ごり、ごり、とキッチンから静かに鳴る音が何かと思って覗いてみたらこれである、と金丹は驚いたような納得したようなため息を吐いた。
仕事終わりの点検で薬研が一台ないということには気付いていた。ただ探そうにも心当たりだってないし、朝になってから知り合い連中に聞いた方が早いかと考えていた。それでもって水を飲んでからひと眠りしようと思ってキッチンを尋ねて、そうしたらどういうわけか薬研で何かを挽いている後輩――ルドラの姿があったというわけで。色々と突っ込みどころはあったのだが、まず一言言わなくてはいけないことがあったのを思い出した。
「ルドラくぅん。それ、|猪苓使ってたんだけど大丈夫ぅ?」
「洗って加熱消毒した」
聞いたことに対して余計な言葉を挟むことのない、金丹とは真反対な喋り方は聞きなれたものだ。まぁ彼のことだし、何かしら体に異常が起きたとしても解毒くらいどうということはないだろうと金丹は早々に責任を放棄した。
「水飲みたいんだけど」
「勝手にしろ」
勝手にしろと言われたのだから勝手にするのは道理だ。金丹は棚にあるグラスで適当なものを取り出してからシンクの蛇口をひねって室温程度の水を八分目まで注ぐ。自分の薬研で果たして何を削っているのだろうかと思って覗いて、そして呆れた。
キッチンのボードの上には多くのスパイス系統の原型、そして薬研の中にはすでにほとんどが挽かれた鷹の爪とコリアンダーシードがあった。多くの生薬や薬物の匂いに晒されたことによって使い物にならなかった金丹の鼻では気付かなかったのも無理な話である。件のルドラは涼しい顔で薬研を押しており、彼が何を思っているのかも意に介さないような顔だ。何か文句の一つでも言ってやろうかと迷った彼であったが、言ったところで無駄だともわかっている以上咎めることについては諦めた。代わりに何をしているのかくらいは聞いても許されるだろうと思って、水をちびちびと舐めながら話しかける。
「何作るのぉ」
「カレー」
「なんでまた」
「食べたくなったから」
彼の淡々とした応答に対して金丹が思ったこととしては『本当にこの男は料理が出来るらしい』という若干の驚愕である。
ルドラは無駄だと判断したことについては極力削減するきらいがある。彼が医療室に配属されてから一番に捨てたものが娯楽的な食欲であった。時間がかかるからなのか、はたまた単純に料理が出来ないからなのか――といっても後者の可能性はたった今無くなった――、食事及び食事の準備という行動を極限までカットして行動していたことについては彼に近しい人間ならば誰しも知っていることだ。随分前にドクトルが「飯は食ったか」と彼に聞いた時に、学生服から白衣に着替える最中の彼「もう食べた」といってゴミ袋のプロテインバーを指さし、ドクトルから滔々と栄養学について説かれていたことについては記憶に新しいように思える。そんなことを思い出されているとは露ほども知らないルドラはといえば、ターメリックを挽き終わった頃合いで、指についたそのスパイスを舐めてほんの一瞬眉間へのシワを深くさせた。ルドラの最も苛烈な時、すなわち最も自らを犠牲にして動いていた時を比べれば、その表情はいくらか柔らかくなったようにさえ思えた。
「スパイス多くなぁい?」
「余ったら置いておけばいい。どうせ誰かが使う」
小型のボウルにターメリックを分ける。ボウルの数は合計五つ。それらに一旦ラップをして置いておき、彼は冷蔵庫の中を漁りはじめた。途中で煩わしくなったのだろう、白衣がスツールに雑に畳まれて置いてあることに今更気付く。何かを探しているにしても随分まごついていたので、耐えかねて金丹も冷蔵庫を覗き込む。
「何探してるのさぁ」
「肉。あと玉ねぎ」
「肉ならチルドねぇ。あと玉ねぎも下の引き出しだからぁ」
「……あった」
鶏もも肉を取り出して雑にボードに置き、引き出しを開ける。ともすれば新鮮な玉ねぎが二、三個ほど見つかった。季節を鑑みても新玉ねぎ。しかしそこまではわからないのであろうルドラは特に気にせずに三個ごろりと転がした。冷蔵庫を閉じてから、ビニールを破いて肉を取り出す。包丁の持ち方については最初こそひやひやさせられたものの元より持ち合わせている飲み込みのよさですぐに達者に思えるようなスムーズな動きになる。油をほんのわずかに敷いてから熱したフライパンに惜しげもなく放る。フライパンに敷き詰められた肉の油の匂いは脳細胞にはしっかり伝達されたらしい。ぐぅという間抜けな音が鳴る。自分に胃がないと誰より事実として理解している金丹は、ルドラについ視線をやってしまった。彼は肉のぱちぱち焼ける様子に集中しているように見える。
「……ルドラくん」
「手術があったんだ。長くてな」
