一度、いや、二度ばかり来たことがあるとはいえ、たったそれっぽっちの来訪じゃ景色は新鮮なものだから、どうにも目移りしてしまう。
途中で構内案内の看板を見つけられなかったら、あとどれくらい迷っていたことか。
ようやく待ち合わせ場所を見つけることに成功して中に入ると、すでに店内に座っていた相手は私を認めて手を挙げた。
「叶さん、こっち」
そんななんでもない仕草でも思わず見惚れてしまいそうになる。それだけでカフェの客が一斉に視線を向けるのだから、人を惹き付けるカリスマ性は大学でも遺憾なく発揮されているようだ。
コーヒーを頼んで相席し、改めて私は頭を下げた。
「こんにちは、七海先輩」
「久し振り」
「久し振りって言っても、こないだの卒業式振りですけど」
そういやそうだった、と七海先輩は朗らかに笑って紅茶を口にする。
先月の卒業式、終わったあと七海先輩が急に現れたおかげでてんやわんやになったのは忘れられない。侑は嬉しさ半分忙しさ半分といった目をしていた。
「改めてになるけど、入学おめでとう、叶さん」
「ありがとうございます。今日はすみません、わざわざ」
「いいっていいって。こうやって叶さんと会えたんだから。これもどうせもういらないんだし」
そう言って七海先輩は傍らに置いていた紙袋を持ち上げる。
……私が選んだ進学先の大学には、一年先んじて七海先輩が入っていた。
もちろん朱里みたいに好きな人を追っかけて、なんてわけじゃない。七海先輩には侑がいるんだし、そもそも私は七海先輩をそういう風に見たことないし。
ただ、私が興味を持ったところが、たまたまそうだったってだけで。
とはいえ知り合いがほとんどいない中で、顔見知りがいるのは貴重だ。卒業式の時に今更ながら連絡先を交換し、大学が始まって初日の今日、先輩から不要な教科書を譲ってもらうためこうして会うことになった。
「とりあえず先に、はい。あんまり多くなくてごめんね。私単位ギリギリだし、友達も後輩にあげるからーってもらえなくって」
「いえ、助かります」
そもそも学部も違うのだから少ないのは当然だろう。教養科目の分だけでもありがたい。
「叶さんはどっかサークルとか入るの?」
「うーん。本当のところは興味ないんですが……」
そんな話を振られ、ちらりと視線を宙に泳がす。
……折角だし相談してみるのもいいかもしれない。届いたコーヒーを一度口にしてから私は再び口を開いた。
「それがちょっと悩んでて……。一応、文芸サークルには興味があります」
「ほほう」
「文芸サークルが部誌を作ってるらしくって。書いてる人がいるなら興味があるって言うか」
高校の時は文芸部で書いてる人がいなかったから入らなかったんだけど、幸いというか、私が進学した理由の一つでもある文学部の存在があるからか、書いてる人がいるらしい。
試しに去年、学祭を覗いて部誌をもらってみたのだけど、作品のクオリティとしてはかなりの物だった。こういう人たちがいるのなら、という興味は多分にある。
「最近、一人で書くことの限界、みたいなのを感じることもあって。私は指摘をもらえるのも侑とか編集さんくらいだし、今はまだないですけど、作品のマンネリもよく聞くから、そういう話ができないかなって……」
もちろん読み手の意見も大事だ。ただそれだけなら私には侑がいる。信頼する読み手が。
だから書き手としての意見交換する場があれば行きたかった。
「そうなんだ。よく分からないけど、確かに一人でやると行き詰った時に困るよね」
「そうなんです」
「それだけ聞いてると入った方がよさそうに思えるけど、迷ってるんだ?」
不思議そうに訊ねてくる先輩に、うっと言葉が詰まる。
だって……
「だって呑み会とか絶対行きたくないじゃないですか……」
「そんなにいや?」
七海先輩の苦笑に、私は唸る。
「聞いてるだけでもうんざりしそうです。それに普段どれだけ書いてる人がいるのかも分からないし……」
「見学に行くのはどう?」
「やっぱりそれしかないんですかね」
はぁ、と溜め息を吐く。実際そうしないと雰囲気が分からないのだから当然といえば当然だけど。
どうしても見知らぬところに飛び込むのに気が引けてしまってるのだ。
それに。
「ただ私、しばらく忙しくなりそうでどれだけ顔を出せるか分からないですし」
私がそう言うと、七海先輩も納得の声を上げる。
「そっか、本が出るんだっけ。いつ頃?」
「秋に出る予定です。なのにまだ原稿終わらない……」
「それは……がんばってね」
同情の色を帯びた応援が傷口に染みる。
この調子で大学だなんて、単位落とさずに済むかなぁ。
私ががんばるしかない。分かってる。分かってるよぅ。
「私も一度、書こうと思ったことはあるんだけどね」
ふと、紅茶で唇を湿らせた先輩が、そんなことを言い出した。
「あれ、そうなんですか」
「うん。高校の時に一回ね。生徒会劇の脚本を作らなきゃと思ってやってみたんだけど、出だしから全く書けなくって……」
そこまで口にした七海先輩はどうしてだか話を止めて、私の目を見つめ返した。
「そうだ、叶さん。あの時はありがとう」
「え?」
唐突な話題の転換に、私は呆気に取られる。
「生徒会劇の脚本書いてくれて」
一体なんの話かと思えば、思いもよらなかったことに、私は当時を思い返して急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「いやそんな、今から思うと拙い部分もあったなぁって」
「ううん、そんなことないよ。……実はさ、あの頃の私は結構悩んでて」
先輩に更に予想外のところまで話を転がさてた私にとって、それは一番の驚きだった。
だってあの七海先輩。いつも堂々としてたし、人当たりもいい。私は侑みたいに多く関わったわけじゃないけど、悩んでいるようには見えなかった。
「だけど、叶さんの話を演じてたら、なんだか救われたっていうか。もちろん侑やみんなのおかげでもあるんだけど、叶さんの脚本がなきゃ、きっと私は悩みを解消できないでいたと思うんだ」
……それは。なんて言うか。
言葉を選んで曖昧に濁されてるから、詳しい事情は全然見えてこない。だけど。
「だから、ありがとう」
なんて言えばいいんだろう。
今の、この気持ちを。
私の書いた物語が、人を動かしたのだという、その達成感や感動にも似たなにか。
それは私に到底言い表すことができなさそうだった。
「……こう、なんて言えばいいのか分からないですね」
「あはは、急にごめんね。でも思えば叶さんとこうして二人で話すことなかったなぁって」
確かにそうだ。生徒会劇の時とか侑といる時ぐらいしか会うことなかったし。間にはいつも侑がいたから。
だけどこれからは。きっとこの人のことをもっと知ることになるんだろう。
「折角同じ大学になったんだし、これからよろしくね」
そう笑顔と共に差し伸べられた手を、わたしは握り返した。
「……よろしくお願いします、七海先輩」