシャッター開いてないっす」
「そうなんだ。よく行ってたんだけど」
「私も行ってました。ここの親父さんが亡くなったとかでやんなくなったんですけど、婆ちゃんが出て行かないらしいっす」
「……そっか」
 大人たちが話してたのの受け売りだけど。私たちは店が開かなくなったから自然と来なくなっていたから、そんな事情もあとになって知ったことだ。
 それからまた歩くこと、少し。
「ここだね」
 不意に足を止めた彼女は、目の前の光景を見上げた。
 そこはなんの変哲のない、新しめのアパートが一軒建っている。
「……うん。全然面影ないなぁ」
 その言葉を、一体どんな気持ちで吐いたのだろう。
 彼女はどことなく気落ちしたように笑った。
 出会ってからこれまで短い付き合いだけれど、彼女が時折見せていた寂しさが、一気に膨れ上がったように感じられた。
 私は……それに、なにも返しようもなかった。
 だって私は、彼女じゃないから。
 彼女みたいに、住んでた場所がなくなるなんてこと、なかったから。
 その寂しさを私じゃどうすることもできない。
「今日はありがと。お礼にあったかいの奢るよ」
 気も済んだのか、しばらく見上げていた彼女はやがて、私に視線を戻して近くの自販機を指す。
 受け取れない、と思った。
 私は彼女に、なにもしてあげられなかったから。
「別にいいっすよ」
「え、でも」
「そんじゃ受験、がんばってください」
 私はどこか逃げるようにして、彼女を置いて走り去った。
 無力感を誤魔化すように走りながら、私はそれでも彼女の寂しさが和らげばいいなと願った。
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