「何やってたのぉ」
「心臓弁膜症、四時間。その後往診依頼で骨肉腫の手術が五時間」
「あー……」
人体の要となる心臓の手術はそもそも要求される技術が繊細であったり人工心肺装置を使ったりすることから、多くの場合手術時間は二時間はゆうに超える。特に心臓弁膜症に関しては六時間にも及ぶ場合があるらしいが、優秀な彼は比較的マシな範疇に収まったらしい。それでもこうやって立っていることが出来るあたりは医神と名乗るだけあるか。
「それでお腹減ってたんだねぇ」
「……福秋の時にドクトルから栄養指導を食らってな。『食いたいと思った時に我慢をするな』と言われた。栄養失調だったそうだ」
「あれま」
その様子は簡単に想像できる。点滴を打つ時に『重症だな』とドクトルがぼやいていたことを思い出していた。肉は両面綺麗な焦げ色をつけ、バットの中に油ごと移し替える。
「フードプロセッサーってあったか」
「そんなものないでしょぉ」
「面倒だ……」
慣れたような手つきで玉ねぎの皮を剥き、茶色のぱさぱさした生ゴミをゴミ袋に放り込む。ざくざくという軽快な音と共に細かくなっていく玉ねぎをぼんやりと見ているうちにグラスの中の水はすっからかんになった。しかしそのまま自室に帰るのもなんだか惜しいように思わされて、ルドラが白衣を置いている横のスツールに座ることにした。ルドラは涙が張る目でじろりと睨む。
「何をしている」
「いやぁ?暇だから見てようかなぁって」
「……」
何か言いたげな視線はやがて諦めに変わり、また玉ねぎを刻む作業に戻った。ボウルの中に山盛りになった玉ねぎは見ているだけで涙が出てきそうになる。鶏肉の油を拭き取ったフライパンにクミンやマスタードシードをざらざらとあけてから再び火を点けた。油の温度はやがてじわじわと上がり、油に揚げられた種がパチパチと音を立てはじめる。それをフライパンじゅうに広げてから、冷蔵庫に入っていたおろしにんにくとおろし生姜をこれまた勘に近い量で入れていく。
「レシピ大丈夫なのぉ?」
「父がよく趣味で作っていたものだから大丈夫なは、」
言葉はここで一度詰まる。金丹は彼から出てきた父という言葉を拾っており、ほうと顎の髭をさすった。じゅわじゅわと盛大な音を立てて揚げられるスパイスの音に紛れて誤魔化せたように思えたが、マスクと髪の下の動揺は隠せていない。伏せた目は玉ねぎを放り込まれたフライパンを睨んでいるものの、視界が捉えているものがフライパンでないことくらいはわかる。木べらはかしゃかしゃと玉ねぎの水分を飛ばしているものの、どこか上の空みたいになってしまった。一瞬生まれた思考の空白をこれ以上広げてやろうか否か金丹は悩んだが、何か報復されることも恐ろしくなってやめにした。
「カレー作るのはいいんだけどさぁ」
「何だ」
「ご飯あるの?あるいはナンとかさぁ」
「……あ」
手が明らかに止まった。この男、医療以外のところはどうも抜けていたりするが手術直後で頭がやられている彼はもっと酷いことになっているようだ。カレールーだけで食べるつもりだったのかと呆れながらも金丹はせめてもの親切心として何か食い合わせのいいものがないか探してみた。その間にも飴色になった玉ねぎにスパイスが混ざり、金丹ではわからないもののスパイス特有の刺激臭がキッチンに満ちていく。皆々が寝静まったり、あるいは依頼に赴くこの時間。深夜の背徳に気付く人間は誰もいない。やがて冷蔵庫にある木綿豆腐を取り出して金丹はルドラの視界に入りそうなところに置く。
「これ使ったらよくなぁい?」
「レトルトの米はなかったのか」
「消費期限こっちの方がやばいと思うなぁ」
「いつだ」
「明後日」
「そこに置いておけ」
白衣も脱いでフライパンを前にしている彼の様子はただの青年だ。ブレザーを着て医神だと名乗って医療室を占有した高校生も、依頼のせいで自分の手が届かずに死んだ人々を前に絶望する若人も、そこにはいない。当たり前の話なのに、なんだか奇妙な話だった。いつの間に取り出していたトマト缶を開ける手は、そのくせメスやペンを握った痕が残っている。ふつふつと熱されている様子をルドラも金丹もしばらくじっと見ていたが、やがてルドラは豆腐のパックを開けて水を切り出した。せわしなく動く手は、やっぱりルドラの普段の様子とは離れたものだ。
「プレーンヨーグルト、探してくれないか」
「わかったぁ」
よく考えれば手伝う義理もないはずなのだが、好奇心と不安要素で見始めたせいか手伝うつもりもないのに探してしまう。それがどうにも小憎たらしくなって、わざと加糖のものを選んでキッチンボードに置いた。しばらくすればルドラのズボンのポケットに入れていたタイマーがデフォルトのアラームを鳴らし、ルドラはそれを止めてからヨーグルトの蓋をバコと開けてフライパンに放り出した。金丹はネタバラシをしようか悩んだが、七面倒になってやめる。あとはバットの中にある焼いた鶏肉をぶちこめばしばらく置くだけだ。また携帯のタイマーをセットして、ルドラは一度白衣を着てスツールに座る。ラックの上に置いていたノートを膝の上に広げてボールペンの芯をカチと出した。金丹とルドラの付き合いはもう十年を超えるものだから、それが診察・執刀した患者のものであると知っているし、そこには生きている者だけでなく彼の手が届かずに死んだ者も記されていることだって知っている。そしてそれが無駄なことであるともわかっているのだが、わざわざ突っ込んでやるほど金丹は豪胆でもあるまい。きっと今は長時間に及んだ執刀の記録をしているのだろう。隈が残る視線はギラついていて、睡眠不足を色濃く反映されていた。
「ドクトルくんの栄養指導ってどんな感じなのぉ?」
「成人に必要なエネルギー量についての説明と普段の食事についての聞き取り、食事に対する姿勢についての指導だった」
「あー……」
きっと他の人間にはもっとおざなりに説明するのだろうが、この男の場合はおざなりに説明すればおざなりに実行する。それを把握してあえて丁寧に説明したのだろう。まぁ医者が医者の世話をするという手間のかかることを回避したいというドクトルの気持ちは存分に汲み取れた。金丹はこれ以上深入りすることも面倒に思われて、ノートを埋めていくルドラの様子は一瞥するだけに留められた。
テロリロ、とタイマーがスマホから鳴り、棚から皿を二枚取り出す。
「なんで二枚なのぉ?」
「お前も食べたかったんじゃないのか?」
「……」
そのつもりは毛頭なかったのだが、よく考えれば途中で退室しなかった時点でそう捉えられる可能性についてはおかしくなかった。下手に抵抗するのも意地を張っているみたいでどうにもならないし、事実調理過程を見ているうちに空腹中枢が刺激されたことについては事実だ。しかし金丹は自らの消化器官があまりしっかりしていないことを知っている。
「俺食べられないよぉ」
「スパイスについては加減した。それに加糖ヨーグルトなんだから辛さについては和らいでいるはずだ」
当たり前のように悪戯を見抜かれてしまい金丹はドキリとなったが、怒っている様子ではないしそういうことにする。皿に山分けの豆腐と、量が調整されたカレールーがある。量が少ない方の、おそらく金丹の分であろう皿は鶏肉だって比較的小さいものが選ばれており、その気遣いにむかついたものの大人しく受け取ることにした。スプーンを渡されれば、もう引くに引けない。
「いただきます」
「……いただきまぁす」
黙々と食べ始めるルドラによく作れたななどとからかう気持ちも今は起きなくて、スプーンの上に豆腐とほんの少しのルーを乗せて食べる。複雑な刺激は舌がまだ生きていることを教えてくれて、ぴりぴりしていながらもただ辛さという痛みを乗せただけではない味で、体は盛んに活動しはじめる。豆腐の穀物らしき素朴な味わいだってカレーの原始的なスパイスの風味をどうしたって引き立ててくれる。彼の父のレシピだったかなんだか、金丹の舌鼓を打つにふさわしい仕上がりだ。我慢ならなくて一度シンクに置いてコップにもう一度水を入れて飲んだ。ルドラは食べている間一度だって余計な事を喋らなかった。音を立てずに食べる様子は育ちの良さが伺えて、サラマンダーもそうだとしたら面白いななんて考えてしまった。唇の端にルーがつけば黙って指で拭い、そしてスプーンに控えめにすくっているくせに大きな口で食べる。大学にいた頃にモテていた同期がこんな食べ方をしていたっけなとどうでもいいことをなぜか思い出した。
ご馳走様を言うほど彼らも律儀ではない。洗剤を泡立たせたスポンジで適当に洗い流して水切り台に置いておけば、あとは几帳面な悪党番が片付けてくれるだろうと思い至る。
「置いちゃっていいかねぇ」
「加熱しておくようにというメモは置いた、問題ないだろ」
誰かが悪戯で毒を混ぜなければ、とは今更なので言わない。彼らのいる事務所に猟奇的な実験をする悪党番は常駐していないはずだから、まぁなんとかなるだろうという彼らの投げやりな思考で片付けられた。
「薬研は洗っておけばいいか」
「うん。あとはこっちでやっとくから」
何かと手間のかかる薬研の手入れは素人にはさせられない。ルドラのことだから教えればきっとすぐにわかるのだろうけれど、これは意地だ。マスクの彼は冷蔵庫をなおも漁っている。
「何してんのぉ」
「ジントニックが飲みたくなった。トニックウォーターを探してる」
「自由すぎるでしょ」
なんてったって悪党番。自由な夜は更けていく。